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可動域  作者: noriduke
4/8

4. 急所

その週の土曜。昼を過ぎたころには、誰も冗談を言わなくなっていた。


文化祭前、最後の全体通しの日だった。笑えばたぶん誰かは笑う。けれど、その笑いを受け止める余白が、もう全員の身体から少しずつ減っている。水筒の蓋を回す音、床に置いたスマホが震える音、顧問の「もう一回いこうか」の声。そのどれもが、いつもより半歩ぶん近く聞こえた。


体育館の空気は、少しだけ足りなかった。


ハルカは首の後ろに手を当てて、自分の呼吸も浅くなっているのを感じていた。

疲れているのもある。三回続けて踊れば足は重いし、汗が乾きかけたシャツは肌に張りつく。けれど、それだけではなかった。視界の端に星莉がいるだけで、集中の仕方が少し変わる。意識しないようにしているぶん、目のほうが勝手に拾う。


「次、二番から」


部長の声が飛ぶ。


「移動、もう少し詰めて。後半、間延びして見えるから」


全員が位置につく。

ハルカは正面を向いたまま、鏡越しに後ろの列を一度だけ見た。星莉はそこにいた。表情はいつも通りで、無駄がなくて、静かだった。静かすぎる、と思う。こういうときの星莉は、崩れないために固めるほうへ行きすぎる。


曲が入る。


ワン、ツー、スリー、フォー。

二番の入りは綺麗だった。前半の移動もずれない。サビ前の回転も、列の角度も、今まででいちばん揃っている。けれどハルカには、星莉の呼吸だけが浅くなっているのが見えた。肩は上がっていない。だから他の子は気づかない。けれど、吸いきる前に次の動きへ行こうとしている身体だった。


ファイブ。

シックス。

セブン。


星莉の右腕が、ほんの少しだけ早く帰った。


本当に、それだけだった。

他の誰かが見ても、たぶんただの誤差だ。

でもその誤差がひとつ出ると、星莉は次の一拍で取り返そうとする。取り返そうとして、さらに身体を固める。ハルカはそれを知っていた。


気づいた瞬間、身体が先に動いた。


左足を半歩外へ。

肩の角度をわずかに変える。

前の列の流れを広く取って、後ろの窮屈さを見えなくする。


曲は止まらない。

全体はそのまま最後まで流れた。サビも落ちず、エンディングのポーズも揃った。

音が切れ、体育館に遅れて息だけが残る。


「……そこまで」


顧問の声は低かった。

厳しくはないが、満足していないときの声だ。


「今の後半、悪くない。けど一人ひとりで詰めきれてないところがある。しっかり休んでから、最後もう一本」


短い返事があちこちから返る。

床に座り込む子、壁際へ歩く子、水筒を探す子。空気が一度、少しだけ緩む。


ハルカはタオルを首にかけたまま、そのまま後ろを振り向いた。

星莉は自分の場所から動いていなかった。手がジャージの裾を一度つまんで、すぐに離れた。


ハルカは迷わなかった。

迷ったつもりもなかった。

気づいたときには、もうそちらへ歩いていた。


「星莉」


呼ぶと、星莉は顔を上げた。

汗を流したままハルカを見る。


「今の——」


言いかけたところで、星莉が先に言った。


「大丈夫です」


その速さが、逆に大丈夫ではないことを示していた。

ハルカは立ち止まる。けれど、それでも引かなかった。引けなかった。


「いや、うん。大丈夫じゃないって言いたいんじゃなくて」


自分でも何を言い換えようとしているのか曖昧なまま、言葉を継いでしまう。こういうとき、ハルカはいつもよくない。相手のために整えようとして、かえって奥へ入る。


「今、取り返そうとして余計に固くなってたから。次、そこは取り返そうとしなくていい」


星莉は何も言わない。

返事のかわりに、視線だけがハルカをまっすぐ見た。冷たい視線、というより、これ以上中に入れるかどうかを測る視線だった。


ハルカは続けた。

続けるべきじゃない、と頭のどこかで思ったときには、もう遅い。


「あと、肩。閉じると呼吸が先に死ぬから」


沈黙が落ちる。


さっきまで聞こえていた水筒の音も、床を擦るシューズの音も、急に遠くなった気がした。実際には誰かが笑っていたし、部長は顧問と何か話していたはずなのに。


星莉はペットボトルを持っていた。

透明な水が、中で一度だけ揺れた。


「先輩って」


声は低くて、平らだった。

怒鳴っていない。責めるために声を強くしてもいない。


「人を助けるの、好きですよね」


ハルカは一瞬、意味が取れなかった。

取れなかったというより、言葉の入り口と中身の距離が少し離れていた。


「……え」


「困ってる人を放っておけないんじゃなくて」


星莉の指が、ペットボトルの真ん中を少し強く潰す。

細い音がした。


「放っておく自分が嫌なだけじゃないですか」


ハルカは何も言えなかった。


それが図星だったからなのか、言われた意味がまだ全部ほどけていなかったからなのか、自分でもわからない。ただ、言葉が胸に刺さるというより、最初からそこに入っていたものの輪郭を、外側からなぞられたみたいだった。


星莉は続けた。


「私を助けたいんじゃなくて」


そこで一度、星莉の呼吸が途切れた。

背筋は崩れない。首もまっすぐなままだ。

ただ、ペットボトルを握る指先だけが一瞬だけ力を入れすぎて、薄い音を立てる。

焦点が、ほんのわずかに滑る。


「助けてる先輩でいたいだけでしょ」


その言葉の終わりで、星莉の目の縁から水分がにじんだ。


泣く、というほどではない。

声も変わらないし、顔つきも崩れていない。

ただ、あまりに不釣り合いに、目だけが勝手に濡れた。本人の意志から少し遅れて出てきたみたいに。


星莉自身も、その一瞬だけ理解できなかった顔をした。

理解できなかったものが、次の瞬間にはそのまま顔から消えた。


ハルカは動かなかった。

いつもなら先に出る手が、どこにも行かなかった。

さっきの言葉が身体のどこかに詰まって、回路がそのまま止まっている。


星莉が言った。


「泣いてないから気にしないで」


声は平坦だった。


「失礼します」


それだけ言って、踵を返す。

歩幅は変わらない。逃げる歩き方ではない。背中も丸まらない。

なのに、ハルカにはその背中が今まででいちばん遠く見えた。


扉が開いて、閉まる。


その小さな音のあとで、体育館のざわめきが急に戻ってきた。誰かが笑い、顧問が最後の通しの位置を確認している。世界は何も止まっていない。止まっていないのに、ハルカの中だけが半拍ぶん遅れたままだった。


放っておく自分が嫌なだけじゃないですか。


言葉が頭の中でそのまま残る。

否定したいのに、うまく押し返せない。


「ハルカ?」


部長の声で、ようやく顔を上げる。


「大丈夫? 次、位置ここね」


「あ、うん。ごめん」


返事をすると、いつもの声がちゃんと出た。

出たことが、少しだけ気持ち悪かった。


ハルカは自分の場所に戻る。

鏡の中に、部員たちが整列していく。星莉の位置だけが空いているように見えて、すぐに別の子がそこへ立った。


曲が始まる前の数秒、ハルカは珍しく、自分の立ち位置の感覚がほんのわずかにわからなくなった。

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