最終話 うれしやと 笑わせたくて とんぼ玉
芝居小屋が立ち並ぶ界隈に、宗次はやってきた。
手には小さく畳んだ文と、もうひとつ、小さな包み。
薄雪の芝居に行けば、薄雪の顔は見ることができる。
けれど、それで満足できるはずもなかった。
それでもはじめは、このまま諦めようかとも思った。
けれど、何もしないままでは、この先きっと後悔する。
やらないで悔やむよりかは、やって恥をかく方がよいと宗次は思った。
薄雪がいるはずの小屋の前まで来た。
正面から入ったところで、ただの観客でしかない。
それじゃただの芝居見物だ。
宗次がいまやりたいのは、そんなことではなかった。
どうすれば、薄雪にこの文を渡せるだろうか――
ものは試しと、茶屋に立ち寄り、そこの女将に声をかけてみた。
どうにか役者と話はできないもんですかね、と相談を持ち掛けると、女将は「誰だい、あんた」と胡散臭そうに宗次を見た。
「俺は、吉原で髪結いをしております、宗次と申します」
立ち上がって挨拶をした宗次の目を、女将はやけに長いこと、じいっと見ていた。
宗次は「だめなら、この文を渡してもらうだけでもいいんです」と頼んだが、女将の返事はつれないものだった。
「見ず知らずの男がいきなり来て、売れっ子女形に文を渡せなんて。ハイハイお安い御用でって、あたしが言うとでも思ったのかい?」
女将は言った。
「どうしてもってんなら、誰か後見人を連れてきな。筋の通らない話を、うちで引き受けるわけがないだろうよ」
宗次とて、吉原に通う髪結いとして、世間を知らないわけではない。
これは半ばわかっていた成り行きだったので、宗次は潔く頭をさげて女将に礼を言った。
「お手を取らせました」
茶代を払って、店を出ていく。
その宗次の背中に、女将の独り言が聞こえてきた。
「そういや、薄雪にも似たようなこと言われたねえ。吉原で髪結いをしてる人に、文を届けてもらえないかって」
宗次が振り返ると、女将は宗次の飲んだ茶碗を盆に載せながら、わざと宗次に聞こえる声で独り言を続けた。
「けど、ここで商売させてもらってるあたしには、それはできないのさ――ああ、もうじき菓子屋の小僧が芝居小屋に菓子を届けにくる頃だ。あの子は人懐こくて、役者とも仲がいいからねえ」
宗次は、茶屋のすぐそばの芝居小屋に急いだ。
着いて少しすると、女将の独り言の通り、商家の小僧が風呂敷包みを背負ってやってきた。
「坊」
宗次が声をかけると、小僧は立ち止まって、くるりと振り向いた。
「おめぇさん、どこのお店だい?」
宗次が聞くと、小僧は答えた。
「だるま屋だよ」
菓子を売る店だ。
この子のことだ、と宗次は胸の中が明るくなった。
「そうかい。だるま屋さん、悪いが、ちょいと頼まれてくれねぇか」
宗次は小僧に文と、小遣い銭を差し出した。
小僧は自分が店の屋号で呼ばれたことがこそばゆく、うれしそうだった。
小僧は心得顔で「いいよ」と言うと、文を携え、小屋の奥へ入っていった。
町内の一角に、稲荷社があった。
宗次は、そこで待っている、と薄雪にあてた文に書いた。
今日来られなくても、明日もあさっても、待っているからと。しあさっては来られないが、その次の日にまた来るからと。
夕刻が近づき、町の老人が稲荷社に燈明を灯しにきた。
宗次を見て何か言うわけでもなく、火だけ灯して、戻っていった。
やがて日暮れの気配に燈明の灯りが目立ち始める頃、小路の向こうから、ぱたぱたと急ぐ足音が聞こえてきた。
「宗次さん」
薄雪は、髷をほどいた髪を玉結びにしていた。
化粧もしていない、あどけない素顔で一点、口もとのほくろが艶めいていた。
――八幡様ではじめて宗次と会ったあの日、薄雪はいままで知らなかった感情を知った。
その人は、俺は宗次だと名乗った。
吉原で通いの髪結いをしているのだと。
『きれいだよ』
あのとき宗次に言われた言葉が、今日まで何度も耳の奥で聞こえた。
その幻が聞こえるたびに胸が苦しくなり、足もとからこちらを見上げていた宗次の姿が思い出された。
宗次がきれいだと言ったのは草履のことなのに、一瞬自分自身をそう言われたように錯覚したことが恥ずかしかった。
薄雪は思う。
宗次がわざわざここまで来たのは、再び会いたかったから?
宗次は思う。
薄雪が人目を忍んで来てくれたのは、俺に会いたかったから?
たしかなことは、相手からはっきり聞くまでわからない。
わかっているのは、お互いの鼓動が強く打っていることだけだった。
「また会えてよかった」
宗次が言って、懐から包みを取り出した。
「薄雪に渡したいものがあるんだ」
差し出された包みを、薄雪は両手で受け取った。
ひらいてみると、中には蜻蛉玉の簪が入っていた。
瑠璃に近い青のギヤマンに、渦の模様がめぐり、白い花が浮かんでいる。
かつて見たことのない、とても美しい玉だった。
「縁日じゃ買えなかっただろ? でも薄雪、すごく欲しそうにしてたから」
あの日、松の木の下で、縁日に来たのは『蜻蛉玉の簪』が欲しかったからだと、薄雪は宗次に話した。
出入りの小間物屋に頼めば探してきてくれるだろうけれど、どうしても自分で選んでみたかった、と。
そんな子供じみた話を、宗次はただ静かに聞いていた。
薄雪が簪を手に取り、燈明の灯りにかざしてみた。
ギヤマンの玉は夢のように光に透け、玉の芯に小さな灯が沈んだ。
宗次は薄雪の手からそっと簪を取ると、薄雪の髪に持っていった。
宗次のしなやかな指が薄雪の髪に触れ、簪を差す。
「その草履に合う色を選んだんだ」
薄雪がお気に入りだと言った草履。
青地の鼻緒に、淡い紫の小花が染められている。
いつも履いているその草履と一緒に身につけてもらえるように、宗次は簪を選んだと言った。
「宗次さんが選んでくれたの」
「馴染みの小間物屋でね。店の親父さんには散々冷やかされたけど」
照れて笑った宗次につられて、薄雪も笑った。
薄雪が、自分の髪に手をやって簪をたしかめた。
簪に指が触れると、薄雪から笑みがまたこぼれた。
「うれしい。ありがとう、宗次さん……だけど、いいの?」
「薄雪が喜んでくれるんなら、俺もうれしいよ」
宗次の頬がほんのりと赤い。
同じくらい自分の頬も赤いだろうかと薄雪は思うと、どうしてか心細いような気になった。
その目で宗次を見つめると、宗次もそらさずに受け止めてくれた。
「宗次さん、本当にありがとう。大事にする」
「うん」
宗次は言った。
「薄雪に選ばせてやれなくて、ごめんな。でも俺、薄雪のこと考えながら真剣に選んだんだ。いつか一緒に買いに行こう。そのときは薄雪が好きなのを選べばいい。それまでは……そいつで辛抱してくれるかい?」
黙って聞いていた薄雪は、首を横に振った。
「辛抱なんかしないよ」
そして再び簪に手を添えると、花がほころぶような笑顔を宗次に向けた。
「だって、すごく気に入ったもの。宗次さんが選んでくれた、この簪」
稲荷社の燈明は、暮れかかる町の一角で、ゆらゆらと揺れていた。
「似合ってるかな……?」
薄雪が尋ねると、
「よく似合ってる」
宗次も答えた。
そうしてふたりで微笑み合って、宗次が薄雪の手を握った。
「きれいだよ」
繋いだ手から、お互いの温もりが伝わってくる。
火照る顔を伏せると、青地に紫の鼻緒が燈明の灯りに浮かんで見えた。
濃藍に暮れきった空で、星が冴え冴えと輝いている。
客を送って表へ出た八瀬は、通りの端から、ちょうどこちらへ向かってくる人影に気がついた。
「お前さま」
八瀬はそれまでとは違う笑顔になって、仕事から戻った亭主を迎えた。
「お帰りなさいませ」
江戸の女房の口振りでそう言って、亭主の手から三味線を引き取る。
連れだって店の中へ入ろうとしたところで、八瀬が「あ」と夜空を見上げた。
「お星さんが飛びいした」
流れ星を見るのは久しぶりだった。
八瀬が無邪気に差す方角を、亭主も隣で見上げた。
「お前さま、もういっぺん持っててくださいな」
八瀬は亭主にもう一度三味線を渡し、自分は空に向かって手を合わせた。
暗い夜空に一心に何やら拝んで、そしてようやく納得したのか、八瀬は目をあけた。
「すみませんでした。三味線、お預かりします」
「何を拝んでたんだ?」
「はい。あとでゆっくりお前さまにもお話ししますけど、恋の成就をお願いしました」
わけを知らない亭主は、不思議そうに八瀬を見ていた。
八瀬は三味線を大事に両手に抱え、
「さあ、お前さま、入りんしょう」
そう言って艶やかに笑いかけ、明かりの灯る店の中へと亭主を誘った。
終
これにて「蜻蛉玉のかんざし」はおしまいです。
ここまでのお付き合いありがとうございました。
しばし、お江戸の旅をお楽しみいただけましたなら幸いです。