7. 伸展
文化祭当日の朝、体育館の空気はまだ誰のものでもなかった。
椅子が並べられ、照明が仮設の鉄骨に吊られ、スピーカーのチェック音だけが空間のあちこちで跳ねている。床には何本もの白線が引かれていて、いつもの第二体育館より少しだけ“見られる場所”の顔をしていた。見慣れたはずの場所が、本番の日だけ別の建物みたいに感じることがある。ハルカはああいう変化があまり好きではない。場所の輪郭が一段固くなり、そのぶん、立つ人間の輪郭までくっきりさせようとするからだ。
更衣スペースでは、二年の子たちが髪を整え、ヘアスプレーの粒子が白く漂っていた。部長が人数を確認し、顧問が袖の長さを見て回る。誰かが「ピン貸して」と言い、別の誰かが「やばい、もう緊張してきた」と笑う。
ハルカは鏡の前で、耳の横の後れ毛だけ指先で押さえた。
何度も踊ってきた振りだ。位置も、呼吸の置き方も、身体はもう知っている。なのに本番の前だけは、自分の身体が急に“誰かに見られるもの”として外側から立ち上がってくる。昔からそうだった。慣れることはあっても、なくなりはしない。
鏡越しに、少し離れたところにいる星莉が見えた。
衣装に着替えた星莉は、普段よりさらに線が細く見える。細いのではなく、余分なものを削って立っている感じだ。表情は変わらない。緊張しているようにも、落ち着いているようにも見える。そう見せるのがうまいのだと思う。けれど、今日はハルカにもわかる。ロッカーの前に立つ足の重心が、いつもよりわずかに前にある。いつでも引ける立ち方ではなく、逆に、前へ倒れないように調整している立ち方だった。
ハルカは目を逸らした。
それを“見つけた”顔で受け取らせたくなかった。
本番前の最終確認で、全員がステージ袖に集まる。
照明が一度落ち、暗がりの中で舞台袖だけが薄く青く残る。観客のざわめきが壁越しに伝わってくる。高校生の文化祭らしい浮いた声、椅子を引く音、司会のマイクテストのくぐもり。近い。近いのに、そこへもう手は届かない。
「いくよ」
部長の小さな声に、全員が頷く。
ハルカは自分の立ち位置へ入る。星莉はその後列、少し右にずれた位置に入る。練習のときと同じで、背中越しに気配が届くくらいの距離だった。
暗転。
拍手。
イントロが入る。
最初の数小節、全員の身体は少し硬い。舞台に出た最初の数秒だけ、呼吸がまだ客席の空気に馴染まない。ハルカ自身もそうだ。
サビ前の移動。
ハルカは自分のカウントだけを取る。
前の列の肩、隣の子の腕、後ろから来る気配。全部見える。でもその全部に手を伸ばさない。自分の身体を正確に置くことだけに集中する。助けるためでなく、自分が立つための動きとして踊るのは、思っていたより少し難しかった。
一番が終わる。
照明が切り替わり、二番へ入る。
ハルカはそこで初めて、星莉のほうを見た。見ようとして見たというより、流れの中で視界に入った。
星莉はまだ少し硬い。
肩は完全には落ちていないし、指先も慎重だ。
問題は、そこではなかった。
二番の中盤、照明が少し落ちる。
客席から見れば一瞬の色替えにすぎない。けれど踊る側にいると、その薄い暗がりが呼吸の置き場を変えることがある。
カウントのシックスで、星莉の右腕が上がる。
七で、肩甲骨が開く。
いつもなら、その次のエイトで少し引っ込むはずのところを、今日は引っ込まなかった。
ほんとうに、一瞬だった。
腕の軌道が少しだけ長い。
目線が床へ逃げない。
呼吸がそこで切れない。
それだけの違いなのに、ハルカにはその一瞬がはっきり見えた。
身体のどこかが、すぐに埋めたがる。
崩れる前に拾う。詰まる前に通す。
そういうふうに覚えてきたものが、わずかに前へ出る。
見えたままにする。
左足は動かない。
自分の身体を、自分のカウントの中へ置いたまま、次の一拍が過ぎる。
曲はそのまま流れ、最後のポーズへ向かう。
エンディングの移動は崩れない。全体も落ちない。拍手が一段大きくなる。照明が熱い。衣装の生地が汗で肌に張りつく。音が止まり、ポーズをほどくまでの一拍がやけに長く感じた。
袖へ戻ると、一気に全員が息を吐いた。
「やばい」「ミスったかと思った」「でも楽しかった!」と声が飛び交う。二年の子たちはもう半分泣き笑いで、部長が「はい、まだ片づけまでが本番」と笑っている。顧問も、いつもより少しだけ大きく頷いていた。
ハルカはタオルを取ろうとして、手が少し汗で滑るのに気づいた。
いまさら遅れて心拍が上がってくる。踊っている最中より、終わったあとで身体が自分の重さを思い出すことがある。
視線の先に、星莉がいた。
星莉は壁際でペットボトルの蓋を開けていた。表情は大きく変わらない。けれど、息が上がっていることを隠さない。
ハルカは一度だけ呼吸を整えてから、近づいた。
身体に引かれて行くのではなく、行くと決めてから歩く。
「星莉」
呼ぶと、星莉がこちらを見る。
目が合う。
その視線はすぐには逸れない。
ハルカは何を言うか最後まで決めていなかった。
言葉が出る前に、星莉が先に口を開いた。
「見てました」
ハルカの口が少し開いたまま止まった。
「……そっか」
「先輩のせい……です」
声は平らなのに、どこかだけ前より柔らかい。
責めているようにも聞こえるし、そうでもない。
意味を決めようとすると逃げていく類の言い方だった。
ハルカは少しだけ笑う。
笑って、それ以上を足さない。
“せい”のまま置いておくほうが、たぶん正しい。
星莉の肩がほんの少しだけ落ちる。
見逃す人のほうが多いくらいの変化だったが、ハルカにはわかった。
いつもなら先に閉じる肩が、今日は閉じきらない。
誰かが後ろで「写真撮るよー!」と叫ぶ。
部員たちが集まり始め、空気がまた日常へ戻っていく。ハルカは一歩だけ横へずれ、星莉の通り道を空けた。星莉は「ありがとうございます」とは言わず、ただその空いた幅だけを使って通った。すれ違う距離は近いのに、以前みたいな硬さがなかった。
写真のあと、片づけをして、衣装を返して、体育館を出るころには空はすっかり暗くなっていた。
廊下の窓に、自分たちの姿だけがぼんやり映っている。ハルカは歩きながら、そのガラスに映った星莉を横目で見た。星莉も同じ方向を見ていた。
いまは苦しくない。楽ともまだ言い切れない。ただ、同じ速度で歩ける。
昇降口の手前で、星莉が立ち止まる。
ハルカも足を止めた。
「先輩」
「ん?」
「……今日のこと」
そこで言葉が切れる。
切れたまま、星莉は少しだけ視線を下げる。何かを説明しようとしてやめた人の目だった。
「別に、まだよくわからないです」
ハルカは頷いた。
「うん」
「でも」
星莉はそこで初めて、ほんの一瞬だけ笑う手前みたいな顔をした。笑ったわけではない。ただ、口元の硬さが少しほどける。
「前よりは、嫌じゃなかったです」
それだけ言って、星莉は先に靴箱のほうへ向かった。
ハルカはその背中を見送る。
追いかけない。
名前をつけない。
それでも、何かが変わったことだけは、もう十分にわかっていた。




