5. 間合
そのあと三日、ハルカは星莉にほとんど話しかけなかった。
ほとんど、というのは、必要な連絡や立ち位置の確認まで無視するほどではない、という意味だ。部活の中で完全に他人になるのは不自然だし、そんなことをしたらかえって目立つ。だからハルカは、目立たない範囲で距離を取った。必要なことは言う。けれど、それ以上の一言を足さない。自分から近づかない。視線も、長く置かない。
それだけのことに、思ったより意識が要った。
星莉のほうも、近づいてはこなかった。
当然だと思う。あの日のあとで何事もなかったように振る舞うほうが、不自然を通り越して鈍感だ。星莉はそんな鈍い人間ではないし、ハルカもそう思われたいわけではなかった。
ただ、話しかけないと決めると、逆に相手の気配だけがよくわかるようになるのがおかしかった。
更衣室のロッカーを閉める音。
ストレッチで床に座る位置。
鏡の前に立つとき、どの子の隣を避けるか。
ペットボトルの水が減る速さ。
そういう細かいことが、見ようとしなくても勝手に目に入る。
見えてしまうものを、見ないふりだけで消すことはできない。
ハルカはその当たり前を、今さらみたいに知った。
水曜の練習は、雨のせいで湿気が重かった。
第二体育館の窓は曇り、鏡の端が少し白くにじんでいる。床もいつもより滑りにくく、そのぶん足裏の感覚だけがはっきりした。
星莉はその日も後ろの列にいた。
話しかけてこないし、こちらも話しかけない。
でも、完全に壁を立てている感じとも少し違った。
あの日以来、星莉はハルカを避けるならもっと露骨にできたはずだ。
休憩の位置を変えるとか、ロッカーを使う順番をずらすとか、二人きりになりそうな動線を避けるとか。そういうことは、できる子だと思う。けれど実際にはそこまでしていない。近づきもしないが、完全にも避けない。
練習の終盤、顧問が音を止めた。
「今日はここまで。各自、気になるとこだけ確認して終わって」
空気がいっせいにゆるむ。
何人かはその場に座り込み、二年の子たちはスマホで動画を見返し始める。部長が片づけを指示し、誰かがスピーカーの音量を落とす。
ハルカはタオルで首筋の汗を拭きながら、鏡に映る星莉を見た。
星莉は部員たちの輪から少し離れて、壁際のスペースへ移動している。いつもの距離だ。広すぎず、狭すぎない、人に入ってこられたときにすぐ引ける位置。
そのまま振り確認を始める。
大きくは動かない。可動域も、まださっきまでの星莉のままだ。
でも、前より少しだけ呼吸が見える気がした。
ハルカは視線を外した。
外して、床に置かれた空の段ボールを重ね、スピーカー横のコードをまとめ、使い終わった雑巾をバケツへ戻す。やることはある。あるけれど、全部終わらせてしまえば、今度は何もしない自分が残るだけだとも思った。
気づけば、ハルカは壁際から少し離れた場所に立っていた。
星莉のほうへは行かない。
だからといって、体育館の反対側へ逃げるわけでもない。
ただ同じ空間の中にいる。それだけの距離。
自分でも半端だと思った。
星莉は最初、ハルカの気配に気づくと少しだけ肩を固くした。
けれど、そのまま何も起きない。
声もかからない。視線も刺さらない。
一度だけ、星莉は鏡越しにハルカのいる位置を確かめるみたいに見た。
見たあとで、去らない。
そのままもう一度、振りに戻る。
肩甲骨はまだ完全には開かない。
腕の長さも、普段の星莉のままだ。
それでも、さっきよりは少しだけ呼吸が奥まで入る。
ハルカがいることを確認したあとで、それでも続けるのだとわかる再開だった。
ハルカはそれを見て、見たことを見なかったふりをした。
たぶんそれが正しい。少なくとも、今は。
窓の外で雨が強くなり、屋根を打つ音が一段深くなる。
体育館の中には、動画の音が途切れ途切れに漏れ、誰かの笑い声が小さく混じる。そのどれもが遠い。
星莉は振りの途中で一度止まり、呼吸を整えた。
ハルカは動かなかった。
やがて星莉が鏡越しにこちらを見た。
真正面ではない、確認するだけの視線だった。
ハルカも鏡の中でそれに気づいたが、すぐには反応しなかった。視線をぶつけ返すのではなく、一度だけ目を上げて、すぐに自分の手元へ戻す。コードの端を巻き直し、ほどけた部分をまとめる。別に急ぎの作業ではないのに、手だけが静かに動いていた。
数秒後、星莉がまた振りに戻る。
ハルカは息をひとつだけ深く吸った。
「先輩、帰んないんですか」
後ろから真帆が声をかけてきた。
ハルカは振り返る。
「帰るよ。真帆もまだいたの」
「動画見てたら遅くなって」
真帆はスマホをひらひら振ったあと、壁際をちらりと見た。「星莉ちゃん、今日ずっと残ってますね」
「うん」
「熱心ですよね」
熱心。
たぶんそういう言い方もできる。
でもハルカには、星莉のあの居残りが努力とか向上心だけで説明できるものには見えなかった。もっと切実で、もっと個人的で、うまく説明できない何かだと感じる。
「……そうだね」
それだけ返すと、真帆は特に深く考えずに「じゃあ私先帰ります」と手を振っていった。
体育館に残る人数が、また少し減る。
ハルカはコードを棚にしまい、最後に窓の鍵だけ確かめた。
そのあいだも星莉はいる。追い払わない。かといって、近づきもしない。
その中途半端な距離が、今は少しだけ呼吸しやすかった。
帰ろうとして振り返ると、星莉がちょうどペットボトルを閉めるところだった。
ふいに目が合う。
星莉の視線が、一秒ぶんだけ長く残る。
何も言わない。
ハルカも言わない。
そのままハルカは体育館の出口へ向かった。
背中に視線があるかどうかは、確かめなかった。
扉を開けると、廊下は雨の匂いで満ちていた。
湿った空気を吸い込んだとき、ハルカはようやく、自分がさっきからずっと少しだけ息を止めていたことに気づいた。




