2.〈ストレージ〉と〈エンゼル・ホットライン〉
――僕は人生の勝利者だ。
腕の中には一条白亜。誰もが羨む美少女を抱きしめ、草原の真ん中で僕はそう確信した。
短い髪を撫で、その剥き出しになったうなじに指を這わせる。
「んん、……」
くすぐったそうに身を捩るが、僕は止めない。
髪を撫でながら空いている腕を腰に回して更に抱き寄せる。厚手の初期装備越しに彼女の温もりを味わう。こんなに白亜に触れるのは、いつ以来だろう。
ふたりの間で押しつぶされている彼女の双丘が存在を主張する。大きい方ではないが、こうして服越しにでもあることを確認してしまうと、俄然興味が増してしまう。
「……もう。くすぐったい」
キャッキャウフフは唐突に終わった。彼女が身を引きはがして、一歩距離を取る。嫌がられたというより、本当にくすぐったいようだった。
「ねえ。早く街に行こうよ。日が暮れる前に着かないと、危ないよ」
「え? あ、そうか。そうだよな」
幸せすぎてすっかり頭から消え去っていたが、僕らはこれから魔物を退治して人類の生存圏の拡大に寄与しなければならないのだ。
だがもう少しこの幸福を味わっていたかった。いや、これからいくらでも味わえるのだから焦る必要はないか。
僕は改めて自分たちの格好を見た。
チュニックは丈の長い厚手の長袖シャツで、首元に紐を通して結んである。布目の荒さが、この世界の技術力の低さを物語っている。初期装備だが防御能力はなく、完全に普段着だ。
下は膝丈のズボンで、こちらもただの普段着だろう。変わったところのない布製である。
唯一防御力がありそうなのがブーツで、これは脛まで覆うものだ。
武器はといえば腰に一振りの剣を差している。全長一メートルほどの短めの剣だ。刀身は鉄だろうか、ずっしりとした金属の重みを感じる。初めて持つ真剣だ。
これだけの装備で魔物を退治しろとは、随分と無茶を言うじゃないか。
視界の右下、ギリギリ気にならない位置にアプリのアイコンが存在している。僕は天使に文句をつけようとアプリを開いた。
『早速のご利用、ありがとうございます。天使です』
『この装備、貧弱すぎないか?』
『統一規格の初期装備なんですよ。これでも着の身着のままで放り出されて困ったとか、武器がなくて死にかけた、などの意見を参考にご用意させて頂いているものでして』
『ほう。だけど、このまま街に行っても買い物もできないし宿を取る金もないだろう』
『いえいえ、そんなことはございませんよ! 〈ストレージ〉の魔法をご使用いただければ分かるのですが、少額ではありますが資金を用意させていただいております。もちろん近隣の経済に影響を与えない額ではありますが』
『魔法? 魔法が使えるとは聞いていないぞ』
僕はアプリの画面を睨んでから、「〈ストレージ〉」と唱えた。
すると天使とのトーク画面が押しのけられ、持ち物の一覧が表示された画面がポップアップする。
『〈ストレージ〉
銀貨 ×9枚
銅貨 ×100枚
ポーション ×3個』
ふむ。お金以外にも回復アイテムもあるじゃないか。
手のひらを上にして、試しに銅貨三枚を取り出してみる。〈ストレージ〉の表示が『銅貨 ×97枚』に変化し、何もない空間から三枚の銅貨が落ちて、チャリ、と音を立てて手のひらに乗った。なるほど便利な魔法だ。これなら財布を持たなくて良さそうだ。
こんどは手のひらから銅貨を三枚落とす。何もない空間に消えて、〈ストレージ〉の表示に加えられた。
同様にポーションも取り出してみる。
こちらは手のひらに乗るようなコルクで栓がされた小瓶に、緑色のとろみのある液体が詰まっているものだった。小瓶のラベルを見ると、患部にふりかけても飲んでもいいらしい。今は必要ないので仕舞う。
そしてアプリのフキダシのような形をしたアイコンの下にひとつ、新しいアイコンが追加された。革袋のマークだ。
『おい。なんか増えたぞ』
『はい、〈ストレージ〉のショートカットを作成しました。〈ストレージ〉の魔法を使用するのと同様の効果がありますので、ご利用ください』
『……ん? ならなんで最初から用意していなかったんだ』
『それは今作ったから――げふんげふん。いや、順番。何事も順番が大事といいますか。一度に多くの機能を提供しますと、お客様が混乱されるのではないかと』
テキストチャットで咳き込むなよ、わざとらしい。
そういえばこの天使、リクルートスーツだったな。もしかしたら新人なのかもしれない。向こうも不慣れなのだ、そう思えば少しは広い心で見守ってやれなくもない。
『〈ストレージ〉のショートカットってことは。このトークアプリも魔法なのか?』
『いいえはい。そうですね。えーと〈エンゼル・ホットライン〉という魔法にします』
『……ふうん。ありがとう、助かったよ』
僕はひとまず天使との会話を打ち切り、白亜に向き直る。
すると白亜は目を丸くして僕のことを見ていた。
「え、どうした白亜」
「ねえ。いまの何? どうしてコインや瓶が出たり消えたりしたの?」
そういえば白亜の知識はどうなっているんだろうか。僕の告白にオッケーしたことになっているはずだが、それ以外の部分は確認していない。特に異世界に来ることになった経緯は、彼女の中でどのように解釈されているのか。
僕は〈ストレージ〉について白亜に説明しながら、再び〈エンゼル・ホットライン〉を開いた。
『白亜の記憶はどうなっているんだ? 異世界に来ている自覚があるようなのだが、どういう話になっている?』
『はい。お客様が異世界へ行くことになりましたので、その際にぜひ彼女である一条白亜さんを伴いたい、というお話になったと説明してあります』
『なるほど。他に僕の知っている白亜に何か変更とか説明はあるか?』
『いいえ、特には……あ、白亜さんは〈エンゼル・ホットライン〉を使えません』
『うん? そうなのか』
『はい。今回のサポート対象はあくまで松田翔様ですので、この世界で〈エンゼル・ホットライン〉を使えるのはお客様だけです』
『だが〈ストレージ〉は使えるみたいだぞ』
白亜は僕の説明を聞いて〈ストレージ〉を使い始めた。銀貨、銅貨、小瓶が出入りしているので、恐らく初期装備は同じ内容なのだろう。
『〈ストレージ〉の魔法はそちらの世界では一般的な魔法なのです。容量に個人差がありますが、大抵の人間は使える魔法でして』
『魔法の才能は、僕らどうなっているんだ。元の世界には魔法なんてなかったが』
『そこは当方では一切いじっていません。魔法の才能は完全に持って生まれたものですが、おふたりともこの世界の一般的なレベルかそれ以上のものはありますよ』
『ふうん?』
魔法のない地球では意味のなかった才能だ。平均以上を保証されているなら、魔法を学んでもいいかと思えた。
『あと、僕ら以外に地球人はいないのか?』
『おふたりだけでございます』
『そうか。あと、あそこに見えるのは街か?』
遠目に石造りの街壁が見えていた。30分ほど歩けば着く距離だろうか。こんなだだっ広いところを歩いたことがないので、距離感が掴めない。
『はい。あれはラッヘラカンプの街です』
『ありがとう』
聞きたい情報は聞けた。僕は〈エンゼル・ホットライン〉を閉じる。
「白亜も〈ストレージ〉は使いこなせるようだな。街に行こうか」
「うん!」
白亜は僕の横に来ると、並んで歩き始めた。なんとなくこそばゆい。僕らは街壁に向けて草原を進んだ。