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帰省

作者: 三合会

 本日は誠に晴天であった。空から燦燦と降り注ぐ太陽光線を乱反射した海がまるで宝石を散りばめたが如く輝く。たった今二両編成の私鉄列車から無人駅のホームに降り立った私はその海のまぶしさに目をしかめた。

 八月も下旬に差し掛かった頃、私は一年と半年ぶりに故郷である和歌山県中部のこの海沿いの小さな町に帰ってきた。これといった目的はない。ただ一年以上戻っていなかった故郷に対し何となくくすぐったいような思いが芽生えた次第であった。

 私は高校卒業後、京都市の私立大学に進学するためにこの町を出た。この町は満足なインフラ整備すらされていないためか私の卒業した最寄りの高等学校ですら隣町に位置している。進学や就職を契機に若者がこの町を去るのは至極当然のことであった。町に何もないことが災いしてか、帰省する者も少ない。私もその例に漏れず、これだけ久しぶりの帰省になってしまったのもアルバイトだとか勉強だとか適当な言い訳を並べつつもわざわざ何もない退屈な町に戻る気など毛ほども考えていなかったためである。

 そうやってないがしろにしてきた故郷に急に帰りたくなるとは人間とは実に調子のいい作りになっているものだ。鮭や鳥には帰巣本能があるが先祖がえりしたものかなどと実にくだらないことを考えながら無人駅を出て一年と半年ぶりとなる故郷の土を踏みしめた。海を背に開く唯一の出口を出て、八月正午の太陽が煩わしく照りつける眼前の道を見上げてみた。そこにはこの町を出たとき、最期に振り返り脳裏にしっかり収めておいた当時の景色が寸分変わらぬ様子で存在していたのであった。先ほどまで帰巣本能だとかつまらぬことを考えていた私だが、なるほどこの景色を再び目にせんと体が欲していたのかと勝手に自己解決しておいた。

 八月も下旬に差し掛かっているというのに未だ燦燦と輝く太陽の下を私は懐かしい道を辿って実家へと向かう。この道は高校生時分通学に電車を利用したため頻繁に通った道である。あの畑は変わっていない、あすこの掘立小屋はまだつぶれていなかったのかなどと昔の様子と照らし合わせながら歩くと、このうだるような暑さの中でも気力を失うことなく精力的に足を動かすことができた。私はあまり長くはない足をめいっぱい伸ばしながら一歩一歩歩みを進めていく。ふと右手の雑木林が拓けて蒼一色の世界が広がったとき、私はそこに目をやった。

 海。晴天の本日はまるで青空に満点の星空が広がっているかのごとく一身に浴びた陽光を乱反射させている海。そういえば内陸部に位置する京都市には海はなかった。久々に目にする海に懐古の気持ちを噴出させられた私は海岸へ向かって真っすぐ駆け出していた。街の空気を濁らせるほどの交通量もないため、海岸に出ると高純度の潮風を肺一杯に吸い込むことができた。さらに私は両腕を大きく伸ばし、立ったまま大の字を作る形で全身で潮風を一身に受ける。もう一度純度の高い潮風を肺に掻き込んで気分がよくなってきたところで体を大きく後ろにのけぞらせてみた。そこで視界に入って来た物の異様さに私は体をのけぞらせたままの体勢で静止した。四階建て程度の面白みのないコンクリ建築。マンション、というにはずいぶん洗濯物の乾きづらい場所に立っている。リゾートホテルというにもあまりにもしょっぱい作りである。いずれにせよ私が少年時分この海岸を駆け回ったときにも、高校に進学し朝日を浴びながらこの海岸の側の道を駅に向かって疾走していた時分にもこのような建築物が図々しく立っている姿は見受けられなかった。その見慣れない異様な建築物によって懐古の気持ちを削がれてしまった私は、肺に溜まっていた潮風を静かに吐きだし、海岸を後にした。ここから自宅までは徒歩数分といったところだ。


 私の町は人口一万にも満たない実に小都市である。私の生家はその過疎化の進む小都市のとりわけ人口の少ない町の片隅に位置していた。よって家の者が在宅していれば玄関に鍵をかけるということはめったに行わなかった。この習慣があったため京都へ発つ前に母に何度も家を空ける際は戸締りをしっかり行えと耳にタコができるのではないかと思うほど言われた。ちなみに本日も玄関扉の鍵はかかっていなかった。引き戸を引いて私はかつてやっていたように靴を脱ぎ散らかして家の中へずかずかと入っていった。

 居間で母親が昼間のワイドショーを実に興味なさげに眺めていた。おそらく一通りの家事を済ませたのであろう。母も他に楽しむ物があればそちらに注意を持っていくであろうがまったくこの町にはそれぐらい娯楽が存在しない。廊下に立ちすくむ私の気配に気が付いた母が先ほどまでワイドショーを見ていた退屈な目を一転させた。

「ずいぶんといきなり帰ってきたもんやな。一年と……一年ぶりか?」

「ごめんやで。やれバイトややれ勉強やで満足に連絡もできへんかったわ」

 私は母や父から電話を受ける度に口走るお決まりの言い訳を述べつつ、背負ってきた大きめのリュックサックから京都土産である八つ橋の入った紙袋を取り出しそれを母に手渡した。

「いやしかしいきなりやからびっくりしたで。電話の一本や二本入れてくれたらよかったのに」

 母は八つ橋を居間の卓袱台に置いて言った。私自身今回の帰省は突飛に思いついたもので、わざわざ母の耳に入れておく必要はないものと勝手ながら判断したためである。

「お昼ご飯は食べたか? 今から作るで」

 母の好意に甘えることにした。もっとも好意と述べたが母にとってこれは当然であるのだろうが一年以上一人で暮らし、学生食堂や大学付近の飲食店、自身で自炊を行うにしても腹を満たすには見返りや手数が求められるものなのだ。それを京都での一人暮らしでひしとかみしめたが故母の当然ともいえる行動が私にとって好意と感じられたのだ。昼食はオムライスだった。久々の『オフクロの味』は都会の絵の具に染まりきった私を郷の色に戻すのにもってこいの塗料であった。

 食事を終えて、とりわけ何もすることがなかった私は半ば上の空状態で居間にて付きっぱなしになっているテレビに映る退屈なワイドショーの続きを眺めていた。

 「あんた、電話やで」

 台所にて洗い物を片づけていたはずの母が受話器を持って私のもとにやって来た。

 「佐久間くんやで」

 佐久間。中学時代の親友の名だ。高校は私と異なり工業高校に進学した。家が近いということもあり高校在学中は付き合いがあったが、卒業とともにぱったり連絡を取り合うこともなくなった。親友とは建前であってめっきり付き合いもなくなっていたので母にすら帰省の連絡を入れていなかった私は当然佐久間にも知らせていない。私はそんな一抹の疑問を抱きつつ受話器を母から受け取った。

「久しぶりやな。覚えとるか。佐久間や」

 私と佐久間は中学時代ともに野球部に所属していた。私は続けなかったが、佐久間は高校に進学しても野球を続けていたためか、声の出しすぎで枯れた声は相変わらずであった。

「ああ、久しぶり。元気か」

「ん、まあな。しかしお前びっくりやで。買い物に行ってたオカンが駅で京都にいるはずのお前を見たっちゅーからな。帰省するんやったら電話の一本ぐらい入れてくれな」

 連絡の入れようがなかった。佐久間の連絡先は聞いていなかったし、わざわざ彼の自宅の電話番号など控えておく必要もないであろうと考えたためである。

「ん、まあしかしこういった形であれお前と交信を図れたからええわ。これから空いとるか?」

「空いとるが俺は今朝京都を出てきたんや。疲れとる。今日は実家の空気を楽しみながら休憩っちゅーことにしてくれや」

「そうか。ほんなら明日の午後、空けとけ。ちょっと来てほしいからな。ほな」

 佐久間は一方的に要件を伝えると電話を切った。どうせここにいる間は暇だったのだ。都会の喧騒にのまれすっかり忘れていた懐かしの町と友人との再会でさらに懐古の想いに浸ってみるのも悪くはないだろう。受話器を元の位置に戻し母と取り留めのない話をしていると弟が家に帰ってきた。

 私には三つ歳の離れた弟がおり、彼は今私が卒業した隣町の高校へ通っている。中学時代から続けていたサッカーを高校でも続けているため、八月下旬の本来高校が休みの本日も顔までこんがり日焼けするほど熱心に練習に励んでいたらしい。

「驚いた。アニキ帰ってたんか。少し痩せたんとちゃうか?」

「おう。手ぇでも洗ってこいや」

 弟は小麦色に焼けた肌に対し嫌に際立つ白い歯を見せて笑うと、部活用であろう背番号と名前の入った薄汚いエナメルバッグを居間に放り投げて洗面所へ駆けて行った。

「あいつ、がんばってるようで何よりやわ」

「あんたもこっち帰ってくる暇ないぐらいがんばってんやろ?」

 確かにアルバイトも申し訳程度の勉学にも励んでおり、活動皆無と言っていいほどのくだらないサークルに所属し、登校すれば会話を楽しむ程度の友人関係は存在するが帰省が不可能というほどでもなかった。単に面倒な帰省を見栄えのいい言い訳で着飾って母や自身を納得させていただけであった。その言い訳を真面目に受け取られ改めて指摘されると、自身の言い訳の拙さに苦笑する他なかった。


 母や弟と取り留めのない話をしているうちに陽も傾いてしまった。話を一段落させたのち私は縁側にて庭の向こう側に見える海に沈みゆく夕日が夕凪で作り上げた鏡のような海面にその姿を映し出しているのをぼんやり眺めていると夕食の準備ができたと母に呼ばれた。夕食は焼き魚だった。

 私たちが食卓を囲んだと同時に父が帰宅した。父は町役場に勤めており、町の外に出る必要もなくまた公務員のため陽が沈み切る前には帰宅することができたのだ。

「おお、おお。帰ってたのか。久しぶりやなぁ」

 父は微笑みながら食卓を挟み私の向かい側に腰を下ろした。

「お、今夜は魚かー。お前はちゃんと魚食ってるか? 少し痩せた気ぃするで」

「あー、親父も思うか? 俺もアニキ痩せたと思うねん」

 父と、話に首を突っ込んできた弟の遠まわしな心配を適当にあしらいながら私は母の手料理を昼食に続いてもう一度噛みしめた。自炊はするがたいていは外食、あるいは即席食品で済ませているため腹は満たしてはいるものの栄養を体に蓄えているとは言い難かった。それだけについ一年半前はあたりまえのように食していた母の手料理は噛みしめる価値があり、味わうに値した。

 じっくりと味わっていたつもりであったが思いのほか早く食べ終えた。私がこの家にいたときと変わりなく母は最初に食事を終えた者が一番風呂に浸かることができるようあらかじめ風呂を沸かしておいてくれたのだ。汗をかいたであろう弟を優先させてやろうかと思ったが、帰宅してシャワーを浴びたとのことなので私の気遣いは無用となってしまったため、先湯をいただくことにした。湯船の温度が夏場でも四二度なのも相変わらずで、夏場にしては少し熱いと毎回のように感じていた湯船に遠慮なく体を沈めた。上昇する体温とともに体中の血流が円滑になるのを全身で感じながら、湯船に浸かって右側にある小窓を全開にした。バスルームを明け方の山岳地帯を思わせるほど滞っていた湯気が追い立てられるように窓から出て行き、入れ替わりに家の裏側に映える海から潮風が入り込んできた。水蒸気の過密地域となって息苦しかったバスルームが瞬く間にさわやかな潮の香りに包まれる。窓の外から聞こえてくる潮騒と併せて、まるで海岸線に沸いた温泉に浸かっているかの気分に浸った。私は瞳を閉じ、月光に照らされる海岸線の温泉でくつろいでいる自分を脳裏に思い浮かべながら久々の湯船を楽しんだ。

 風呂上りに冷蔵庫で満足するほど冷えていた牛乳を一気に飲み干し喉を潤すと、そういえばせっかく帰省したのに未だ戻っていなかった自室に荷物を抱えていった。電灯は特に切れておらず、すんなりついた。私の自室は一年と半年が経過した今でも文字通り寸分変わらぬ状態で存在していた。無理に変化した点を述べると薄く積もったほこりが気になった点であろうか。しかし家具の配置から本棚の本の並び方、揚句はベッドの布団のシーツまでもが京都へ発つ前と変わっていなかった。母は家事を懸命にこなす人であったが多少いい加減な面もあった。それがけがの功名となったのであろうか、私の部屋だけが時が止まったかのようであった。私は湯上り冷めきらぬその体を、今までは寝苦しいと感じていたその固いベッドに横たえた。相変わらず固いうえ、ほこりっぽさも加わり通常ならばより寝苦しく感じる状態であったが久々の自室の匂いに安心した私は瞬く間に眠りの世界へと落ちて行った。今宵の気温は二六度。非常に心地のいい夜であった。


 移動の疲れもたまっていたためか、快眠であった。寝ぼけ眼で枕元の目覚まし時計で時間を確認すると正午をさしていた。昨夜眠りについたのは覚えている限りでは二十一時過ぎで、小学生以来の快眠だったかのように思える。私はふと昨日の佐久間との約束を思い出すと、居間に走り台所の戸棚に無造作に突っ込まれていたカップラーメンを取り出し、電気ポットのお湯を注いだ。父は出勤、弟は部活動、母も相変わらず隣街にある町工場のライン点検のパートを続けているらしく家には私の他誰もいなかった。私がカップ焼きそばの麺をすする音のみが寂しく家中をこだました。

 持ってきた荷物から自宅の鍵を取り出したところで家中を覆っていた静寂を呼び鈴の音が破った。佐久間がやって来たのだ。私は自宅の鍵をジーパンの右ポケットに無造作に突っ込むと小走りで廊下を一直線に玄関へ向かった。

「どちら様でしょうか」

 来たのは佐久間で間違いはなかったのであろうが私がそう言ってしまったのも無理はなかった。私が最後に見た佐久間は丸刈りで恰幅がよく、日に焼けて細い目をより細めて鍾乳石のような白い歯を見せて笑う陽気な男だったのだ。一方引き戸を開けてそこに立っていた男は、肌こそ健康的に浅黒いものの髪型は脱色を行ったせいか痛んだ縮れ毛の金髪で、頬は痩せこけ頬骨がくっきり浮き出ており、目は落ちくぼみ細い瞳の奥から見える目玉が爛々と輝いていた。

「誰やとはひどいな。佐久間や」

 昔の好青年と打って変わってしまった佐久間は酷くやに臭い息を吐き、不気味なほど痩せこけた顔に無理やり微笑をたたえた。その際に口元から見えた歯は昔と違って鍾乳石のような美しい白さはなく、たばこの吸いすぎか黄色く汚れてしまっていた。

「いや、異常にお前痩せとるからな。いったいどないしたんや」

 佐久間は適当な苦笑をたたえて、お次は何かを思案するように落ちくぼんだ瞳を泳がせた。表情の豊かさは相変わらずであったため私は心の隅で安心した。

「まあとりあえず商店街の方まで歩かんか? 同じ方向やしな」

「何が同じ方向なんや?」

「まあ歩きながら話そうや」

 佐久間の一言を合図に私たちは出発することにした。商店街とは言っても私の自宅から最寄りの駅が無人駅であることから連想できるものかと思うが、個人営業の飲食店やコンビニや書店などの店舗が集中し少しばかり栄えている地域であった。京都の盛り場とは程遠い、簡素でなおかつ素朴なものであった。

 佐久間は高校卒業後海南市のプラスチック製日常用品の工場に就職した。それから半年後に父親が病床に伏し、稼ぎ頭が就職して間もない佐久間となってしまった。父親の入院費や弟と妹の学費、家族の生活費が母親のパートだけで賄えるはずもなく、佐久間の少ない給料で細々と生活をせざるを得ない状況になったという。

「切り詰めるんは……まずはメシや。俺は若いし体力もあるから少しばかり食わんでも動けるが、病気の親父はしっかり食って精をつけてもらわなあかんし、何より弟と妹は育ちざかりやからしっかり食うて欲しいんやわ」

 下手に同情してやることも、憐れみをかけてやることもできず私はただ頷いていた。そうしている間に商店街にたどり着いた。とりあえず私にできることは憐憫の意を手向けるよりも、おそらく昼食を摂って来なかったであろう佐久間に何か食わせてやることだった。商店街に入るとすぐに、私や佐久間が学生時代に行きつけだった個人経営の食堂が見えてきたので、遠慮する佐久間を半ば強引に引っ張りこんだ。

 外装はそのままのくせ内装は大きく改装したようで、最後に来たときは汚い大衆食堂だったものが現在では小奇麗なレストランといった風体に変わっていた。

「いらっしゃい。おう、君らあの時の高校生やな。しばらくやないの」

 奥から出てきた初老の男性店主は相変わらずであった。私と佐久間は微笑して適当に会釈するとおのおの席に着いた。

「何でも好きな物頼めよ」

 店主がお冷を二人分持ってくる。暑かったせいもあり私はすぐにそれに手を伸ばした。

「ええんか?結構高いぞ?」

 私はお冷を飲む手を止めた。確かに佐久間は昔からよく食べたがこの食堂では取るに足らない値段であった。佐久間め遠慮しているのかと苦笑しつつ真新しいメニュー表に手を伸ばし、私は目を疑った。メニューの値段が過去の倍になっていたのだ。たとえば私が好んで食していた生姜焼き定食、私が最後にここで食したのは高校三年の秋でおよそ二年ほど前だが、当時は550円だった。しかし今はというとその倍の1100円となっていた。

「な?1000円もする定食なんて申し訳ないわ」

 京都市ではこの程度の値段の定食屋など掃いて捨てるほど存在するが、この全国チェーン展開する飲食店すら見当たらない片田舎では悪い意味で希少なのであろう。佐久間は申し訳なさそうに私を見つめた。

「高いと思いますやろ? これでもぎょうさん売れますんやわ。最近町長が公共事業を始めはったんで町外から作業員の方らが来はってここで食事してくれますんやわ。飲食店はウチぐらいしかないもんですから多少値段を高くしても食いに来てくれはるんですわ。おかげさんで店の改築までやらしてもろてますわ」

 店主は笑顔で嬉々として語った。この店主は、ふくよかなほお肉を釣り上げて細いたれ目を糸のように細めて笑う容姿が七福神の恵比寿神とよく似ており、なおかつ良心的な値段で美味の料理を提供してくれたため『えべっさん』と地元民からは呼ばれ慕われていた。私も例に漏れずこの『えべっさん』を慕ってはいたが、今のえべっさんは金儲けに目がくらんだ子汚い中年にしか見えなかった。

「佐久間。何でも頼め。多少高くとも奢ったる」

 佐久間の言った通り私も食事を切り詰めて生活費を最小限に抑えていた。外食も1000円以上はできる限り使わないようにしていた。しかし佐久間の痩せようや定食の異常な値上がり、さらには昨日海岸沿いに見た見慣れない建造物など自分のよく知った町が知らない町へと変わっていくもどかしさの表れと、それらに対する警笛を鳴らしたつもりだった。

 佐久間は一番安い焼き魚定食を頼み、私はコップ一杯のメロンソーダでのどを潤した。佐久間の定食は最後に食べたときの記憶と比べてみると、量も減っているように見え、また味も以前より落ちているように感じたと佐久間は語った。

 それゆえあまり居心地よく感じなかった私と佐久間は食事を済ませると勘定を済ませそそくさと席を立った。かつては食事が終わっても長居したものだが、この店がかつて長居したそれと大きく異なるものになっていると理解した今私たちは一様にすぐにその場を立つことを暗黙のうちに了解したのだ。

「連れて行きたいところって一体なんや?」

 店を出るなり私を先導する形で歩き出した佐久間に問うた。

「鷲塚先生は覚えてるか……?」

 鷲塚とは私と佐久間の中学時代の恩師だ。高校に進学してもたびたび佐久間と母校を訪れては恩師に会いに行ったものだった。

「鷲塚先生に会いに行くんか?」

 佐久間はそれ以上何も言わず私を先導し続けた。どちらかというと口数の多い佐久間が黙り込んでしまうことが妙だと感じた私はこれ以上の詮索をやめた。

 佐久間は私を町はずれの方向へ導いて行く。鷲塚恩師の自宅は存じなかったが、間違いなく現在向かっている方向ではないという確信があった。この先は共同墓地であったためである。

「なあ佐久間……」

「着いたで」

 重苦しい沈黙が醸し出す黒い霧のような不穏な空気を打破するためにひり出した私の呼び声を遮るように佐久間が声を出すとともにこちらを振り返った。共同墓地などと名付けられてはいるが住む人間が減っているため当然ながら墓に入る人間も少ない。私が佐久間に追従しながら思案にふけっている間に墓地の最深部である海が一望できる小高い丘陵になっている場所にたどり着いていた。こちらを振り返った佐久間の先にあったのは、鷲塚と名が打たれていた真新しい一つの墓標であった。

「鷲塚先生な、亡くなったんやわ。半年前やな。交通事故や。唐突な出来事やったわ」

 佐久間はジーパンのポケットから線香とオイルライターを取り出し、線香に着火した。

「なんで連絡してくれへんかったんや」

「お前がこっちに帰ってくるときに連絡を寄こせへんかったのと同じ理由や」

 連絡のしようがなかったということであろう。

「せやったらウチの親にでも伝えてくれれば……」

「お前に直接伝えたかったんや」

 この線香の用意周到さを見てわかる通り、佐久間は準備のよい気の利く男であるが、愚直である性格が災いしてか時たま意固地で融通の利かぬ面があった。本件も佐久間は私を想っての行動だったのであろう。私は佐久間緒この愚直さを憎んだが、私が佐久間と親友でいられたのは彼の愚直さがあっての賜物であった。それゆえ私はこれ以上彼を責めることはできなかった。

「お前も鷲塚先生に線香備えたってくれ」

 佐久間は着火し頂から細い煙を立ち上らせる一本の線香を私に差し出してきた。私は黙ってそれを受け取ると、鷲塚恩師の墓標の前にそっと立てた。

 私は手を合わせ、目を瞑った。本来ならばここで鷲塚恩師との思い出を脳裏に思い浮かべ、葬儀に出席できなかったことを詫びるのであろうが、私の脳裏に浮かんだのは痩せこけた佐久間の顔、異常な値上がりの末店の改築にまで手がけかつて行きつけだった飲食店、そして海岸線にたたずんでいたあの意味不明の建物だった。私にとって大変世話になった恩師の死は、これからも相変わらずであろうと高をくくっていた田舎町が少しずつではあるが確実に遂げて行っている変化の一つにすぎないと心のどこかで考えていたのかもしれない。

 帰り道、私も佐久間も無言であった。先ほどまでの沈黙は気まずさが根底にあったが、今の沈黙は私と佐久間の間に大きな隔たりが出来上がってしまったかのような沈黙であった。

 しばらく歩くと小さな十字路に差し掛かった。町はずれの墓場、商店街、海岸線、私の自宅の並ぶ小規模な住宅の並び。墓場からこの道に出た経験はあまりなかったが、このひとつ目の角なら目を瞑っても曲がれる。この角を曲がり切って少しでもこの町が相変わらずであることを自分に言い聞かせたかった。張り切った私は目を瞑って歩いて行ったが、角を曲がったと思ったあたりで額に衝撃が走り、瞼の裏に満点の星がきらめいた。

「おい、何やってんや⁉」

 佐久間が私のもとへ駆け寄ってくる。瞼を開き、涙でかすんだ瞳で前を見ると、ぼんやりと赤いポストが目に映った。京都市などの都市のそれとは異なる、旧式丸型の背の高いポストであった。

「大丈夫か? ここ最近新しいポスト設置したんや。ガキの頃は目ェ瞑ってでも曲がれたのになァ」

 ぬぐったはずの瞳が再び涙でかすんできた。涙の理由は額の痛みではなかった。私は右手の平で両目とぶつけた額を覆って、ポストの前に屈みこんだ。


 その日の夕食はとんかつであった。私が佐久間と別れ、帰宅した頃にはすでに傾いた陽で世界は紅く染まっており、私を除いた全員が食卓を囲っていた。私は家を出て行く以前自身の定位置になっていた場所に腰を下ろし、食事に手を付けた。

「おとん、海の近くに見覚えのない建物が立っとるんやけども」

「ああ、あれはな、国民宿舎や」

 私が質問を最後まで言い終える前に父は即答した。町役場に勤めているからであろうか、はたまた町民からの質問が多いためか。

「去年町長が変わった。町長選なんかにぎやかなことはやっとらん。こんな小さな町や。無投票当選やったわ。で、その新町長の方針で、観光産業振興のためにあの宿舎を税金で建てたんやけどもな。まぁ、おまえも何となくわかるやろ。こんな海と少しばかりの農業と軽工業の町、誰も来んわ」

 父は箸をせっせと動かしながら表情も変えず言った。

「そらとんだ税金の無駄やな」

「少しぐらい無駄にする税金はあったんやけどもな」

「税金はともかく、景観が崩れてしまうのがネックやな。地元民として」

 私の本音だった。町の外で大学生をやっているかぎりこの町に税を納めることはないため税金の話などはどうでもよかった。

「景観が崩れるから建てるのは反対、この町の人らも考えてることはお前と同じや。せやけどさっき言った通りこの町は軽工業とちょっとの農業しかないし、どんどん過疎化が進んでる。観光開発でもしてすこしでも外から人呼んで、あわよくば魅力を知って移住でもしてもらわん限りはこの町は吸収合併されてまうわ」

 話してばかりで食事を怠っているように見えた父であったが、すでに米もおかずも平らげており、咥えた煙草に火を灯していた。

「こんな片隅の田舎町でもな、変わらざるをえないんや」

 煙草の煙を吹かしながら、父は私の目をじっと見据えた。


 風呂から上がった私は縁側で、吹き込む心地よい潮風に当たって火照る頭を冷やしていた。夢見心地になる中私は食卓で父に言われた言葉を反芻していた。

「変わらざるをえない」

 それは佐久間にしても、行きつけだった飲食店にしても、恩師にしてもかつては目を瞑ってでも曲がれたひとつめの角にも当てはまることなのかもしれない。父の理屈はもっともなのだがなぜ私がよいと思える方向に変わることがなかったのであろうか。潮風に吹かれながらなかなか冷めない頭で考えてみたが、結局答えが出ないので中断した。縁側から立ち上がった私は自室に向かって廊下を歩いた。扉を勢いよく開くと、弟がベッドの上に寝そべって週刊誌を読んでいた。

 弟の部屋に最後に入ったのは確か一年半前の家を出る直前だった。その時と比べると部屋の家具の配置が明らかに変わっていた。

「なんや?」

 私の部屋はもう少し先であるが、弟の部屋に隣接していた。湯上りを理由に弟に詫びを入れるとさっさと退出し、自室へ向かった。

 自室は安心できる。町は様相を変え、親友を含む人も様相を変え、身近に感じていた家の中でさえ様相が変わっていた。その中で唯一変わっていないのは私の部屋だけであり、この場所だけが聖域が如く時が止まっているようであった。ここで気を取り戻した私は小学校入学時に祝いとして買ってもらった学習デスクの上に乗っているCDラックに手を伸ばし、お気に入りのアーティストのアルバムを取り上げようとしたが、ふと手を止めた。

「あのCD、そういえば京都に持って行ったよな」

 自身がもたらしたとはいえ自室にも小さいながら変化があった。ほんの小さなことではあるが私にとっては思わず独りごちてしまうほどであった。喪失感に苛まれぼんやりと佇む私をあざ笑うかの如く降り注ぐ月光が、一人芝居の役者を意地悪に照らすスポットライトのようであった。


 その日はあいにくの曇り空であった。私は無言でせっせと鞄に荷物を詰める。

「なんやもう行ってしまうんか。ゆっくりしていけばええのに」

 母親がそんな私の姿を見て言う。

 町は変わった。私を取り残して。だんだんと私の知る故郷ではなくなっていく。強い喪失感に苛まれ、半ば感情的になってしまった私は速足に京都の下宿に戻ることに決めた。

「うん、バイトや勉強もあるしな」

 私は、最初は二度と言うまいと考えていた拙い言い訳を口走った。母はこの町の人間である。この町とともに変わっていく。私の感じた変化を正直に話すと母は笑って一蹴するであろう。それを恐れたのだ。

「俺は京都へ帰る……」

 私は詰め込みを終えた荷物を背負いこんだ。

「そうか、ほな駅まで送ったるわ……」

 母は私の目を見ず言った。

 駅前の道程は互いに無言であった。私は道程をたどりながら町に帰って来たばかりの一昨日を思い出していた。海岸が左手に広がる。あの殺風景な国民宿舎も目の端に映った。一昨日は星を散りばめたが如く太陽光線を反射して光っていた海が本日はどんより曇っている空を映し出して埃をふき取った雑巾を洗ったような灰色だった。海の様相は一昨日も本日も私の心境を映したかのようだった。

 海ばかり見ているとすでに最寄りの無人駅に着いていた。私はこの駅から再び旅立つ。

「あんた、故郷はここだけやで。帰ってくるのはここだけやで」

 母はそう言って私にラップで包んだおにぎりを渡してくれた。私は無言でそれを受け取った。

「行ってらっしゃい」

 行ってきます、と私は答えなかった。母を、故郷を振り返ることもなく、私はホームへと上がった。


 二両編成の電車は北へ北へと向かっていく。車窓からは灰色の海が見えていた。海に映る灰色の空からしとしとと雨が降り出した。強い雨ではなかったが、車窓の風景をおぼろげにするには十分であった。

 電車は故郷からどんどん遠のいていく。雨が遠のいていく故郷に暗幕を張るかの如く降りつづける。私は遠ざかって見えなくなっていく自身と故郷の距離が永遠のものに感じられた。


最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

本作品は、実際に故郷を出て異郷の地で暮らす私が故郷に久々に帰郷して感じた違和感やうら寂しさをそれっぽくまとめた作品とさせていただきました。

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