03. 幸せな令嬢 マリー(3)
書類を他部署に持って回るという雑用を終えて戻る途中、「よろしいかしら」と、まったくよろしくない声音でマリーは呼び止められた。振り返るとウィルズベリー侯爵の三女エリザが、取り巻きを伴って立っていた。
「……何かご用でしょうか」
エリザはイーストン伯爵にアプローチしている令嬢の中でも筆頭格で、きつく巻いた髪は毛先まで手入れが行き届いて艷やかである。彼女ほどのお家柄であれば婚姻など何とでもなりそうだが、思うようにならないのは伯爵が庶子であるという点が引っかかるのだろうか。
それでもエリザ嬢は、おそらくお近づきになるためだけに、別に働く必要は無いのに王宮勤めを開始するなど、中々に行動力のあるご令嬢である。彼女のせいで有能な官吏が一人減ったのかと思うといたたまれないが。
「ラトリッジ家のマリー様ね?
一つ忠告いたしますけれど、イーストン伯爵にすり寄る恥知らずなお噂が流れておいでよ」
言い訳をするにしても、昔お会いしたことがあるらしい、というのはわざわざ言うべきでは無いだろう。何せマリーは忘れていた。
「イーストン伯爵は、急な異動により職場に馴染めぬ私をお気遣い下さっているだけですよ。
定例の異動の時期ではありませんでしたし、前の部署とは仕事の内容も異なりますので」
本当は、伯爵が構いに来るせいで浮いているだけだが。侯爵令嬢にまで言い返せるほど、金目の家財を売り払ったあたりからマリーもずいぶん図太くなった。
伯爵を持ち上げつつマリーを下げてやると、狙いどおりエリザのトーンが落ちる。
「庭園で過ごしておられる姿が見られておりますのよ。
随分親密そうな距離で、と」
やっぱり見られていたか、という疲労感とともに、マリーはこの場を乗り切る策を一つ思いついた。
「友人の結婚祝いも満足に用意できず途方に暮れておりましたところ、見かねてお声掛けいただきました。
伯爵ご依頼の鷲をあしらった刺繍のハンカチを納品致します対価として、布や糸を用立てていただくことになりました。
その際図案集を手にしておりましたから、そのときの事でしょう。
当家はその、経済的に……」
ちょっと貧乏推しがすぎるかな、と思ったが、エリザのような裕福なご令嬢の勢いを挫くには十分だったらしい。投資下手なラトリッジの悪評なんかも併せて思い出したはずである。
「イーストン伯爵は鷲が、お好きなの?」
戦う相手とは見なされなくなったのか、エリザは情報収集に舵を切ってくれた。ありがたい。マリーも戦うつもりはない。
「ご注文いただいたのは鷲でした。
力強いモチーフを好まれるのかもしれません」
取り巻きがざわついている。何を渡していたのだろうか。レースのハンカチなどであれば、高級でも好みとは異なるのかもしれない。
「友人の結婚もそう遠くありませんので、納品は少し先になりますが」
だから貴女が先にプレゼントしてね、というマリーの企みは正しく伝わったようで、エリザは持っていた扇子を開いて口元を隠した。
「マリー様も未婚の女性なのだから、もう少し気をつけられることね。
イーストン伯爵のお噂は、尾ひれがついてすぐに広まるものだから。
ご迷惑をおかけすることになるわ」
「ご指摘ありがとうございます、以後気を付けます」
やっと終わった。エリザの襲撃はその一度きりで、しかもお土産を持たせてあげたので後腐れもなかったが、誰とは分からない嫌がらせはその後もぽつぽつと発生した。
それほどイーストン伯爵の視界に入りたいならば一心不乱に働いて、異動希望を出せば良いのだ。事実、第三隊の事務員はマリーの他に男性が3人で、うち2人はケガのため内勤に変わった元騎士である。その2人は悪い人ではないが、書類仕事が得意な訳ではない。残りの1人は事務職採用だったためマリーの着任を文字どおり泣いて喜んでくれたが、伯爵が威圧したせいで距離を置かれている。事務の手は決して潤沢ではない。
そんな中、暇なのか書類に見せかけたゴミを盛られたデスクを片付けていると、元騎士のクリフベリー氏が手伝いを申し出てくれた。
「あまり中身がわからないから、お預かりしてしまって」
分かりやすく落ち込んでいるので、追い打ちをかけるのがかわいそうなほどである。流れで少し話しができたが、今まで来た女性の事務員は中々の人達だったらしい。
「以前いた女性達は、伯爵にあてられてしまってね……」
皆最初は真面目に働くが、美貌の伯爵を前にすると狂ってしまうらしい。クリフベリー氏は遠い目をして笑った。
「君も同じだろうと、遠巻きにしていて申し訳ない」
話してみると、辺境出身で妻子があり、子は父を目指して近衛隊に入りたいと、剣術の稽古に励んでいるらしい。本人は暴漢から王子を守った結果、脚に後遺症が残り動き回ることが難しいらしい。
一時は仕事を失い絶望していたが、別の形でも古巣に関わる仕事を与えてもらえて伯爵には感謝の念しか無い、と語っていた。
もう一人の元騎士アシュトン氏も、クリフベリー氏がマリーと話しているのを見て少しずつではあるが受け入れてくれている様子である。彼は利き腕の肘から先が無い。可愛い奥様とまだまだ小さいお子さんのために、仕事を辞める訳にはいかないとクリフベリー氏は聞いているそうだ。第三隊の中で伯爵の評価が高いのも、そういう騎士に直接関係する福祉に力を入れているからで、感謝する者は多いようだ。
たった一人の事務採用者ローマス氏は、打ち解ける云々以前に忙殺されている。彼の給料が高いことについて、アシュトン氏もクリフベリー氏も異論は無いらしい。自分たちが役に立っていないせいでと、申し訳なさそうに言っていた。
マリーは元の部署と同じ手続きである支出なんかの書類や書類の整理・管理を主に行い、書類の持ち回りなんかの仕事はアシュトン氏に、クリフベリー氏にはマリーとローマス氏のサポートをお願いすることにした。ローマス氏が忙しすぎて指導まっで手が回っていないのが一番の問題のように思われたので、簡単なところから説明をする。会話がうまれるとそのあたりの連携も上手く回り始め、ローマス氏の机周りも若干整理されはじめた。
話せる人々だと分かると、それなりに気を遣う気にもなるもので、おやつ時にお茶をいれるなどすると喜んでもらえた。忙殺されているローマス氏からも謝辞をいただいたし、やっていけそうな気がしている。
仕事の方が何とかなってくると、今度はアンドレアに渡すプレゼントが目下の課題になってくる。生地も糸も当初の予定よりも豪華なものになり、俄然やる気が出たのかフレアが頑張ってくれている。おかげでかなり手の込んだ刺繍になりそうだ。伯爵からいただいた糸はたっぷりあるので、十分足りる見込みである。
風の噂で、エリザ嬢が鷲と第三隊の盾の柄を刺繍したハンカチを伯爵にプレゼントし、無事受け取ってもらえた上に甘やかな笑みまで向けてもらったらしいと聞いた。彼女は上手くやれている。そのあたりでマリーへの嫌がらせも減ったので、矛先が変わったものと思われる。素晴らしい。
そうこうしているうちにアンドレアから式の詳細が固まりつつあるという近況報告の手紙とともに、マリーにはお披露目のガーデンパーティーへの招待状が送られてきた。
(ガーデンパーティーなら、何とかなるかな)
マリーは格式の落ちるガーデンパーティーへの招待であったことにほっと胸を撫で下ろした。もちろん衣装の心配である。貴族ばかり集まる晩餐会などに呼ばれても、エスコートを頼む先も、着ていく衣装も何もかも足りない。
型落ちのドレスも手を入れれば、まだなんとか見られるシルエットに変えられる気がする。おそらく商売の方の知り合いを招くパーティーで、貴族の茶会ほど煩い人もいないだろう。
「私にエスコートさせてもらえないかな」
伯爵がそんなことを言い出すまでは、大きな問題もなくなんとかなりそうだと思っていた時期もマリーには確かにありました。
例のごとく事務室に気まぐれに現れた伯爵はどういう経路で入手したのか、マリーも見たことのあるバロウズ家のガーデンパーティーの招待状を持っていた。話の成り行きを気にしているのか、アシュトン氏もクリフベリー氏も動きがぎこちない。ローマス氏だけが変わらずペンを走らせている。
「しかるべきご令嬢がいらっしゃるのでは」
「あまり言いたくはないけど、君が用意したプレゼントをバックアップさせてもらいましたからね。
しかも、もう一つ私に借りがあるでしょう」
伯爵はにこやかに、ポケットからハンカチを取り出した。鷲と、第三隊の盾の複雑な意匠の刺繍が入ったハンカチを。
「――…素敵ナ刺繍デスネ」
マリーはなんとか感想を絞り出した。エリザ嬢の行動力がマリーの首を絞めている。和やかな尋問である。
「ええ、あるご令嬢からの贈り物でね。
このモチーフのお話はどこから漏れたのでしょうね?」
机の上に置かれたハンカチの刺繍を、伯爵は長い指でとん、とついた。
「私は貴女にお願いした以外には話していませんし、
依頼したものはまだ手元に届かないのですが」
あまりの緊張感に、ローマス氏のペンを走らせる音すら止まった。無駄に張り詰めた空気が事務室を支配している。
「もう一度“お願い”なのですが。
私にエスコートさせてもらえないかな」
マリーの立場が弱すぎる。こうして、下手人マリーは伯爵のエスコートでアンドレアのガーデンパーティーに出席することとなった。伯爵の退席後、3人の同僚はそれぞれ言葉少なに励ましてくれた。
「隊長は用意周到な方ですから、ヘタを打ちましたね」
ローマス氏の励ましだけがマリーの神経を逆なでたものの、事実であるため言い返す言葉は見つからなかった。
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