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可動域  作者: noriduke
6/8

6. 素踊

文化祭まで、あと二日だった。


放課後の第二体育館は、練習が終わったあとも少しだけ熱を残している。

床のワックスの匂いと、汗の乾いた布の匂いと、スピーカーの熱を持ったコードの匂いが薄く混ざっている。部員たちは先に更衣室へ向かい、鏡の前にはもう誰もいなかった。

顧問も部長も今日は早く切り上げた。明日に疲れを残さないためだと言っていたけれど、ほんとうは、ここから先はそれぞれの身体で調整するしかない段階に入っているのだと、ハルカは思っていた。


最後のコードを棚に戻したあと、ハルカは一人で体育館の端へ移動した。

普段は使わない側の鏡の前。照明が少し暗くて、窓の反射も届きにくい場所だ。


スマホを取り出す。

プレイリストを開き、少し迷ってから、一番下に沈んでいた曲を押す。


ロシア語の歌が流れる。


低い女の声。

拍の取り方が曖昧で、でも曖昧なまま崩れない旋律。

意味はところどころわかる。全部ではない。全部わからないことに、もう慣れているつもりでいた。

それでも、この種の曲だけは、意味より先に身体のほうが覚えている気がした。


母の言葉を聞き取れても、返す言葉がいつも少し足りない。

そういう薄い置き去りを、ハルカはずっと「まあそんなもの」として扱ってきた。

きっとそれでやっていける。やってきた。

けれど、言葉がうまく届かないときだけ、踊るほうがまだ返事に近いことがある。


曲の頭で、ハルカは目を閉じた。


部活の振りではない。

確認でもない。

誰に見せるためでもない。

音の中にある、まだ言葉になっていないものへ身体を近づけていくみたいに、肩から先をゆっくりほどく。


腕は大きくない。

むしろ静かだ。

ただ、その静かさの奥で、普段の“全体を整える身体”とは違う筋肉が目を覚ましていくのがわかる。


重心は床に残したまま、背骨だけが少し上へ抜ける。

指先は何かを見せるためでなく、触れた形を確かめるために進む。

音の切れ目で一度止まり、次のフレーズでまたほどける。

ひどく個人的な動きだと、ハルカは自分で思った。人前ではたぶんやらない。やれないわけじゃない。ただ、やる理由がない。


最後のフレーズに入る手前で、気配を感じた。


振り返ると、少し離れたところに星莉が立っていた。


いつからいたのか、わからなかった。

体育館の入口近く、暗さと明るさの境目みたいな位置で、荷物を肩にかけたままこちらを見ている。

見つかった、と思うより先に、ハルカは自分の身体がまだ踊る前の状態へ戻りきっていないことに気づいた。呼吸も、肩の位置も、普段の先輩の顔にすぐは戻らない。


音楽だけが先に終わる。

耳に残響が残る。


ハルカはスマホの画面を伏せた。

気まずさを軽くするための言葉は、いまは置かないほうがほんとうだと思った。


星莉が先に口を開く。


「ロシア語ですか」


声は平らだった。

でも防御の硬さは薄い。

問いというより、確認に近い言い方だった。


「うん」


ハルカは頷く。


「母がロシア人だから」


それはもう知っているはずだと、言ったあとで思う。

でも星莉は、知っていることと今ここで聞くことを分けるみたいに、小さく頷いただけだった。


「聞き取れるんですか」


「少し。……少しっていうか、聞くほうはわりと」


そこまで言って、ハルカは少し笑った。

自嘲に近い、でも軽く流すための笑いではない。


「返すのは、あんまりうまくないけど」


星莉はすぐには返事をしなかった。

その沈黙は、前みたいに拒絶のためのものではなかった。

言葉を急いで解釈しないで、そのまま置いている沈黙だった。


ハルカは鏡のほうを見たまま続ける。


「意味は、だいたいわかるんだよね。家で話してるときも」

「でも、自分が話すほうになると、急に薄くなるっていうか」

「ちゃんと届いてない感じが、たまにする」


そこまで言って、少し言いすぎたかもしれないと思う。

けれど、星莉は目を逸らさなかった。


「だから」


ハルカは床に視線を落とした。

「こういうのは、音のまま来るほうが楽なときがある」


星莉の表情は変わらない。

でも、目は逸れない。


「先輩にも、そういうのあるんですね」


その“にも”が、静かに胸へ落ちる。


「ある、と思う」


ハルカは小さく言う。

「無い、って思ってたんだけど」


星莉の口元が、ごくわずかに動いた。

笑ったのではない。

でも、前みたいな硬さだけではない顔だった。


「私も、たぶん」


その一言で、体育館の空気が少しだけ軽くなる。


ハルカは頷いた。


「うん」


それ以上は足さなかった。


星莉は荷物を持ち直す。

そのまま帰るのかと思ったが、すぐには動かず、鏡の前へ一歩だけ入った。

そして、ハルカがさっきまで立っていた位置をちらりと見る。


「さっきの」


ハルカが顔を上げる。


「……ああいうふうにも踊るんですね」


言い方は平らなのに、拒絶がない。

評価でもない。

ただ、自分が見たものを、そのまま見たと言う声だった。


ハルカは少しだけ息を吐いた。


「部活だと、あんまりやらない」


「そうでしょうね」


星莉はそこで初めて、ほんの少しだけ、笑う手前の顔をした。

皮肉でもないし、からかいでもない。

気配だけが柔らかくなるみたいな変化だった。


「先輩、いつも整えすぎるから」


その言葉に、ハルカは一瞬だけ目を見開いた。

刺されたわけではない。

でも、図星と似た場所に軽く触れられた感じがした。


「……そう見える?」


「少し」


星莉はそう言って、今度こそ荷物を肩にかける。

前みたいに、すぐ壁を立て直す感じではなかった。

見たものをなかったことにしないまま、でもそこで立ち止まりすぎない歩き方だった。


「お先に失礼します」


「うん。おつかれ」


星莉が扉へ向かう。

出ていく寸前、一度だけ振り返った。


「文化祭、ちゃんと見ます」


それだけ言って、今度はすぐに視線を戻す。

返事を待たない。

でも、その一言だけは確かに置いていく。


扉が閉まる。


ハルカはしばらく、その場に立ったままだった。

文化祭、ちゃんと見ます。

たったそれだけなのに、なぜか呼吸の置き場が少し変わる。

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