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可動域  作者: noriduke
3/8

3. 侵入

翌週に入ると、練習の空気はさらに硬くなった。


文化祭まで二週間を切って、顧問も部長も言葉の端が鋭くなっている。誰かが冗談を言えば笑いは起きるし、休憩になればいつも通りスマホを覗き込む子もいる。それでも、音楽が流れ出すと、全員の身体に「間違えたくない」がうっすら乗る。そういう時期だった。


ハルカはストレッチの列に入りながら、視界の端で星莉の位置を拾った。


星莉は後方の列にいた。表情はいつも通りで、身体の外側だけが整っているように見えた。


曲が始まる。


今日はサビ前の移動から通す。

人数が多く、隊列の見え方が少しでもずれると全体が鈍くなる。三年と二年が入り混じる構成のせいで、普段より誰かの呼吸が隣の身体に伝わりやすい。ハルカは自分の前後左右をざっと確認し、カウントに入る。


ワン、ツー、スリー、フォー。


移動はきれいに入った。

ファイブで前列が開き、シックスで二列目が斜めに流れる。そのとき、後ろの視界の端で、星莉の右腕がほんの少しだけ短くなったのが見えた。


見えた瞬間には、ハルカの右足が半歩外へ出ていた。腕の軌道を一度だけ広く取り、列の隙間を埋める。フォーメーション全体は何事もなかったみたいにサビへ流れた。


誰に気づかれなくてもよかった。正面が戻るなら、それで十分だった。


曲が終わる。


「一回止めます。今の後半、そこ、少し詰まって見えた」


部長の声が飛ぶ。


「もう一回だけ同じとこ」


体育館のあちこちで、水筒の蓋が鳴る。

ハルカは喉の奥に残った息を吐きながら、鏡越しに後ろを見た。星莉は鏡を見ていなかった。タオルを首にかけたまま、床の一点だけを見ている。首の横の筋だけが細く張っていた。


たぶん、わかっている。

自分のズレも、それを誰が拾ったかも。


二回目の通しでは、星莉の身体はさらに小さくなっていた。動きに破綻はない。ないぶん、余計に呼吸だけが身体から遅れて見えた。


部室へ戻る途中、スマホが震えた。

母からのメッセージだった。短いロシア語が二行。読むのはすぐだったのに、返事を打つ指は止まる。結局、画面を閉じてポケットに戻した。


休憩で、ハルカは部室から湿布を取って戻る途中、真帆を壁際で捕まえた。


「足、これ貼っときな」


「え、まだ覚えてたんですか」


「さっきよりマシだけど、右だけ音ちがうもん」


真帆は苦笑して受け取る。


「ほんと、先輩こわいなあ」


「褒め言葉?」


「半分くらい」


そのやりとりの最中、体育館の壁際で星莉がペットボトルを開けていた。

こちらを見ていないのに、聞いているとわかる背中だった。

ハルカは湿布の袋を真帆に押しつけたあと、星莉のほうへ歩いた。


「星莉」


名前を呼ぶと、星莉の肩が一瞬だけ止まった。それからゆっくり振り向いた。


「はい」


「さっき、苦しそうだったよね」


星莉の表情は変わらない。水の入ったペットボトルを握る指だけが少し強くなる。


「別に」


「いや、移動のとこ、人数多いし」


「肩、もうちょい開いてもいいかも。今だと呼吸が先に止まってるから」


星莉は黙った。

その沈黙には、どこで会話を終わらせるかを決める重さがあった。


「困ってないです」


「先輩」


遮る声は大きくなかった。

大きくないのに、そこだけ空気が切り替わる。


ハルカは口を閉じた。

星莉はペットボトルの蓋を静かに締める。カチ、という小さな音がやけに近く聞こえた。


「放っておいてもらって大丈夫です」


言葉自体は丁寧だった。

でも、その丁寧さの内側にあるものは、完全な拒絶に近かった。


「……そっか」


星莉は小さく会釈をした。

礼儀として十分な角度。距離を戻すために必要なだけの動き。


そのまま部員たちの輪のほうへ戻っていく。

ハルカはその背中を見たまま、しばらく動けなかった。


顧問の「はい、再開するよ」という声が飛ぶ。

ハルカはタオルを脇に置き、自分の位置へ戻った。


曲が始まる。

鏡の中に部員全員の動きが並ぶ。

星莉はやはり小さかった。間違っていない、破綻しない。だから周囲から見れば何の問題もない。


部室で荷物をまとめているとき、部長が後ろから声をかけた。


「ハルカ、今日ありがと。さっきサビ、拾ってくれたでしょ」


「え、わかった?」


「わかるよ。あそこ誰か一人ずれたら、正面ちょっと死んでたし」


部長はそう言って笑う。


「ほんと助かる」


助かる。

その一言が、今日は少しだけ胸に残った。


視線を上げると、ロッカー前で星莉が鞄のファスナーを閉めていた。

こちらを見ない。見ないまま、すぐそばを通る子のぶんだけ身体を横にずらす。その動きにも無駄がなかった。誰にもぶつからないし、誰にも触れさせない。


ハルカは声をかけなかった。

かける理由がなかったし、理由があっても言葉が出なかったと思う。


星莉は先に部室を出ていった。


ハルカは肩にかけたタオルを握り直した。

越えたつもりはなかった。

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