3. 侵入
翌週に入ると、練習の空気はさらに硬くなった。
文化祭まで二週間を切って、顧問も部長も言葉の端が鋭くなっている。誰かが冗談を言えば笑いは起きるし、休憩になればいつも通りスマホを覗き込む子もいる。それでも、音楽が流れ出すと、全員の身体に「間違えたくない」がうっすら乗る。そういう時期だった。
ハルカはストレッチの列に入りながら、視界の端で星莉の位置を拾った。
星莉は後方の列にいた。表情はいつも通りで、身体の外側だけが整っているように見えた。
曲が始まる。
今日はサビ前の移動から通す。
人数が多く、隊列の見え方が少しでもずれると全体が鈍くなる。三年と二年が入り混じる構成のせいで、普段より誰かの呼吸が隣の身体に伝わりやすい。ハルカは自分の前後左右をざっと確認し、カウントに入る。
ワン、ツー、スリー、フォー。
移動はきれいに入った。
ファイブで前列が開き、シックスで二列目が斜めに流れる。そのとき、後ろの視界の端で、星莉の右腕がほんの少しだけ短くなったのが見えた。
見えた瞬間には、ハルカの右足が半歩外へ出ていた。腕の軌道を一度だけ広く取り、列の隙間を埋める。フォーメーション全体は何事もなかったみたいにサビへ流れた。
誰に気づかれなくてもよかった。正面が戻るなら、それで十分だった。
曲が終わる。
「一回止めます。今の後半、そこ、少し詰まって見えた」
部長の声が飛ぶ。
「もう一回だけ同じとこ」
体育館のあちこちで、水筒の蓋が鳴る。
ハルカは喉の奥に残った息を吐きながら、鏡越しに後ろを見た。星莉は鏡を見ていなかった。タオルを首にかけたまま、床の一点だけを見ている。首の横の筋だけが細く張っていた。
たぶん、わかっている。
自分のズレも、それを誰が拾ったかも。
二回目の通しでは、星莉の身体はさらに小さくなっていた。動きに破綻はない。ないぶん、余計に呼吸だけが身体から遅れて見えた。
部室へ戻る途中、スマホが震えた。
母からのメッセージだった。短いロシア語が二行。読むのはすぐだったのに、返事を打つ指は止まる。結局、画面を閉じてポケットに戻した。
休憩で、ハルカは部室から湿布を取って戻る途中、真帆を壁際で捕まえた。
「足、これ貼っときな」
「え、まだ覚えてたんですか」
「さっきよりマシだけど、右だけ音ちがうもん」
真帆は苦笑して受け取る。
「ほんと、先輩こわいなあ」
「褒め言葉?」
「半分くらい」
そのやりとりの最中、体育館の壁際で星莉がペットボトルを開けていた。
こちらを見ていないのに、聞いているとわかる背中だった。
ハルカは湿布の袋を真帆に押しつけたあと、星莉のほうへ歩いた。
「星莉」
名前を呼ぶと、星莉の肩が一瞬だけ止まった。それからゆっくり振り向いた。
「はい」
「さっき、苦しそうだったよね」
星莉の表情は変わらない。水の入ったペットボトルを握る指だけが少し強くなる。
「別に」
「いや、移動のとこ、人数多いし」
「肩、もうちょい開いてもいいかも。今だと呼吸が先に止まってるから」
星莉は黙った。
その沈黙には、どこで会話を終わらせるかを決める重さがあった。
「困ってないです」
「先輩」
遮る声は大きくなかった。
大きくないのに、そこだけ空気が切り替わる。
ハルカは口を閉じた。
星莉はペットボトルの蓋を静かに締める。カチ、という小さな音がやけに近く聞こえた。
「放っておいてもらって大丈夫です」
言葉自体は丁寧だった。
でも、その丁寧さの内側にあるものは、完全な拒絶に近かった。
「……そっか」
星莉は小さく会釈をした。
礼儀として十分な角度。距離を戻すために必要なだけの動き。
そのまま部員たちの輪のほうへ戻っていく。
ハルカはその背中を見たまま、しばらく動けなかった。
顧問の「はい、再開するよ」という声が飛ぶ。
ハルカはタオルを脇に置き、自分の位置へ戻った。
曲が始まる。
鏡の中に部員全員の動きが並ぶ。
星莉はやはり小さかった。間違っていない、破綻しない。だから周囲から見れば何の問題もない。
部室で荷物をまとめているとき、部長が後ろから声をかけた。
「ハルカ、今日ありがと。さっきサビ、拾ってくれたでしょ」
「え、わかった?」
「わかるよ。あそこ誰か一人ずれたら、正面ちょっと死んでたし」
部長はそう言って笑う。
「ほんと助かる」
助かる。
その一言が、今日は少しだけ胸に残った。
視線を上げると、ロッカー前で星莉が鞄のファスナーを閉めていた。
こちらを見ない。見ないまま、すぐそばを通る子のぶんだけ身体を横にずらす。その動きにも無駄がなかった。誰にもぶつからないし、誰にも触れさせない。
ハルカは声をかけなかった。
かける理由がなかったし、理由があっても言葉が出なかったと思う。
星莉は先に部室を出ていった。
ハルカは肩にかけたタオルを握り直した。
越えたつもりはなかった。




