09. 苦労性な弟 リチャード(下)
アンドレアはひとしきりとある野望について語ってくれた。それはマリーと、マリーが恋に落ちてくれそうな男性とを引き合わせる場を作り出す事であるらしい。彼女が語る理想は恋愛小説そのものだが、経済的にも精神的にも姉を支えてくれる優しい男性が良いと、候補に挙げる人選は中々まともで彼女の真剣さがうかがえる。
「姉の友人がとても優しい方で、弟としては嬉しい限りです」
リチャードは素直に頭を下げた。
「ありがとう。
それにしても、イーストン伯爵ですらマリーの心を動かせないなんて!
マリーはお家で本当に何も言わないの?」
アンドレア嬢が貴族には珍しく、言葉だけでなく心からの心配してくれているのは十分伝わった。しかも、マリーの古くからの友人であることも知っている。バロウズ家とイーストン家には、リチャードの知る範囲で深い関わりもない。故に、彼女は信頼に足る人物とリチャードは判断した。
「ですが、少し気になる噂もあるので」
勢いを削ぐような言葉に、アンドレア嬢はピタリと動きを止めた。
「グラットン家の次男の事はご存知ですか」
「面識は無いけれど」
「彼が失踪した時期とバカ親父が投資に失敗した時期は重なるんですよ。
家族にはラトリッジの名前や投資の話もしていたとか。
うちの失敗の直後、誰かに相談するために出かけてそのままだそうです」
あくまで、グラットン家の話である。しかし、アンドレア嬢は言葉に乗せなかった情報をきちんと受け取ってくれた。
「伯爵のシンパが多い会員制のクラブに出入りされていたかしら」
「ですから、姉を厚遇する理由が分からない」
アンドレア嬢の頭の中には、かなり情報量の多い貴族名鑑が所蔵されており、そこにはグラットン家の令息の中のカーティスが、リチャードと同い年であるという情報とともに記載されているだろう。
「良くない筋から融資を受けていたみたいだけれど、確かに失踪しても騒がなかったわね」
「アンドレア嬢にはラトリッジにはない情報網をお持ちでしょう。
我が家には、イーストン伯爵からのお願いに抵抗する力は微塵もありません。
もし姉を思っていただけるなら――…」
アンドレア嬢は眉間を手で押さえながら頷いたので、リチャードは言葉を飲み込んだ。
完全に会話が止まってしまったので、リチャードはがんばって別の話題をひねり出さねばならなかった。途中からアンドレア嬢も気を取り直して話に乗ってくれたが、非常に苦しい時間を過ごす羽目になった。
「今日の話は他言無用です。
変に勘ぐられてもいけないから、マリーにも。
事の大きさはまだ分からないけれど、不用意に動くのはおやめなさい。
誰か信頼できる人に相談したいと思うでしょうけど、先に私に相談して頂戴」
アンドレア嬢に強く、強く念を押されて、リチャードは何度も首を縦に振り続けた。
家に帰ると、姉が職場で貰ったからと焼き菓子をたくさん持ち帰ってきていた。一目でプレゼントと分かる見た目である。
「これ、イーストン伯爵から?」
リチャードが尋ねると、マリーは嫌そうな顔をした。
「そう。
こんな大層なのをくれるから、同じ職場の人から距離を置かれて散々よ」
と、ため息とともに吐き出す。焼き菓子に毒でも入ってるのではないかと疑ってリチャードは口にしなかったが、姉も父も、老執事までも、誰一人として腹を壊さなかった。
アンドレア嬢と不安を共有できて安心したのも束の間、今度は問題のイーストン伯爵が未来の近衛兵のスカウトに学校に現れた。カーティスは体調不良を理由に欠席していたが、おそらく彼は逃げたのだ。騎士としての将来は多少陰るかもしれないが、さすがに顔を合わせたくないのだろう。
カーティス以外の騎士過程の生徒らは、伯爵の訪問に浮足立っていた。下級貴族は庶子から伯爵に、しかも近衛隊長にまでなったイーストン伯爵に憧れないものはなかった。上級貴族も、騎士の花形である近衛隊の隊長の実力を認めていた。何より彼の見た目は遠目でも分かるくらいに整っている。
(俺も休めば良かったな)
図書館で自習というお題目で逃げ込んで、嵐が過ぎ去るのを待つ。同志は少なく、いつもはちらほらと自習する生徒がいるが、今日は閑散としており司書とリチャード以外の人間は見当たらない。
いつもは人気の窓際の席に陣取り、集中しきれていないことを自覚しつつ資料を開いてレポート用にメモを取る。そうしていると頭の中は次第に課題だけになって、いつもより静かなことも相まって作業に没頭できた。
キリの良い所まで進んで、なんとなく視線を感じて顔を上げると、整いすぎる顔で嫌味すら感じるイーストン伯爵が対面に座っていた。
「目の付け所が良いね、良い評価をもらえるだろう」
(何故、お前がここに)
驚きに声が出ない。
「お邪魔だったかな。
ここは学生時代の私の指定席でね。
懐かしくて来てみたら君が居たものだから。
お名前を伺っても?」
優しく微笑みかけてくれているが、絶対に伯爵は分かっていて声をかけている。
「リチャード・ラトリッジと申します」
「おや、君が。
私は近衛隊第三隊を預かるイーストン伯爵だ。
お姉さんも大変優秀で頼りにしているよ」
白々しい。やはり、今日は欠席するのが正解だった。
「姉がお世話になっております。
お褒め頂いた、とお伝えいたします」
リチャードも笑顔を作ると、伯爵は満足そうに頷いた。
伯爵の背後には人垣が……という訳では無く、彼を追いかけてきた生徒は教員によって入り口で堰き止められているようだった。護衛が側についているでもなく、伯爵は一人でリチャードの向かいに座っている。そのため、閑散とした図書館で悠長に会話をしていられる。
会話は終わったと思ったが、伯爵はまだ席を立たない。
「騎士課程で誰か、推薦できるような子はいるかな?
私が来ると皆萎縮してしまうから、日頃の様子は分かりにくくてね」
誰か知り合いはいるかと思ったが、そちらの知り合いはほとんどいない。ちらとカーティスのことを思い出したが、友人という程の関係でもなく、しかも他でもないイーストン伯爵に紹介するには憚りのありすぎる人選である。
「申し訳ありません。
生憎友人も少なく、騎士課程の生徒のことはあまり」
「別の課程の友人を作るのは確かに難しい」
リチャードの返答に、伯爵は残念がるでもなく笑顔で頷いた。
「勉強中にお邪魔して悪かったね。
お詫びはまた後日」
伯爵はようやく立ち上がり、颯爽と図書館を出ていった。その後ろ姿が扉の向こうに消えてから、リチャードは深いため息をついて机に突っ伏した。
(怖すぎるだろ)
タイミングも悪すぎる。勝手なことをするなと釘を刺しに来たとしか思えない。しかも、何処から何が漏れたのか分からない。カーティスが動いたのがバレたのか、アンドレアに伝えたのがバレたのか。心当たりはあるが、伯爵に情報が漏れる経路も分からない。
少しだけ、カーティスを売り渡したらどうなるだろうかと思った。カーティスだけ消えるのか、グラットン家ごと消えるのか、どちらかに加えてリチャードも消されるのか。カーティスの消えた兄のことを思うと現実的な予想であると思われるので考えるのをやめておく。
完全に集中力が切れたので、資料を棚に戻して図書館を出る。伯爵を追いかけてきた生徒らが図書館に居残る理由など毛ほどもなく、廊下はがらんとしていた。
後日、「イーストン伯爵と話したろ、どんな方だった?」と何度も声をかけられた。その中には騎士過程の生徒も含まれており、心の中で就職して自分で見て来いよと毒づいた。
「話しかけて邪魔をしたと、お気遣いいただいたよ」
そう答えると全員が「やっぱり!」と嬉しそうにしていた。嘘はついていない。お優しい方だからと盛り上がっていたが、本当にお優しい人間は勉強中の人間の手を止めてまで雑談を持ちかけたりしないと思うがどうだろうか。
問題の“お詫び”は、後日マリーを介さず直接リチャード宛で家に届けられた。中身は高そうな万年筆で、替えのペン先までいくつか入っていた。
しかし、リチャードのペンはほんのついでで、本命はマリー宛ての大量の糸と何枚かの布である。
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