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可動域  作者: noriduke
1/8

1. 萎縮

放課後の第二体育館は、まだ一日の熱を床に溜めていた。


窓の高い位置から傾いた光が入って、ワックスの薄い艶を長く引っぱっている。後ろの列で、一年の西野が髪ゴムを落とし、その隣ではストレッチの順番を間違えている。


ハルカは列から半歩だけ抜けて、床に落ちた髪ゴムを拾った。


「はい」


「あ、すみません、先輩」


「今日はターン多いから、きつめに結んだほうがいいかも」


西野は受け取って、慌てたように頭を下げた。ハルカはもう次の場所へ目をやっている。前の列では、二年の真帆が座ったまま足首を回していた。右だけ回し方が浅い。たぶん昼の体育で少しひねった。声をかけるほどではない。終わったあとで湿布だけ渡せばいい。


そういう細かいほころびが、ハルカにはいくつも同時に見える。


別に自分がやらなくても回る日はある。ただ、気づいたものをそのままにしておくより、その場で少し動くほうが早かった。


見えてしまったものを、そのままにしておくほうが落ち着かなかった。


別にそれを特別だと思ったことはない。誰かが困りそうなら手が出るし、会話の輪から外れそうな子がいれば先に呼ぶ。ただ、それだけのことだ。


誰かに声をかけているあいだは、自分の立つ位置を考えなくて済む。

必要な場所に身体が先に収まる。けれど手が空くと、ときどきほんの一瞬だけ、自分の重心だけが遅れる。足は止まっているのに、どこに立ったことになっているのかが薄い。


顧問が手を叩いた。ざわつきが収まる。


「今日から練習に来る、二年の転入生です」


顧問がそう言って、隣に立っていた子へ視線を向けた。


「二年の星莉きらりです。よろしくお願いします」


声は小さすぎない。通るけれど、前に出す声ではなかった。

無理に縮めてもいないし、愛想を作ってもいない。礼儀として十分な長さだけ名乗って、それ以上のものを足さない話し方だった。


目立つ子、ではないはずなのに、なぜか輪郭だけがはっきりして見えた。

髪は艶のある黒で、肩にかかるくらいの長さに揃えられている。姿勢はいい。いい、というより、崩れないように立っている感じがある。肩の線がまっすぐで、膝も揃っている。見た目だけなら緊張している転入生だ。でもハルカは、その立ち方に少し引っかかった。


まるで写真の中にいるみたいだった。


「じゃあ、今日は基礎から一緒に入ろうか」


部長が笑って手を振る。


「二年の列の後ろ、入ってきて」


星莉は「はい」とだけ返して列へ入った。

ハルカはその背中を少しだけ目で追った。


曲が流れ始める。

アップのあとの基礎確認。ステップ、アイソレーション、腕の軌道。文化祭前だから全員の動きが少し速い。焦りというほどではないけれど、どこか先に進みたがっている身体のテンポだ。


星莉は、普通にできた。


いや、普通というのは少し違う。

足の置き方が正確で、カウントの取り方も早い。基礎の浅い子がやりがちな“なんとなくそれっぽい動き”ではなく、ちゃんと身体の位置を知っている動き方をする。指示を理解するのも早い。だから最初の数分は、ハルカもただ「基礎あるな」と思っていた。


けれど、顧問が一度全体を止めて確認に入った瞬間、その子の身体はほんの少しだけ変わった。


ほんの少し。たぶん、ほとんどの人にはわからないくらい。


肩が上がる、というほどではない。

ただ首の横の筋肉が薄く固くなる。

肘の軌道が少しだけ内側へ寄る。

ターンの終わりで、本来なら空間に残るはずの指先が、ひと呼吸ぶん早く身体に帰ってくる。


うまい。

でも狭い。


「はい、休憩」


曲が止まり、部員たちが水筒のほうへ散っていく。

星莉は列を外れるのが一拍遅かった。自分が遅れたというより、どこへ動けばいちばん無難かを先に測っている動きだった。


ハルカが先に口を開いた。


「荷物、あっちの壁際に置けるよ。鏡の前は移動で通るから」


星莉がこちらを見る。

目が合ったのはほんの一瞬だったのに、温度ではなく焦点の合い方だけが印象に残った。相手を見るというより、見られる理由を先に探す目だと思った。


「ありがとうございます」


丁寧だ。

丁寧だけれど、そこに少しも甘えがない。


「水、まだならあっち使っていいし」


「大丈夫です」


返事は早い。断る速度が、振り付けのように身体に入っていた。


ハルカはべつに気を悪くしない。

しないけれど、自分の前に一線引いて立つ子だと思った。


「ハルカ先輩、次どこからだっけ」


二年の真帆がペットボトルを片手に割り込んでくる。


「サビ前から。真帆、右足まだちょっと変だよね」


「え、わかります?」


「着地の音、右だけ軽いもん」


「うわ、やだ。そんなわかるんだ……」


「終わったら湿布貼っときな。部室にあるから」


真帆は苦笑して去っていった。


そのやりとりのあいだ、星莉は少し離れたところでタオルを畳んでいた。聞こえていないふりをするには近い距離だった。


また曲が流れる。

次は文化祭の振りの頭から。星莉は後ろで見ながら軽く身体を動かしている。覚えるのが早い。だけど、誰かの視線が触れた瞬間だけ、やはり身体の外側が少し縮む。閉じるというほど大きくはない。むしろ、閉じていないように見せるのがうまい。だから目立たない。


ハルカはそのたびに、喉の奥に小さな引っかかりが増えていくのを感じた。


休憩のとき、スマホが震えた。

母からだった。音声メッセージがひとつ。ハルカは少し離れた場所で再生する。


ロシア語の、早口。

夕飯がどうとか、帰りが遅いなら先に食べるとか、そのくらいの内容だとすぐわかる。母が機嫌のいいときの語尾の上がり方も知っている。全部わかる。わかるのに、返信画面を開いたところで指が止まった。


日本語ならすぐ返せる。

今日ちょっと遅くなる。

先に食べてて。

たぶんそれだけだ。


でも母に日本語で返すのは、いつも少しだけ違う気がした。


ロシア語で打とうとすると、言葉が急に薄くなる。短い単語を並べることはできる。できるけれど、そのたびに、自分の中のどこかだけが取り残される。


ハルカは結局、


Позже. Не жди.


とだけ打って送った。

あとで。待たないで。

意味は通る。通るけれど、通ったことと届けたことは少し違う。


「先輩、始まりまーす」


顔を上げると、西野が手を振っていた。

ハルカは「はーい」と声を返し、スマホをポケットにしまった。


練習が終わる頃には、外はすでに青みを深くしていた。

部員たちは荷物をまとめ、鏡の前で汗を拭き、誰かがスマホで撮った今日の動画を回し見している。ハルカは床に転がったテーピングを拾い、スピーカーのコードをまとめ、最後に忘れ物がないかだけざっと見た。


そのとき、体育館の端で、星莉が一人で立っているのが見えた。


鏡のほうを向いて、今日やった振りの一部を小さく確認している。

みんなが帰り支度で散っているから、たぶん自分が見られていないと思っているのだろう。


星莉の身体が、さっきまでと違っていた。


肩甲骨が開く。

腕の軌道が、さっきまでより明らかに長い。

指先が途中で引っ込まない。

背骨が、見えない糸で上へ引かれるみたいに伸びる。


さっきまでの身体にはなかった余白があった。

音楽もないのに、呼吸だけで拍が見えるような動きだった。


ハルカは、その場で立ち止まった。


うまい、では足りない。

きれい、でも少し違う。

何かが出ようとしているのを、普段は押さえているように見えた。


そのとき、鏡越しに星莉の視線が上がった。


視線がぶつかる。

一拍遅れて、星莉の肩が元の位置に戻った。指先が帰る。背骨の伸びが消える。


見つかった、という表情はしない。

ただ、さっきまでそこにあったものだけが、痕跡もなく引っ込んだ。


ハルカはなぜか、すぐに声をかけられなかった。

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