8.〈ウォッシュ〉
狩猟組合でクリスラビットの角を銅貨50枚で買い取ってもらった。肉の部分は血抜きをしていないことを伝え、引き取ってもらう。その後、僕らは〈エリア・マップ〉で検索した宿に向かった。
三階建ての二棟を擁するこの街で一番大きい宿だ。といっても外観は他の家々と変わらないレンガ造りで、特別な高級感はない。あんまりみすぼらしいところだと不便そうだし、そういうところに行くのはここが払えないほど高級な宿かどうかを確かめてからでもいいだろう。
中に入ると、カウンターに同い年くらいの若い女性が立って書き物をしていた。
「すいません、泊まりたいんですけど」
「はーい、ご宿泊ですね。お二人ですか? 銀貨1枚になります」
「あの、別々の部屋がいいんですが」
「でしたら銀貨2枚ですね。あいにく、一人部屋はありませんので……」
どうやら二人部屋をひとつずつ使わなければならないらしい。とはいえ、一緒の部屋じゃマズイだろう。一泊が銀貨2枚ってことは、ふたりでクリスラビットを四~五羽ほど毎日狩れば、なんとか生活はできるということになるかな。結構、大変だ。
「じゃあ二部屋でお願いしま――」
「一部屋でいいですっ」
僕の腕を取って、白亜が言った。
え、ちょ。なに白亜、急に積極的なんですけど。マジで? 一緒の部屋に泊まるの? ……い、いいの?
驚愕に目を見開く僕に向けて、白亜は口だけを動かして何か言った。「お・あ・え」? あ、「おかね」か。
ううむ、確かにクリスラビットは強敵だった。一日に何羽も狩れるのかと言われると、自信はない。節約しなければならないのだろうか。いや白亜は節約した方がいいと考えてるんだよな。でも一緒の部屋に泊まるって……。ほんとうにいいの?
「じゃ、じゃあそれで」
「……はい。一部屋ですね。ではこちらにご記帳ください。いま部屋の準備をさせますので」
女性の目が微笑ましいものを見るような視線になっている。兄妹とかには、……見えないよなあ。最初に別の部屋でって言っちゃったし。なんか恥ずかしい。
案内された部屋は二階の角部屋で、水差しの置いてあるテーブルとふたつのベッドが並ぶだけの質素な部屋である。女性は「お湯を持ってまいりますね」と言って出て行った。多分身体を拭いたりするのに使えってことなんだろう。
「…………」
「…………」
沈黙が痛い。ていうか、ほんとうに一晩、これで過ごせるのか僕?
色々と決心がつかないまま、僕は「トイレ行ってくるから」と言って部屋を出た。
◇
尾籠な話になるが、トイレはくみ取り式だった。狭い部屋の真ん中に陶器で囲まれた穴が空いているだけである。隅っこに水桶とブラシが置いてあり、更に木箱に藁のようなものが積まれていた。
……ていうか藁ってなんだよ。どうやって使うんだよ。トイレットペーパーが見当たらないけど、つまりそういうことなのか?
お風呂はなさそうだし、トイレットペーパーは藁だし。ちょっと文明度が低すぎないかこの世界。苛立ちとともに僕は〈エンゼル・ホットライン〉を起動した。
『はい、天使です』
『なあ藁はないだろ藁は。いくらなんでも不便すぎないか、この世界?』
『あー……やっぱり衛生面は気になりますよね』
『ああ。僕だけならともかく、白亜がいるからな。ちょっとなんとかならないか』
『分かりました。おふたりには特別に、適性を無視して〈ウォッシュ〉を使用できるようにしておきます』
お、前回から引き続き話がわかるじゃないか天使。こいつの基準はいまいち不明だが、僕らに魔王とやらを倒してもらわなきゃならんのだ。この調子で精一杯サービスしてもらいたい。
『で、〈ウォッシュ〉ってのはどういう魔法だ。なんとなく意味は分かるけど』
『はい。水属性の魔法で、水塊を作り出し、それに触れたものに付着した汚れや雑菌を取り込んで綺麗にする魔法です。一般的な魔法のひとつではありますが、万人が使えるものではありません』
『ふうん? まあ、とりあえず試してみるよ。ありがとう』
トーク画面を終了して、さっそく使ってみることにする。
「〈ウォッシュ〉」
すると何かが吸い取られるような感覚とともに、コブシ大の水の塊が僕の目の前に落ち、トイレの縁をつるりと滑って穴に落ちていった。ああ、もったいない。速すぎてよく分からなかったけど、触れた部分の陶器が他と比べて明らかに真っ白になっている。こんなに汚れてたのかトイレ、汚いなあ。
それと使った瞬間の手応えもおかしかった。もしかしたらと思い〈マイ・ステータス〉を使ってみると、案の定MPが1点減っている。どうやら初のMPを消費する魔法らしい。というか今までの消費なしの魔法たちが便利すぎるような気がするな。どういう違いがあるんだろうか。
さっきのだけじゃよく分からなかったので、今度は手の平を上にして、そこに出てくるように念じながら使ってみることにした。
するとプルプルと震える水の塊が手の上に現れた。温度は温かくも冷たくもなく、人肌と同じくらいのようである。……で、これどうやって使うんだろう?
手で握ると、ぶにゅりとした感触とともに掴めたので、タワシのように反対側の腕を擦ってみることにした。あ、なんとか洗えてるっぽい。ホコリっぽかった腕がスッキリしたような気がする。でもこれ、身体を洗うのは大変そうだな。背中とかどうやって洗えばいいんだろう。
とりあえず持ち替えて腕を洗い、チュニックの下の腹を拭いてみると、少しずつ水塊が小さくなっていくことに気づいた。すぐに減る泡立たない石鹸って感じだな。いやでも石鹸自体は汚れを落とすわけじゃないんだっけか。汚れを浮かせるだけで水で洗い流す必要がある。そういう意味じゃ石鹸で例えるのは違うか。しかしこれ、ブヨブヨしてて掴みにくい。うっかりしたら落としてしまいそうだ。
慎重に手の届く範囲を拭き終え、余った部分をどうしようかと考える。水塊は気が付いたら手に吸い付くようになっていて、持つのが楽になっていた。小さくなったから、じゃないよな。あ、そうか。もしかしたら魔法って思い通りに動くんじゃないのか?
試しに手の平を上にして、水塊に動くように念じた。すると手の平から腕の方にのろのろと転がり始める。凄い、生きてるみたいだ。スライムがいたらこんな感じに違いない。
そうしてしばらく遊んでから、ふとトイレを占拠し続けるのは迷惑だと気づいて、慌てて出た。もちろん、用は足してからだ。〈ウォッシュ〉のこと、早く白亜に教えなきゃな。きっと喜ぶぞ。僕は来た時と打って変わってウキウキした足取りで部屋に向かった。