職業別電話帳
車の窓を開けると懐かしい海の匂いが鼻をくすぐる。
聡介も和泉も、元々の産まれはこの尾道市である。しかし今は郷愁に浸っている場合ではない。
聡介は急ぎ足で勝手知ったる有村会計事務所へ向かった。和泉も急いで後を追う。
事務所といっても事務員の女性がいる訳ではない。大抵、会計士であり事務所を運営している有村優作本人が一人でパソコンに向かっている。
到着すると、聡介は引き戸に手をかけて思い切りドアを全開にする。まるでガサ入れに入る地検特捜部か組織犯罪対策部の連中のごとく、だ。
「お義父さん、急にどうしたんですか?」
有村優作はたいして驚いた顔も見せず、パソコンに向かったまま言った。
和泉は彼を幼い頃から知っている。
自分もだいぶいろいろな人から「変わっている」と言われるが、彼もまただいぶ「変わった」人間である。
「聞きたいことがある」
仕事であることを強調するためか、聡介は警察手帳を開いて見せた。
「別に、お義父さんのお世話になるような真似をした覚えはありませんが……あれ?」
優作はパソコン用の眼鏡を外して笑った。
「アキ先生も一緒なんだ」
和泉が学生だった頃、趣味を生かして近所の公民館で子供達に将棋を教えていたことがある。
優作はその当時の生徒で、和泉のことを『アキ先生』と呼び、子供の頃からよく懐いてくれていた。変わり者同士で気が合うのかもしれない。
「暇じゃないので、5分以内にしてください」
確かに忙しいのかもしれないが、こういう余計な一言が聡介を刺激するのだということを、恐らく彼は自覚してない。
「7月2日! お前、その日岡山に行ったか?!」
優作は、はて……? と、首を傾げた。
「自慢じゃありませんが、ここ何ヶ月と県外に出ていません」
「……本当だろうな?」
「嘘をついてどうするんですか」と、優作は外国人がするように大げさに肩を竦めてみせる。
あ、また額に交差点が浮かんだ。
「じゃあ、この女は知ってるか?!」
聡介はポケットから高島亜由美の写真を取り出す。
「知りません」即答。
「ちゃんと見ろ!!」
ぐいぐい写真を押し付けるが、優作は迷惑そうに顔を背け、
「仮に会ったことがあるとして、俺が覚えていると思いますか?」
「……?」
「俺にとってさくら以外の女は全員、同じ顔に見えます。それに、自慢じゃありませんが男女問わずこの俺は、人の名前と顔を覚られません! 何しろ、学生時代は卒業式の日に初めて名前を知ったクラスメートがいるぐらいです」
何の自慢にもならないことを正々堂々と言われても、どうリアクションしていいのかこちらも戸惑ってしまう。
「……よくそれで商売が成り立つな……」
すると優作は鼻を鳴らして、
「仕事の方は、屋号と帳簿さえあれば何とかなります」
「優君の頭の中はまるでタウンページだね」
思わず和泉は言った。
「職業別電話帳か? たしかに、顧客の屋号と電話番号と住所はすべて頭に入っている。なかなか上手い例えだな」
「でしょー?」
マズい、そろそろ聡介が本気でキレそうだ。
和泉は口を噤んだ。
「本当に覚えはないんだな?」
「ありませんよ」
「MTホールディングスっていう会社の社長で高島亜由美っていうんだけど、優君、ほんとに知らない?」
「社名は知っている。顧客名簿にもある。だが、この写真の女には会った記憶もなければ名前も知らない。仮にここへ来た事があったとしても覚えていない。社名を名乗って来られたら社長も秘書も俺にとっては同じことだ」
「この女性社長がね、その日の夜に岡山のホテルで優君と一緒に飲んでたって言うんだけど。新しく出店するお店のことで相談して、その後に」
優先は記憶のひだをまさぐるような顔をしていたが、
「似た名前の別人じゃないのか?」と、言った。
「でも、君の名刺を持っていたよ」
「名刺なんていくらでも偽造できるだろう。二人とも刑事のくせに、まるで人の言うことを疑わないんだな。お義父さんもアキ先生も、その女社長にうまく担がれたんじゃないですか? そんなのでよく、今まで無難に警官人生やってこれましたね」
ぶちっ。
あ、キレた。
「このヤマが終わったら、1週間休暇を取る……」
いきなり聡介が言った。優作はそうですか、とたいして興味なさそうに相槌を打つ。
さすがの和泉も何を言いだすのだろうかと訝った。
「さくらを連れて旅行に出るからそのつもりで」
「……はい?」
「久々に一人でゆっくり羽を伸ばすといい」
「ちょっと待ってください、何言って……」
「行くぞ、彰彦」
聡介はくるりと背を向けて事務所を出て行こうとする。
「勝手なこと言わないでください! さくらは俺の……」
追いかけるようにして優作が叫ぶ。
「夫婦は切ろうと思えばいくらでも縁を切れるが、親子は一生切れない絆で結ばれているんだからな」
意味深な笑みを浮かべてそう言い残し、聡介はスタスタと歩きだす。




