浜辺の怪物
巨大な異形と重なる少女たちの声──。
海から現れた「それ」は、ただの怪物か、あるいは歪んだ愛の果てか。
これは、崩壊する日常と、逃れられない甘美な侵食を描いた物語。
どうぞ、その異様な世界の底までお付き合いください。
それは一目では何なのか、わからなかった。部屋を狭めていたらそれはただの黒い壁だったからだ。遠目にして視野を広げてゆくと、その壁は2色に塗り分けられているのがわかった。
さらに視野を拡げてよくよくみれば、2色に塗り分けられているのは、船の喫水線であることがわかった。
あまりに巨大な故に、壁にしか見えなかったものは、巨大な航空母艦の艦体ではないかと彼に思わせた。
海上自衛隊にこのような大きさの航空母艦が就役しているなどとは聞いたこともなかった。
━━するとこれは……?
思ったその時だった。
巨大な黒い壁の表面が、ズ、と蠢いた。
艦体と見誤ったその皮膚の表面で、何千枚もの濡れた鱗が一斉に逆立ったのだ。船の塗料だと思っていた赤と黒の境界線からは、粘り気のある透明な液体の濁流が噴き出している。
「あ……」
聲にならなかった。彼は立ち尽くしたまま、己の認知が完全に破綻していくのを悟った。
目の前に聳え立っているのは鉄の塊などではない。砂浜に打ち上げられた、あまりにも巨大な海棲の「何か」だ。
突如、頭上のはるか高所から、雷鳴のような音が響き渡った。
──すき。
鼓膜を揺らす地鳴りのようなその音は、紛れもなく少女の声だった。甲高くて、甘ったるい、しかし数万人分の声を重ね合わせたかのような異形の音響。
音のした見上げるほどの高所、空母の艦橋にあたる位置に、ぽつんと大きな「眼」が開いた。無数の血管が脈打つ瞳孔が、砂浜に立つ小さな彼を捕らえる。
それと同時に、少女の姿をした異性が、艦体のあちこちから「生えて」きた。
濡れた黒髪の少女たちが、まるで体毛のようにびっしりと壁面を覆い尽くし、一斉に彼へと首を向ける。白目をむいた顔、微笑む顔、泣き叫ぶ顔。それら無数の少女の唇が一斉に動き、重なり合う大音響となって彼の脳を直接殴りつけた。
「ずっと、あいたかったの」
逃げようと引いた足が、いつの間にか伸びてきていた赤黒い粘液に絡め取られて動かない。
波打ち際を埋め尽くしていた黒い壁が、彼を包み込むようにゆっくりと折りたたまれ始めた。視界が閉ざされていく。船の腹だと思っていた巨大な亀裂が観音開きに割れ、その奥から爛々(らんらん)と輝く巨大な「異性」の核が顔を出した。
「いっしょに、海へかえろうね」
暗転する視界の中、彼は無数の少女たちの腕に全身を優しく抱きすくめられた。巨大な怪物の胎内は、温かくて、ひどく甘い香りがした。
【了】
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
「巨大な船に見えるほどの異形」と「そこに群がる少女たち」という、圧倒的な異物感と少し歪んだ愛しさを詰めた短編です。恐怖と同時に、どこか逃れられない甘美さを感じていただけたなら幸いです。
また別の物語でお会いできるのを楽しみにしています!




