事件発生
翌日、和泉が物件探しどころではなくなったのは、緊急出動の要請が入ったからだ。
中区流川町2丁目にて男性の変死体発見。ただちに現場へ急行せよ。
「これでしばらく部屋探しは保留だな、彰彦?」
聡介は嬉しそうに言った。
そうですね、と応えて和泉は通勤用の車に乗り込む。
しかし探そうと思えば空き時間に夜中でもネットで探すことはできるのだ。もっとも口にはしなかったが。
「ついでに、今夜の飲み会も流れましたね」
「そうだったな」
聡介はホッとしているようだった。
流川は市内随一の繁華街であり、東京で言うところの新宿歌舞伎町のような街だ。
数多くの飲食店が軒を連ねており、中には法すれすれの怪しい店も存在している。変死体が発見された場所はお約束のようにビルの間の狭い路地裏であった。
例によって現場に一番乗りしていたのは駿河だった。
彼は既に到着していた所轄の刑事達と話している。
鑑識員が作業を終えるまで刑事は中に入ることができない。ブルーシートに覆われた遺体発見現場から少し離れた場所で、和泉は声をかけた。
「おはよ、葵ちゃん。いつも早いね」
朝も早いというのにしっかりと身だしなみを整え、相変わらずの無表情で挨拶を返してくる。
彼はもしかしたら寝る時、枕元に手袋と腕章を置いているのではないだろうか。
「遺体の身元は?」聡介が訊ねる。
「身元を証明するようなものは何も持っていませんでした。ただ、服装や身なりから言ってこの近くで働いている飲食店の従業員と思われます」
彼らしいものの言い方だ。
しかし飲食店の従業員と一口に言ってもいろいろある。考えられることとして、調理師、ホールスタッフ、そしてホスト。
「要するにホストってこと?」
恐らく、と駿河は答えた。
「県警の高岡警部ですね?」
おそらく30代半ばぐらいであろう、比較的若い刑事が聡介に声をかけてきた。
「広島北署刑事課強行犯係、西野と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
最敬礼をしつつ、大きな声で言う。
おそらく彼が班長なのだろう。
もしかしたらこの春に任命されたばかりなのかもしれない。その張り切り具合は半端ではなかった。
「終わったぜ、親子丼。中に入ってもいいぞ」
鑑識班の班長、相原が声をかけた。
紺色の制服がよく似合う50代半ばの警部補はどう言う訳か和泉と聡介のことを『親子丼』と呼ぶ。
そして、
「やっぱりか」
「何がです?」
「呼ばれてすぐ現場にやって来るのは、いつもお前ら3人だな」
聡介は苦い顔をした。確かに友永、三枝、日下部へも連絡は行っているはずだ。
まぁ、今さら愚痴ったところでどうしようもない。
「ホトケさんを見るだろ? いやぁ、さすがの俺も今日の昼飯は食えそうにないな」
相原はいつもそう言う。和泉達はブルーシートをめくって中に入った。
ゴミバケツが並んだ路地裏に血溜まりが生々しく残っている。遺体は横たえられ、シートにくるまれていた。
顔を確認する。もちろん知っている顔ではない。
遺体はまだ若く、少年のようにさえ見えた。髪を明るい茶色に染め、耳にはピアスを5つはめている。
はだけたシャツの胸元、光沢のある黒いベストという身なりは、見るからにホストであった。
「王子なら一目見てすぐに、名前と働いてる店がわかりそうですよね」
「三枝か……しかし、あいつは一体何をしているんだ?」
「確か、このすぐ近くに住んでるはずですよ」
和泉と聡介が遣り取りしているところへ、ニャーと場違いな声が割り込んだ。
「あ、こら!」
一緒に中へ入った広島北署の西野が追い払おうとしたのは野良猫だった。
しかし、随分人に慣れているらしい猫はまったく意に介した様子もなく、ゴミ箱の上を優雅に歩き回っている。それから駿河の足元に降り立つと、彼の足に身体を擦りつける。
彼はしゃがみ込んで猫の頭をそっと撫でると、抱き上げてブルーシートの向こうに連れて行った。
その表情はいつになく柔らかく、優しい目をしていた。
戻ってきた時にはすっかりいつもの顔になっていたけれど。
「死因は鋭利な刃物で腹部を刺されたことによる失血死だそうです」西野が言った。
「滅多刺しだぜ? 相当深い恨みつらみがあったんだろうよ」と、相原。
「第一発見者は?」
「路地の表にあるラーメン屋の主人です。今朝、出勤したらカラスがひどく騒いでいたので、なんだろうかと思って裏に回ってみたところ……ということです」
「事情聴取は?」
「済ませてあります。ホトケとはまったく面識がないそうです」
「争った形跡はなし。おそらく顔見知りの犯行だな。にっこり笑って、いきなりブスっと刺したのかもしれん。ちなみに金目のものは全部持ち去られていた」
鑑識班の長は言った。