4. 急所
その週の土曜。昼を過ぎたころには、誰も冗談を言わなくなっていた。
文化祭前、最後の全体通しの日だった。笑えばたぶん誰かは笑う。けれど、その笑いを受け止める余白が、もう全員の身体から少しずつ減っている。水筒の蓋を回す音、床に置いたスマホが震える音、顧問の「もう一回いこうか」の声。そのどれもが、いつもより半歩ぶん近く聞こえた。
体育館の空気は、少しだけ足りなかった。
ハルカは首の後ろに手を当てて、自分の呼吸も浅くなっているのを感じていた。
疲れているのもある。三回続けて踊れば足は重いし、汗が乾きかけたシャツは肌に張りつく。けれど、それだけではなかった。視界の端に星莉がいるだけで、集中の仕方が少し変わる。意識しないようにしているぶん、目のほうが勝手に拾う。
「次、二番から」
部長の声が飛ぶ。
「移動、もう少し詰めて。後半、間延びして見えるから」
全員が位置につく。
ハルカは正面を向いたまま、鏡越しに後ろの列を一度だけ見た。星莉はそこにいた。表情はいつも通りで、無駄がなくて、静かだった。静かすぎる、と思う。こういうときの星莉は、崩れないために固めるほうへ行きすぎる。
曲が入る。
ワン、ツー、スリー、フォー。
二番の入りは綺麗だった。前半の移動もずれない。サビ前の回転も、列の角度も、今まででいちばん揃っている。けれどハルカには、星莉の呼吸だけが浅くなっているのが見えた。肩は上がっていない。だから他の子は気づかない。けれど、吸いきる前に次の動きへ行こうとしている身体だった。
ファイブ。
シックス。
セブン。
星莉の右腕が、ほんの少しだけ早く帰った。
本当に、それだけだった。
他の誰かが見ても、たぶんただの誤差だ。
でもその誤差がひとつ出ると、星莉は次の一拍で取り返そうとする。取り返そうとして、さらに身体を固める。ハルカはそれを知っていた。
気づいた瞬間、身体が先に動いた。
左足を半歩外へ。
肩の角度をわずかに変える。
前の列の流れを広く取って、後ろの窮屈さを見えなくする。
曲は止まらない。
全体はそのまま最後まで流れた。サビも落ちず、エンディングのポーズも揃った。
音が切れ、体育館に遅れて息だけが残る。
「……そこまで」
顧問の声は低かった。
厳しくはないが、満足していないときの声だ。
「今の後半、悪くない。けど一人ひとりで詰めきれてないところがある。しっかり休んでから、最後もう一本」
短い返事があちこちから返る。
床に座り込む子、壁際へ歩く子、水筒を探す子。空気が一度、少しだけ緩む。
ハルカはタオルを首にかけたまま、そのまま後ろを振り向いた。
星莉は自分の場所から動いていなかった。手がジャージの裾を一度つまんで、すぐに離れた。
ハルカは迷わなかった。
迷ったつもりもなかった。
気づいたときには、もうそちらへ歩いていた。
「星莉」
呼ぶと、星莉は顔を上げた。
汗を流したままハルカを見る。
「今の——」
言いかけたところで、星莉が先に言った。
「大丈夫です」
その速さが、逆に大丈夫ではないことを示していた。
ハルカは立ち止まる。けれど、それでも引かなかった。引けなかった。
「いや、うん。大丈夫じゃないって言いたいんじゃなくて」
自分でも何を言い換えようとしているのか曖昧なまま、言葉を継いでしまう。こういうとき、ハルカはいつもよくない。相手のために整えようとして、かえって奥へ入る。
「今、取り返そうとして余計に固くなってたから。次、そこは取り返そうとしなくていい」
星莉は何も言わない。
返事のかわりに、視線だけがハルカをまっすぐ見た。冷たい視線、というより、これ以上中に入れるかどうかを測る視線だった。
ハルカは続けた。
続けるべきじゃない、と頭のどこかで思ったときには、もう遅い。
「あと、肩。閉じると呼吸が先に死ぬから」
沈黙が落ちる。
さっきまで聞こえていた水筒の音も、床を擦るシューズの音も、急に遠くなった気がした。実際には誰かが笑っていたし、部長は顧問と何か話していたはずなのに。
星莉はペットボトルを持っていた。
透明な水が、中で一度だけ揺れた。
「先輩って」
声は低くて、平らだった。
怒鳴っていない。責めるために声を強くしてもいない。
「人を助けるの、好きですよね」
ハルカは一瞬、意味が取れなかった。
取れなかったというより、言葉の入り口と中身の距離が少し離れていた。
「……え」
「困ってる人を放っておけないんじゃなくて」
星莉の指が、ペットボトルの真ん中を少し強く潰す。
細い音がした。
「放っておく自分が嫌なだけじゃないですか」
ハルカは何も言えなかった。
それが図星だったからなのか、言われた意味がまだ全部ほどけていなかったからなのか、自分でもわからない。ただ、言葉が胸に刺さるというより、最初からそこに入っていたものの輪郭を、外側からなぞられたみたいだった。
星莉は続けた。
「私を助けたいんじゃなくて」
そこで一度、星莉の呼吸が途切れた。
背筋は崩れない。首もまっすぐなままだ。
ただ、ペットボトルを握る指先だけが一瞬だけ力を入れすぎて、薄い音を立てる。
焦点が、ほんのわずかに滑る。
「助けてる先輩でいたいだけでしょ」
その言葉の終わりで、星莉の目の縁から水分がにじんだ。
泣く、というほどではない。
声も変わらないし、顔つきも崩れていない。
ただ、あまりに不釣り合いに、目だけが勝手に濡れた。本人の意志から少し遅れて出てきたみたいに。
星莉自身も、その一瞬だけ理解できなかった顔をした。
理解できなかったものが、次の瞬間にはそのまま顔から消えた。
ハルカは動かなかった。
いつもなら先に出る手が、どこにも行かなかった。
さっきの言葉が身体のどこかに詰まって、回路がそのまま止まっている。
星莉が言った。
「泣いてないから気にしないで」
声は平坦だった。
「失礼します」
それだけ言って、踵を返す。
歩幅は変わらない。逃げる歩き方ではない。背中も丸まらない。
なのに、ハルカにはその背中が今まででいちばん遠く見えた。
扉が開いて、閉まる。
その小さな音のあとで、体育館のざわめきが急に戻ってきた。誰かが笑い、顧問が最後の通しの位置を確認している。世界は何も止まっていない。止まっていないのに、ハルカの中だけが半拍ぶん遅れたままだった。
放っておく自分が嫌なだけじゃないですか。
言葉が頭の中でそのまま残る。
否定したいのに、うまく押し返せない。
「ハルカ?」
部長の声で、ようやく顔を上げる。
「大丈夫? 次、位置ここね」
「あ、うん。ごめん」
返事をすると、いつもの声がちゃんと出た。
出たことが、少しだけ気持ち悪かった。
ハルカは自分の場所に戻る。
鏡の中に、部員たちが整列していく。星莉の位置だけが空いているように見えて、すぐに別の子がそこへ立った。
曲が始まる前の数秒、ハルカは珍しく、自分の立ち位置の感覚がほんのわずかにわからなくなった。




