1. 萎縮
放課後の第二体育館は、まだ一日の熱を床に溜めていた。
窓の高い位置から傾いた光が入って、ワックスの薄い艶を長く引っぱっている。後ろの列で、一年の西野が髪ゴムを落とし、その隣ではストレッチの順番を間違えている。
ハルカは列から半歩だけ抜けて、床に落ちた髪ゴムを拾った。
「はい」
「あ、すみません、先輩」
「今日はターン多いから、きつめに結んだほうがいいかも」
西野は受け取って、慌てたように頭を下げた。ハルカはもう次の場所へ目をやっている。前の列では、二年の真帆が座ったまま足首を回していた。右だけ回し方が浅い。たぶん昼の体育で少しひねった。声をかけるほどではない。終わったあとで湿布だけ渡せばいい。
そういう細かいほころびが、ハルカにはいくつも同時に見える。
別に自分がやらなくても回る日はある。ただ、気づいたものをそのままにしておくより、その場で少し動くほうが早かった。
見えてしまったものを、そのままにしておくほうが落ち着かなかった。
別にそれを特別だと思ったことはない。誰かが困りそうなら手が出るし、会話の輪から外れそうな子がいれば先に呼ぶ。ただ、それだけのことだ。
誰かに声をかけているあいだは、自分の立つ位置を考えなくて済む。
必要な場所に身体が先に収まる。けれど手が空くと、ときどきほんの一瞬だけ、自分の重心だけが遅れる。足は止まっているのに、どこに立ったことになっているのかが薄い。
顧問が手を叩いた。ざわつきが収まる。
「今日から練習に来る、二年の転入生です」
顧問がそう言って、隣に立っていた子へ視線を向けた。
「二年の星莉です。よろしくお願いします」
声は小さすぎない。通るけれど、前に出す声ではなかった。
無理に縮めてもいないし、愛想を作ってもいない。礼儀として十分な長さだけ名乗って、それ以上のものを足さない話し方だった。
目立つ子、ではないはずなのに、なぜか輪郭だけがはっきりして見えた。
髪は艶のある黒で、肩にかかるくらいの長さに揃えられている。姿勢はいい。いい、というより、崩れないように立っている感じがある。肩の線がまっすぐで、膝も揃っている。見た目だけなら緊張している転入生だ。でもハルカは、その立ち方に少し引っかかった。
まるで写真の中にいるみたいだった。
「じゃあ、今日は基礎から一緒に入ろうか」
部長が笑って手を振る。
「二年の列の後ろ、入ってきて」
星莉は「はい」とだけ返して列へ入った。
ハルカはその背中を少しだけ目で追った。
曲が流れ始める。
アップのあとの基礎確認。ステップ、アイソレーション、腕の軌道。文化祭前だから全員の動きが少し速い。焦りというほどではないけれど、どこか先に進みたがっている身体のテンポだ。
星莉は、普通にできた。
いや、普通というのは少し違う。
足の置き方が正確で、カウントの取り方も早い。基礎の浅い子がやりがちな“なんとなくそれっぽい動き”ではなく、ちゃんと身体の位置を知っている動き方をする。指示を理解するのも早い。だから最初の数分は、ハルカもただ「基礎あるな」と思っていた。
けれど、顧問が一度全体を止めて確認に入った瞬間、その子の身体はほんの少しだけ変わった。
ほんの少し。たぶん、ほとんどの人にはわからないくらい。
肩が上がる、というほどではない。
ただ首の横の筋肉が薄く固くなる。
肘の軌道が少しだけ内側へ寄る。
ターンの終わりで、本来なら空間に残るはずの指先が、ひと呼吸ぶん早く身体に帰ってくる。
うまい。
でも狭い。
「はい、休憩」
曲が止まり、部員たちが水筒のほうへ散っていく。
星莉は列を外れるのが一拍遅かった。自分が遅れたというより、どこへ動けばいちばん無難かを先に測っている動きだった。
ハルカが先に口を開いた。
「荷物、あっちの壁際に置けるよ。鏡の前は移動で通るから」
星莉がこちらを見る。
目が合ったのはほんの一瞬だったのに、温度ではなく焦点の合い方だけが印象に残った。相手を見るというより、見られる理由を先に探す目だと思った。
「ありがとうございます」
丁寧だ。
丁寧だけれど、そこに少しも甘えがない。
「水、まだならあっち使っていいし」
「大丈夫です」
返事は早い。断る速度が、振り付けのように身体に入っていた。
ハルカはべつに気を悪くしない。
しないけれど、自分の前に一線引いて立つ子だと思った。
「ハルカ先輩、次どこからだっけ」
二年の真帆がペットボトルを片手に割り込んでくる。
「サビ前から。真帆、右足まだちょっと変だよね」
「え、わかります?」
「着地の音、右だけ軽いもん」
「うわ、やだ。そんなわかるんだ……」
「終わったら湿布貼っときな。部室にあるから」
真帆は苦笑して去っていった。
そのやりとりのあいだ、星莉は少し離れたところでタオルを畳んでいた。聞こえていないふりをするには近い距離だった。
また曲が流れる。
次は文化祭の振りの頭から。星莉は後ろで見ながら軽く身体を動かしている。覚えるのが早い。だけど、誰かの視線が触れた瞬間だけ、やはり身体の外側が少し縮む。閉じるというほど大きくはない。むしろ、閉じていないように見せるのがうまい。だから目立たない。
ハルカはそのたびに、喉の奥に小さな引っかかりが増えていくのを感じた。
休憩のとき、スマホが震えた。
母からだった。音声メッセージがひとつ。ハルカは少し離れた場所で再生する。
ロシア語の、早口。
夕飯がどうとか、帰りが遅いなら先に食べるとか、そのくらいの内容だとすぐわかる。母が機嫌のいいときの語尾の上がり方も知っている。全部わかる。わかるのに、返信画面を開いたところで指が止まった。
日本語ならすぐ返せる。
今日ちょっと遅くなる。
先に食べてて。
たぶんそれだけだ。
でも母に日本語で返すのは、いつも少しだけ違う気がした。
ロシア語で打とうとすると、言葉が急に薄くなる。短い単語を並べることはできる。できるけれど、そのたびに、自分の中のどこかだけが取り残される。
ハルカは結局、
Позже. Не жди.
とだけ打って送った。
あとで。待たないで。
意味は通る。通るけれど、通ったことと届けたことは少し違う。
「先輩、始まりまーす」
顔を上げると、西野が手を振っていた。
ハルカは「はーい」と声を返し、スマホをポケットにしまった。
練習が終わる頃には、外はすでに青みを深くしていた。
部員たちは荷物をまとめ、鏡の前で汗を拭き、誰かがスマホで撮った今日の動画を回し見している。ハルカは床に転がったテーピングを拾い、スピーカーのコードをまとめ、最後に忘れ物がないかだけざっと見た。
そのとき、体育館の端で、星莉が一人で立っているのが見えた。
鏡のほうを向いて、今日やった振りの一部を小さく確認している。
みんなが帰り支度で散っているから、たぶん自分が見られていないと思っているのだろう。
星莉の身体が、さっきまでと違っていた。
肩甲骨が開く。
腕の軌道が、さっきまでより明らかに長い。
指先が途中で引っ込まない。
背骨が、見えない糸で上へ引かれるみたいに伸びる。
さっきまでの身体にはなかった余白があった。
音楽もないのに、呼吸だけで拍が見えるような動きだった。
ハルカは、その場で立ち止まった。
うまい、では足りない。
きれい、でも少し違う。
何かが出ようとしているのを、普段は押さえているように見えた。
そのとき、鏡越しに星莉の視線が上がった。
視線がぶつかる。
一拍遅れて、星莉の肩が元の位置に戻った。指先が帰る。背骨の伸びが消える。
見つかった、という表情はしない。
ただ、さっきまでそこにあったものだけが、痕跡もなく引っ込んだ。
ハルカはなぜか、すぐに声をかけられなかった。




