第一話 つまずいて ぬげた草履に 取り持たれ
その日は八幡様の縁日だった。
境内にはたくさんの露店が出ていた。
団子、飴細工、金魚売り……
太鼓や笛の音も響いており、参道はたいそうな賑わいだ。
薄雪は、人から顔が見えないように、頭巾がわりの手拭いをかぶってきた。
薄雪は、売れっ子の女形役者だった。
勝手に出歩くことは禁じられていたから、ばれちゃまずいのだ。
危ないのを承知で出かけてきたのは、ちょっとした冒険心と――『蜻蛉玉の簪』だった。
「薄雪は、蜻蛉玉って知ってるかい?」
ある日、芝居仲間にそう聞かれて、名だけは聞いたことがあると答えた。
芝居仲間は薄雪に、「俺もお客さんから聞いたんだけど」と話し始めた。
蜻蛉玉は、ギヤマンの玉に、花や渦のような模様が浮かんだものだ。
陽に透かすと、玉の芯に光が揺らめく。
さまざまな模様があって、ひとつとして同じものはないのだという。
「へえ……見てみたいな」
薄雪の頭に、蜻蛉玉のおぼろげな絵が浮かんだ。
出入りの小間物屋に頼めば、探して持ってきてくれるだろう。
けれど、そんなにきれいで、しかも唯一無二だというなら、自分で選んで買いたいと薄雪は思った。
この近くで売ってるところはないか、あとで女中にそれとなく尋ねてみると、「近くだったら、今度の八幡様の縁日にもあるんじゃないですかねえ」と言われた。
「あたしでよけりゃ買ってきましょうか?」
女中は薄雪にそう言ってくれたが、すぐに考え直して、
「ああ、けど、縁日の露店なんかより、小間物屋さんに言えば、ちゃんとしたのを持ってきてくれますよね」
そう言って、また仕事に戻っていった。
人でごった返す参道に、薄雪は気後れしそうになりながら、なんとか前に進んだ。
手拭いの一片を軽くくわえて、伏し目がちに歩く。
蜻蛉玉、蜻蛉玉。蜻蛉玉の簪はどこだろう。
軒を連ねる屋台にきょろきょろしながら歩いていると、ふと目の前に男が三人、立ちはだかった。
男たちは薄雪の、手拭いで隠した顔をじろじろと覗いてきた。
「人ちげぇだろ」
「あの薄雪がこんな所にいるもんか」
「けど、このほくろ……」
薄雪の唇のすぐ下には、小さなほくろがあった。
その憎らしいようなほくろは、整った薄雪の顔立ちに胸苦しいほどの人間味を与えていた。
巷で売られる役者絵にも、もれなくそのほくろは描かれている。
男たちから不躾な視線を送られた薄雪は、うつむき加減でその場を去ろうとした。
すると男たちは「ちょいと待ちなよ」と通せんぼをしてきた。
群衆にうまく紛れ込めたと思ったのに――
どうやって切り抜けようかと薄雪が思案したそのとき、横から別の男が割って入った。
「なんだ、こんなとこにいたのか」
不意に現れたその男は、三人の男たちに軽く会釈をすると、「すまねぇな。こいつは俺の女房だ」と言ってのけた。
薄雪が反論する間もないまま、男は薄雪の手を引いて、参道の外へ連れ出した。
うしろでは三人の男たちが「女房だとよ」「ほら見ろ、だから言ったろ」「そうだな、こんなとこに来るわきゃねぇな」と話しながら去っていった。
参道脇の松の木の下まで、薄雪は手を引かれたまま連れていかれた。
助けてくれたのはありがたいが、少し強引すぎないか。
「待っておくれよ、誰が女房だって――」
そう文句を言いかけたが、男の歩みが早いものだから、松の手前で石につまずき、草履が片っぽ脱げた。
「あ」
男は薄雪を振り返ると、同じように「あ」と声にした。
「すまねぇ。待ってな」
男が脱げた草履を拾ってくるのを、薄雪は松の幹に身を預けて待った。
戻ってきた男は薄雪の足もとにしゃがむと、草履を履かせようとした。
鼻緒は青地に、淡い紫の小花が染められている。
滑らかな肌をした形のよい足に、その草履はよく似合っていた。
だが男が草履を履かせると、かかとがはみ出た。
足に合わない草履を不思議に思った男が、顔を上げて尋ねた。
「この草履、小さくねぇか?」
その瞬間に、目が合った。
見上げる男と、見下ろす薄雪。
男の表情が驚きに変わるのがわかった。
「え……薄雪……?」
薄雪は、そのことについては何も言わず、先の問いにだけ素っ気なく答えた。
「この草履、気に入ってるから」
男は、そう答えた薄雪に頷いた。
「そうだな……よく似合ってる」
男は膝をついたまま、薄雪を見つめて言った。
「きれいだよ」
それまで聞こえていた参道のざわめきが、薄ぼんやりと遠くなった。
見つめられる目を、お互いにそらすことができなかった。
まるでこの松の木陰だけ時が止まったような、奇妙な心持ちになった。
そう錯覚するそばで、お囃子の笛がピイと響いて、止まっていた時の歩みがもとに戻った。
夢から覚めたような二人の耳に、周りの音が再びざわざわと聞こえてきた。
つづく
次回【第二話 あてずっぽう 言ったつもりが 図星さし】は9月13日公開予定です。
八瀬姉さんが登場します。