ナイトフォール・ホテル
「おい、カナー。おい、起きろ」
ロビーに射し込む朝の光が、カウンターに寄りかかっていたカナー・クラークの瞼をじわじわと照らしていた。
重たいまぶたをゆっくりと開けると、目の前にはホテルのオーナーが立っていた。
薄暗い夢の続きがまだ頭の片隅にまとわりついているような感覚。カナーはしばらく言葉を探して、ぼんやりとした声で呟く。
「あれ……オーナー。おはようございます」
「おう、おはよう。夜勤スタッフのカナー君。よく眠れたか?」
その声にはわずかな苛立ちがにじんでいて、朝の静けさを無理やり引き裂くような重苦しさがあった。
カナーは気まずさを隠すように微笑み、ぎこちなく身体を起こす。頭の奥が鈍く痛む。昨夜の記憶は靄の向こう側に沈んでいて、どうしても思い出せなかった。
「……もう朝なんですね」
自分でも驚くほど、空虚で力のない声だった。
「寝てた分の時間は給料から引くからな」
オーナーは吐き捨てるように言うと、踵を返してスタッフルームへと入っていった。
カナーはその背中を見送ったまま、ふと自分の胸の奥に浮かび上がったざわつきを覚えた。
この静かな朝の始まりに、どこか取り残されたような、現実感のない不安がじんわりと広がっていく。
ホテルの一日は、こうして見かけ上は何事もなく始まり、また夜を迎える。
夜の気配がロビーに満ちてくると、カナーはまたいつもの場所に座っていた。
深夜零時を過ぎ、ホテルは昼間の喧騒が嘘のように静まり返る。
薄暗いシャンデリアの下、カナー・クラークはデスクの椅子に身を沈め、どこか遠い目をしてフロアを見渡していた。
エレベーターの表示灯は“1”のまま。何事もなかったかのように静止し続けている。
時計の針が静かに時を刻み、空調の低いうなり声が、唯一、夜の存在を証明していた。
カナーはこのホテルで夜勤のフロントスタッフを務めている。
数ヶ月前、ここでは一人の女性――ローズというスタッフが、不可解な死を遂げた。彼女はカナーの先輩であり、夜の勤務を共にする存在だった。
彼女の死以来、このホテルには不穏な噂が付きまとい、客足も目に見えて遠のいた。
事件の詳細は明かされぬまま、ネット上では防犯カメラ映像の一部が流出し、「不審な女の動き」「呪われたホテル」などという見出しで拡散された。
空室が増え、経営は厳しさを増していったが、それでもカナーは辞めるわけにはいかなかった。年齢や病気の問題で働けない両親を支えるため、他に選べる道などなかったのだ。
ロビーの静寂を破るように、空調の微かな唸りが耳に残る中、カナーは無言で防犯カメラのモニターに目をやった。
エレベーター前の廊下。誰も通るはずのない深夜のその映像に、ふとドアの隙間で影が揺れた気がして、カナーは思わず肩をすくめた。
「気のせいだ」と呟いてみるものの、その声さえ頼りなく感じる。
あの忌まわしい事件が起きてからというもの、このホテルの夜は、確実に何かが歪んでしまった。
『夜中に変な音がする』『無人の階から足音が聞こえる』
スタッフや清掃員たちのそんな噂話を、カナーは何度も耳にしていた。
臆病で内向的な彼は、そのたびに心の奥底を冷たい指先でなぞられるような感覚に襲われた。はやくこんなところ辞めてしまいたいという衝動が胸に湧いては消えるが、それでも辞めるわけにはいかなかった。自分の収入が無くなってしまえば、家族は路頭に迷ってしまう。
ふいに、ある噂話がカナーの脳裏をよぎった。
ローズが亡くなった夜、防犯カメラには“どこか不自然な動きをするローズ”が映っていたという。
ネットでその映像は拡散され、いまや都市伝説のように囁かれている。
あの時、ローズはなぜ、あんなふうに動いていたのか。
『悪魔に取り憑かれた』『何か見てはいけないものを見てしまった』『精神的に不安定だった』――動画のコメント欄には、様々な憶測が乱れ飛んでいた。
カナー自身も、その映像には違和感を覚えていた。ローズは、そんな奇行をするような人物ではない。説明できない恐怖と、心の奥に引っかかる何かが、彼の思考を曇らせていた。
夜が深まるごとに、ホテルの空気は冷たく重く変わっていく。
カナーはブランケットを肩にかけ、自然と背中を丸める。
モニターには、誰もいない廊下やエレベーター前の映像が淡々と映っていたが、どこか不穏な気配が漂っているように思えた。
ときおり、廊下の奥で照明が微かに揺れる。
耳を澄ませば、空調の低いうなり声と、自分の心臓の音だけが響いていた。
しかし、――
ぺたり、ぺたりと、濡れた足音が遠くから近づいてくるような錯覚が、突然カナーの意識を打った。
神経が細く震え、全身に鳥肌が立つ。彼はおそるおそる椅子から立ち上がり、エレベーターの方へと歩を進めた。
誰もいないはずの床には、なぜか濡れたような靴跡がうっすらと浮かんでいる――ように見えた。
瞬間、足がすくみ、後ずさる。だが次の瞬間には、跡は何事もなかったかのように消えていた。
「見間違い……だよな」
自分に言い聞かせるように呟くも、不安は水面に投げられた石のように波紋を広げていく。
カナーは廊下を進み、ローズが最後に使っていた部屋の前で足を止めた。
ドアノブにそっと手を伸ばす。指先が冷たく、かすかに震えている。
ドアの向こうから、まるで誰かの視線がじっと突き刺さってくるような気配がして、呼吸が浅くなる。
「……気のせいだ」
無理やり自分にそう言い聞かせて背を向け、足早にロビーへと戻る。
だが胸の奥では、拭いきれないざわめきが静かに疼きつづけていた。
再びデスクに戻ったカナーは、無意識のうちに事件当日の防犯カメラの映像を再生していた。
画面の中で、女がエレベーターに乗っている――
長い髪、血が滲んでいるかのようにも見えるほど口を強く噛んで怯えた表情、妙な仕草でボタンを何度も押している。肩をすくめ、髪をかきあげる。なにかに怯えたように身をすくめる姿。
その不自然な動きと怯えた表情に、カナーは息を詰めた。
気づけば、唇を強く噛みしめて何度も再生を繰り返していた。自分でも理由がわからないまま、映像に釘付けになっていた。
そして次の瞬間、画面の中の女がふいに、カメラの方をじっと見返してきた。
その視線に射抜かれたように、カナーの背筋が凍りつく。
まるで自分の中にある“何か”を見透かすような瞳だった。
カナーは慌てて映像を止め、呼吸を整えようとした。
「……なんなんだよ」
呟いた言葉は、痛みが残る唇から零れ落ち、誰にも届かないまま、夜の闇に吸い込まれていった。
ふと気づくと、カナーの制服の袖に白い糸くずが絡んでいた。
その質感は、ローズがよく着ていた淡いセーターを思い出させる。やわらかくて、どこか切ない手触りだった。
カナーは指先でそっと糸を摘み取り、ためらいがちに払う。すると、不意に、ローズの笑顔がふわりと脳裏をよぎった。
そのとき、デスクで電話のベルが静寂を裂いた。
カナーはビクリと肩を震わせ、恐る恐る受話器を取る。
だが、相手は何も語らなかった。ただ耳に届いたのは――ぽた、ぽた――と、まるで水滴が床に落ちるような音。
それは水音というより、記憶の奥底に沈んだ何かが目覚めたような、不吉な響きだった。
胸の鼓動が一気に高まり、喉の奥が乾く。カナーは慌てて受話器を置き、荒い息を整えようとするが、胸のざわつきは消えない。
冷たい汗が背中を伝う中、カナーは薄暗いロビーを見渡した。
事件以来、このホテルの夜は、明らかに何かが狂ってしまっている。
皆気付いている。スタッフも清掃員も、オーナーも。けれど、誰もそれを直視しようとはしなかった。いや、できなかったのかもしれない。
「家族の写真でも見よう」
心のざわつきを鎮めたくて、カナーは静かに呟いた。何気ないその言葉の裏には、自分の安らかな居場所を確かめたいという無意識の願いが込められていた。
だが、ロッカーの前で足が止まる。ポケットにあるはずの鍵が、どこにも見当たらなかった。
「あれ、どこ行った……?」
落ち着かない手つきで制服のポケットや机の引き出しを探るが、鍵の感触はない。焦りがじわじわと喉元までせり上がってくる。
床にしゃがみこみ、ロッカーの下の暗がりを覗き込む。懐中電灯の明かりが狭い隙間を照らすと、奥に小さく光る金属の影が見えた。
「まじかよ……」
腕を伸ばしても指が届かない。物差しを持ってきて隙間に差し込み、慎重に横へと滑らせる。金属が擦れる微かな音とともに、鍵が手元に転がってきた。
ホッと息を吐きながらロッカーを開けた瞬間、カナーの心臓がわずかに跳ねた。
中にあったのは、見覚えのないヘアピンと、淡いブルーのスカーフ。
それは、確かに――ローズがよく身につけていたものだった。
どうして、これが自分のロッカーに?
思考が凍りつき、胸の奥に鈍く重いものが沈んでいく。
今しがたまでの安堵が、波のように引いていくのを、カナーはただ黙って見つめていた。
どうしても思い出せない。
だが、胸の奥に鋭い痛みと、濡れた足跡の記憶だけが残った。
カナーは、ヘアピンとスカーフを棚の奥にしまい、重い足取りでロビーへ戻った。
ファイルが並んでいる棚に視線を移し、カナーはそこに過去の巡回記録ノートが保管されていたことを思い出した。手を伸ばし、事件当時の月のノートを引き抜いてページをめくる。
そこには整然と日付と記録が並んでいた。だが、その中でただ一日だけ、ローズが亡くなった日だけが、ぽっかりと空白になっていた。
ページのその空白を見つめた瞬間、カナーの心に冷たい鉛のような重みが沈んだ。
――あの夜、自分は何をしていた?
答えを探そうとした途端、頭の奥に濃い霧が立ち込め、意識がぼやけていく。
それでもカナーは諦めきれなかった。両手で顔を覆い、息を詰めるようにして記憶の底に潜っていく。
浮かび上がってくるのは、断片的なイメージばかり。
夜のロビー、ローズの柔らかな笑顔、安心と切なさが入り混じったその表情。
だが次第に、見覚えのない情景が割り込んでくる。
冷たい夜風にさらされる頬、エレベーターの中で震える手、暗い廊下に響く遠ざかる足音、そして……冷たい水に沈んでいくような感覚。
「なんだ、これ……?」
そのとき、巡回の時間を知らせるアラームが、ロビーの静寂を破るように鳴り響いた。
カナーは重く鉛のように感じる身体を引きずり、しぶしぶ椅子から立ち上がった。心の奥には、つい先ほどまで見ていた記憶の断片が、まだくすぶるように残っている。
夜の廊下を歩くたび、天井の照明が間隔をあけて点在し、彼の背後に長く伸びる影がゆらりと揺れる。その影はまるで過去の後悔を引きずるようで、カナーは無意識に足取りを鈍らせた。
ふと気がつけば、屋上へと続く非常階段の前で足が止まっていた。
事件のあったあの夜以来、オーナーからは「不用意に屋上へ行くな」と念を押されていた場所。普段なら絶対に近づこうとは思わない場所だ。
しかし今夜に限って、冷たい引力のようなものが彼の背を押していた。吸い寄せられるように、ゆっくりと手を鉄の扉に伸ばしていく。
重たい扉がきしみをあげて開いた瞬間、冷たい夜風が頬を打ち、髪をざわりと揺らした。
夜空には雲が低く垂れこめ、街の明かりもぼんやりと滲んでいる。
屋上の片隅には、黒く塊のように沈んだ貯水タンクが、じっとこちらを見つめているかのように静かに佇んでいた。
カナーは躊躇いがちに一歩、また一歩と歩を進める。
やがてタンクの脇で立ち尽くし、張り詰めた空気の中で、心臓の鼓動が耳の奥でごうごうと響く。
タンクの蓋には、かすかにひっかいたような爪痕が刻まれていた。
そっと指先で蓋の縁をなぞった瞬間、鋭い冷気が背筋を走る。
そう思った瞬間、忘れたはずの光景が、ゆっくりと脳裏ににじみ出してきた。
――俺は、これを知っている。
目を閉じると、脳裏にイメージが流れ込んできた。
それはまるで夢の断片のように、色と輪郭の曖昧な記憶だった。
ローズの横顔。
何かを叫ぶ自分。声は出ているはずなのに、何を言ったのか言葉が聞き取れない。
困ったような、哀しみを湛えた眼差しで、ローズがこちらを見つめ、「ごめんなさい」と口の動きだけがはっきりと映る。
胸の奥で、細く張り詰めていた何かがぷつりと切れる感覚。突き動かされるように、衝動で彼女の手首を掴んだ。
その瞬間、景色が大きく揺れ、ローズの身体がバランスを崩してタンクの縁へと倒れかかる。
――落ちる。
カナーは息を呑んで目を見開いた。肩が小さく震えていた。
頭の奥で鈍く痛むような違和感。重たい霧が、現実と記憶の境界を曖昧にしている。
これは本当に自分の記憶なのか。
夢と現実、罪と無垢。その境界線が、ぐらぐらと不安定に揺れ続けていた。
気がつけば、足元のコンクリートの床に、濡れた靴跡が並んでいた。
タンクの縁からは、ぽた、ぽた――と、冷たく響く水滴の音。
それはまるで、封じ込めていた記憶が、ひとつずつ音を立てて染み出していくようだった。
カナーはしばらくその場に立ち尽くしていた。
頬を刺すような冷たい風に身を縮めながらも、彼の目は閉じられていた。まるで暗い夜の奥底へと意識を沈め、忘れ去られた記憶と対峙するかのように。
どれほどの時間が過ぎたのかは分からない。ただ、周囲の気温すらも感じられないほど、思考は内側へと深く沈み込んでいた。
気づいたときには、膝が震え、全身の力が抜けてその場に崩れ落ちていた。
「俺は……ローズ先輩に……何をした……?」
掠れる声で呟きながら、カナーはコンクリートの冷たさを手のひらに感じていた。それは現実の感触であり、自分がまだここにいるという確かな証だった。
混濁した記憶の底から、掴みどころのない過去を引きずり上げようと、必死に思考を巡らせる。
そのとき――遠くで、エレベーターの機械音が微かに響いた気がした。
あの夜も、たしかにあの音を聞いた。そう確信した瞬間、胸の奥にざらりとした違和感が浮かぶ。過去と現在が重なり合うような、ぞわりとする感覚。
カナーは息をひとつ吐き、膝に力を込めて立ち上がった。だが足元はまだおぼつかず、ふらつきながら非常階段へと向かう。
そのコンクリートの床には、半ば乾きかけた濡れた足跡が――まるで彼を導くように――ロビーの方へと続いていた。
フロントへ戻ると、カナーは無意識のうちに、防犯カメラの映像を再生していた。
心臓が荒々しく脈打ち、喉の奥が渇いて息苦しい。唇を噛みしめる力が強まり、汗ばんだ震える指でモニターの再生ボタンを押す。
モニターの中では、怯えたような動きを見せるローズが映っていた。
何度もボタンを押し、身をすくめ、時折こちらを振り返る仕草。その不自然な動き、肩をすくめて髪をかきあげる癖、唇を噛んで恐怖を堪えているような表情。
――その仕草に、カナーはぞっとした。
見覚えがある。いや、間違いない。あれは、自分の癖だ。
目の前の“ローズ”が、モニター越しにまっすぐこちらを見返してくる。
その瞳が、まるで鏡のように自分自身を映し出していた。
瞬間、カナーの中で何かが崩れ落ちた。
押し込められていた記憶の蓋が開き、濁流のように光景が押し寄せてくる。
ローズを誰にも見られないように屋上に呼び出し、彼女に告白した夜のこと。拒絶された瞬間、胸の奥に焼けつくような羞恥と、全身を締め付ける絶望が広がった。気づけば彼女の体を、強く掴んでいた。声にならない言葉、もみ合い、足を滑らせた拍子に彼女の身体はバランスを崩し、貯水タンクの縁を超えて――。
落ちていった。
ただ呆然と、その場に立ち尽くすしかなかった。
意識は宙を彷徨い、次に自分が何をしていたのかは、もはや断片でしか思い出せない。
だが確かに、自分は証拠を隠すためにローズの濡れた服を身につけ、エレベーターに乗り、各階を巡っていた。まるで、自分がローズであるかのように。
あのときの自分の表情が、モニターの中の“ローズ”の顔に重なった瞬間――にやり、と笑ったように見えた。
ぞわりと背筋を走る戦慄。
カナーは悲鳴をあげ、椅子から転げ落ちる。
ついに思い出してしまった。自分が何をしてしまったのか、どれだけ取り返しのつかないことを。
心臓が爆音のように鳴り響き、頭の中では誰かの怒声が木霊していた。
カナーは床に膝をつき、崩れ落ちるようにして耳を塞ぐ。だが、音は止まらなかった。
ぽた、ぽた――モニターの向こうから響き続ける水音が、過去の罪の証として、静かに彼を責め続けていた。
「違う、違う……俺は、俺は……俺じゃない!」
嗚咽まじりの叫びが、誰もいないロビーの静寂に突き刺さるように響き渡る。
気づけば、濡れた足跡が彼の足元を取り囲むように、無数に広がっていた。その不規則な軌跡は、まるで過去の罪が具現化したようで、どこにも逃げ場はなかった。彼女のものが入っている冷たくなったロッカーの鍵をポケットから取り出すと、衝動的に鍵をロッカーへと投げつけた。金属が硬く当たる乾いた音が、静まり返ったロビーに不自然に響く。鍵は小さく跳ね、ロッカーの下の隙間へと吸い込まれるように転がっていった。
カナーはその中心で、虚ろな目を大きく見開いたまま立ち尽くしていた。視界には何も映らない。けれど、彼の心には、遠ざかっていく夜明けの気配だけが確かに残っていた。
それは救いの光なのか、あるいは新たな絶望の幕開けなのか。彼には、もう分からなかった。
――そして、夜が明ける。
「どうした? カナー、大丈夫か?」
夜明け前の静かなロビーに、オーナーの声が低く響いた。
カウンターに寄りかかったままのカナーは、まるで電源を落とされた人形のように動かない。照明は消え、窓の外からわずかに差し込む黎明の光が、薄く彼の頬を照らしていた。
オーナーは一瞬だけ溜息をつくと、面倒そうに眉をひそめ、吐き捨てるように呟いた。
「……なんだ、またか。最近毎日だな。そろそろこいつも変えないとダメか?」
冷ややかなその声には、まるで家具や設備を扱うような感情のなさが滲んでいた。
オーナーは無遠慮に距離を詰め、無言のまま彼の頭に大きな手を置く。
その手のひらが頭に触れた瞬間、カナーの思考が凍るように停止した。
――ぽた、ぽた、という水音が遠のいていく。
意識が靄に包まれ、感情の輪郭が曖昧になっていく。そして、特定の記憶だけを、深く厚く覆い隠した。
「おい、カナー。おい、起きろ」
ロビーに射し込む朝の光が、カウンターに寄りかかっていたカナーの瞼をじわじわと照らしていた。
重たいまぶたをゆっくりと開けると、目の前にはホテルのオーナーが立っていた。その姿は、いつも通りのはずなのに、どこか微かに違和感があった。
薄暗い夢の残滓が、まだ意識の端にまとわりついている。目覚めたはずなのに、現実感が遠い。身体のどこかが重く、頭の奥では鈍い痛みがじんわりと鳴っていた。
カナーはぼんやりとした声で呟いた。
「あれ……オーナー。おはようございます」
「おう、おはよう。夜勤スタッフのカナー君。よく眠れたか?」
その声にはわずかな苛立ちがにじんでいて、朝の静けさを無理やり引き裂くような重苦しさがあった。
カナーは気まずさを隠すように微笑み、ぎこちなく身体を起こす。頭の奥が鈍く痛む。昨夜の記憶は靄の向こう側に沈んでいて、どうしても思い出せなかった。
「……もう朝なんですね」
自分でも驚くほど、空虚で力のない声だった。
「寝てた分の時間は給料から引くからな」
オーナーは吐き捨てるように言うと、踵を返してスタッフルームへと入っていった。
カナーはその背中を見送ったまま、ふと自分の胸の奥に浮かび上がったざわつきを覚えた。
この静かな朝の始まりに、まるで自分だけが別の時間に取り残されたかのような、現実感のない不安がじわじわと胸の内に広がっていった。周囲は確かに動いているのに、自分だけが空気の中に沈み込んでいくような感覚だった。
昨夜、なにかとても嫌な夢を見た気がする。しかし、目覚めた今となっては、その内容は濃霧の中に溶けるように輪郭を失っている。記憶の扉が固く閉ざされ、開けようとしようとすると胸の奥に冷たいものが流れ込んできた。
カナーは、ストレスやパニックを感じたときに無意識にしてしまう癖である、唇をきゅっと噛みしめた。冷え切った空気が肺を満たし、視線をそっと床に落とす。
――何もかもが曖昧で、けれど確かに恐ろしい。
そして、夜がまた訪れる。
ロビーの照明が淡くともり、壁の時計が静かに進むなか、カナーはまるで自分の存在を確かめるかのように、またいつもの場所――フロントの椅子に腰を下ろしていた。
夜の気配がじわじわと空間を満たし、今夜も彼の背筋をひやりと撫でていく。