駅前留学
周を送りだした後、美咲は一通りの家事を済ませて出かける支度を始めた。
今日仕事は休みだが英会話教室に行く予定がある。
この頃すっかり外国人観光客が増えた。基本的にはツアーでやってくる客が多く、添乗員が日本語を話せるので助かるが、個人的にやってくる外国人がいると、仲居達はおおわらわになってしまう。
一人だけ英語の話せる従業員がいるが、彼女だけにいつまでも頼っている訳にはいかないだろう。
夫とのコミュニケーションはメールだけという状態だが、美咲は思い切って賢司に英会話を習いたいと申し出た。すると彼は思いがけず快諾してくれた。授業料まで全額負担してくれるという。
何か企んでいるのかしら、と思ったが素直に礼を言っておいた。
教室は駅前にある。
授業は午前11時から。少し早目に出てウィンドウショッピングを楽しもう。
行ってきます、と猫達に声をかけて家を出る。
エントランスを出て歩き出した時、携帯電話が鳴りだした。母からだ。
母といっても血のつながりはない。実の母のように慕う女将のことである。
「もしもし?」
『あ、サキちゃん? 今、話して大丈夫?』
「うん、平気よ。私もちょうど電話しようと思っていたの」
『そうなの?』
「実はね、お母さん。周君がね……」
周が実家の旅館でアルバイトをしたいと言っていたことを伝える。
『そうなの? 嬉しいわぁ。男手はいくつあっても助かるから……それに、リゾートバイトで来てくれるはずだった人が急に一人キャンセルになっちゃって』
「でも、さすがに毎日って訳にはいかないけどね」
『そうよね……あ、ねぇサキちゃん』
「なぁに?」
『私、一度だけ周君を見たことあるんだけど……ほんとによく似てるわね』
「そうね、お母さんそっくり。でも、髪だけはお父さん似かしら」
『サキちゃんともよく似てるわよ』
「……そう?」
『この頃はどうなの? 仲良くやってる?』
「大丈夫。いろいろあったけど、助けてくれる人もいるし。それにね、やっぱり半分とは言っても血のつながった家族なの……だから……」
『サキちゃん……』
「私、後悔してないわ。周君に会えて本当に良かった。だから何も心配しないで。あ、駅に着いたからまたね」
美咲は携帯電話を切った。
路面電車に乗り込んで駅前に向かう。
オープンして間もない駅前のショッピングビルを見て回り、歩き疲れた頃にちょうどいい時間となった。講師はみんな外国人、が売りの英会話教室は、駅から歩いて1分ほどの雑居ビルにある。
美咲が教室に入ると、既に専任講師が来て待っていた。金髪碧眼の若い女性講師は美咲を見ると英語で何やら話した。
理解できなかったが、取り敢えず挨拶だと思っておいて、笑顔でごまかして席に着く。
そのすぐ後に「おはようございます」と、日本語で言いながら入ってきた女性がいた。
驚いて美咲は思わず腰を浮かせた。
それはつい昨夜、見かけた女性である。
「……おはようございます……」
確か名前は池田麻美。池田記念病院の院長夫人だったと記憶している。
寝不足なのだろうか、赤い眼をしている。
無理もないだろう、昨夜はきっと遅くまで招待客に挨拶回りをしていたに違いない。
授業が始まったので余計な話はできなくなった。




