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可動域  作者: noriduke
7/8

7. 伸展

文化祭当日の朝、体育館の空気はまだ誰のものでもなかった。


椅子が並べられ、照明が仮設の鉄骨に吊られ、スピーカーのチェック音だけが空間のあちこちで跳ねている。床には何本もの白線が引かれていて、いつもの第二体育館より少しだけ“見られる場所”の顔をしていた。見慣れたはずの場所が、本番の日だけ別の建物みたいに感じることがある。ハルカはああいう変化があまり好きではない。場所の輪郭が一段固くなり、そのぶん、立つ人間の輪郭までくっきりさせようとするからだ。


更衣スペースでは、二年の子たちが髪を整え、ヘアスプレーの粒子が白く漂っていた。部長が人数を確認し、顧問が袖の長さを見て回る。誰かが「ピン貸して」と言い、別の誰かが「やばい、もう緊張してきた」と笑う。


ハルカは鏡の前で、耳の横の後れ毛だけ指先で押さえた。

何度も踊ってきた振りだ。位置も、呼吸の置き方も、身体はもう知っている。なのに本番の前だけは、自分の身体が急に“誰かに見られるもの”として外側から立ち上がってくる。昔からそうだった。慣れることはあっても、なくなりはしない。


鏡越しに、少し離れたところにいる星莉が見えた。

衣装に着替えた星莉は、普段よりさらに線が細く見える。細いのではなく、余分なものを削って立っている感じだ。表情は変わらない。緊張しているようにも、落ち着いているようにも見える。そう見せるのがうまいのだと思う。けれど、今日はハルカにもわかる。ロッカーの前に立つ足の重心が、いつもよりわずかに前にある。いつでも引ける立ち方ではなく、逆に、前へ倒れないように調整している立ち方だった。


ハルカは目を逸らした。

それを“見つけた”顔で受け取らせたくなかった。


本番前の最終確認で、全員がステージ袖に集まる。

照明が一度落ち、暗がりの中で舞台袖だけが薄く青く残る。観客のざわめきが壁越しに伝わってくる。高校生の文化祭らしい浮いた声、椅子を引く音、司会のマイクテストのくぐもり。近い。近いのに、そこへもう手は届かない。


「いくよ」


部長の小さな声に、全員が頷く。

ハルカは自分の立ち位置へ入る。星莉はその後列、少し右にずれた位置に入る。練習のときと同じで、背中越しに気配が届くくらいの距離だった。


暗転。

拍手。

イントロが入る。


最初の数小節、全員の身体は少し硬い。舞台に出た最初の数秒だけ、呼吸がまだ客席の空気に馴染まない。ハルカ自身もそうだ。


サビ前の移動。

ハルカは自分のカウントだけを取る。

前の列の肩、隣の子の腕、後ろから来る気配。全部見える。でもその全部に手を伸ばさない。自分の身体を正確に置くことだけに集中する。助けるためでなく、自分が立つための動きとして踊るのは、思っていたより少し難しかった。


一番が終わる。


照明が切り替わり、二番へ入る。

ハルカはそこで初めて、星莉のほうを見た。見ようとして見たというより、流れの中で視界に入った。


星莉はまだ少し硬い。

肩は完全には落ちていないし、指先も慎重だ。


問題は、そこではなかった。


二番の中盤、照明が少し落ちる。

客席から見れば一瞬の色替えにすぎない。けれど踊る側にいると、その薄い暗がりが呼吸の置き場を変えることがある。


カウントのシックスで、星莉の右腕が上がる。

七で、肩甲骨が開く。

いつもなら、その次のエイトで少し引っ込むはずのところを、今日は引っ込まなかった。


ほんとうに、一瞬だった。


腕の軌道が少しだけ長い。

目線が床へ逃げない。

呼吸がそこで切れない。

それだけの違いなのに、ハルカにはその一瞬がはっきり見えた。


身体のどこかが、すぐに埋めたがる。

崩れる前に拾う。詰まる前に通す。

そういうふうに覚えてきたものが、わずかに前へ出る。


見えたままにする。


左足は動かない。

自分の身体を、自分のカウントの中へ置いたまま、次の一拍が過ぎる。


曲はそのまま流れ、最後のポーズへ向かう。

エンディングの移動は崩れない。全体も落ちない。拍手が一段大きくなる。照明が熱い。衣装の生地が汗で肌に張りつく。音が止まり、ポーズをほどくまでの一拍がやけに長く感じた。


袖へ戻ると、一気に全員が息を吐いた。

「やばい」「ミスったかと思った」「でも楽しかった!」と声が飛び交う。二年の子たちはもう半分泣き笑いで、部長が「はい、まだ片づけまでが本番」と笑っている。顧問も、いつもより少しだけ大きく頷いていた。


ハルカはタオルを取ろうとして、手が少し汗で滑るのに気づいた。

いまさら遅れて心拍が上がってくる。踊っている最中より、終わったあとで身体が自分の重さを思い出すことがある。


視線の先に、星莉がいた。


星莉は壁際でペットボトルの蓋を開けていた。表情は大きく変わらない。けれど、息が上がっていることを隠さない。


ハルカは一度だけ呼吸を整えてから、近づいた。

身体に引かれて行くのではなく、行くと決めてから歩く。


「星莉」


呼ぶと、星莉がこちらを見る。

目が合う。

その視線はすぐには逸れない。


ハルカは何を言うか最後まで決めていなかった。


言葉が出る前に、星莉が先に口を開いた。


「見てました」


ハルカの口が少し開いたまま止まった。


「……そっか」


「先輩のせい……です」


声は平らなのに、どこかだけ前より柔らかい。

責めているようにも聞こえるし、そうでもない。

意味を決めようとすると逃げていく類の言い方だった。


ハルカは少しだけ笑う。

笑って、それ以上を足さない。

“せい”のまま置いておくほうが、たぶん正しい。


星莉の肩がほんの少しだけ落ちる。

見逃す人のほうが多いくらいの変化だったが、ハルカにはわかった。

いつもなら先に閉じる肩が、今日は閉じきらない。


誰かが後ろで「写真撮るよー!」と叫ぶ。

部員たちが集まり始め、空気がまた日常へ戻っていく。ハルカは一歩だけ横へずれ、星莉の通り道を空けた。星莉は「ありがとうございます」とは言わず、ただその空いた幅だけを使って通った。すれ違う距離は近いのに、以前みたいな硬さがなかった。


写真のあと、片づけをして、衣装を返して、体育館を出るころには空はすっかり暗くなっていた。

廊下の窓に、自分たちの姿だけがぼんやり映っている。ハルカは歩きながら、そのガラスに映った星莉を横目で見た。星莉も同じ方向を見ていた。


いまは苦しくない。楽ともまだ言い切れない。ただ、同じ速度で歩ける。


昇降口の手前で、星莉が立ち止まる。

ハルカも足を止めた。


「先輩」


「ん?」


「……今日のこと」


そこで言葉が切れる。

切れたまま、星莉は少しだけ視線を下げる。何かを説明しようとしてやめた人の目だった。


「別に、まだよくわからないです」


ハルカは頷いた。


「うん」


「でも」


星莉はそこで初めて、ほんの一瞬だけ笑う手前みたいな顔をした。笑ったわけではない。ただ、口元の硬さが少しほどける。


「前よりは、嫌じゃなかったです」


それだけ言って、星莉は先に靴箱のほうへ向かった。


ハルカはその背中を見送る。

追いかけない。

名前をつけない。

それでも、何かが変わったことだけは、もう十分にわかっていた。

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