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12. 幸せな伯爵 ルーカス(上)

 物心ついたとき、ルーカスの名前はまだマーカスであり、祖父母からは疎まれていたことをはっきりと覚えている。

 実の母親の顔は片手で数えるほどしか見ていない。彼女は地方の商家の後添えとしてどこかに嫁いでいった後だったので、マーカスの事を気にしている様子ではなかった。それなりに裕福な家に嫁がせるための策の一つとして祖父母はマーカスを引き取っただけのようで、邪魔だったのだろう。

 おかげで当時は腹を空かせていることが多かった。思い返せばぎりぎり最低限以下の扱いしか受けられていなかったので、ほぼ物乞いのような生活をしていた。幸いなことに、ラトリッジ領は裕福とは言えないものの安定した生活が送れている家も多く、幼い物乞いに対して皆同情的だった。

 六歳頃に、孤児と間違えられて教会が運営する孤児院に連れていかれたことがある。非常に慈悲深い彼らはマーカスの状況に非常にショックを受けたようで、領主様にかけあってある程度のお世話をしてくれるようになった。祖父母は恥ずかしいと嫌がっていたが、かといって世話を放棄していたので、マーカスは勝手に孤児院を訪ねるようになった。

 おかげ様で栄養状態はかなり改善し、衛生的にも清潔にするための知識や技術を教えて貰えた。身ぎれいにすると「あら可愛い」だの、「キレイなお目目」だの、えらく褒めながら頭を撫でて来る。見た目の重要度を知った出来事である。罵倒する言葉以外を大量に浴び始めたのもこの頃のことである。

 孤児院の子らと遊んでいるのは楽しかった。親が居ない、親に捨てられたからといじめて来るような馬鹿はいないし、そういった個人的な事情にずかずかと踏み込んでくる奴もいない。非常に居心地の良い場所だった。

 孤児院では、働き始めるための準備であるからと算術の授業が行われていた。別にそこに潜りこんでも孤児院の関係者はマーカスを摘まみだしたりしなかったので、彼らと並んで基礎的な算術を学んだ。そこで初めてマーカスは自分がそれなりに優秀な頭脳を備えているらしいことを知った。同じ年頃の子らと同じ内容では満足できず、年上の子らの授業に潜り込むこともあった。皆、マーカスの身勝手な行動に寛容だった。

 ある日、孤児院の子らが領主様の屋敷のお庭で開かれるパーティーに招かれた。マーカスは自分とは無関係とお持っていたが、仲間だからと連れて行ってくれた。そこでマリーを初めて見た。

 領主様ご一家は綺麗な恰好をしていて、マリーは赤みがかった金色の髪をきっちりと編み上げていた。髪色は母譲りであるらしく、同じ髪色の女性が小さな子を抱っこしていた。理知的な青い瞳はお客様に向けられており、子どもらしからぬ落ち着きで対応している姿は、同じ年頃の子どもとして少々恥ずかしく思ったくらいである。

 孤児院の責任者は、マーカスの手を引いて領主様ご一家への挨拶に向かった。仲間らは美味しそうなごちそうを食べるのに夢中で、羨ましい。

 

「この子がマーカスね、こんにちは。

 頭が良いって評判よ」


 奥様がにこにこと話しかけてくださる。期待していることがありありと見えて、照れくさい気持ちになる。


「ありがとうございます」


 どう答えるのが普通なのか分からず、そう言って笑ってみる。


「ご挨拶なさい、マリー」


 母親に促されて、マリーの青い瞳がルーカスに向けられた。汚い乞食を見るでもなく、かわいそうな孤児を見るでもなく、その視線はそこにいるルーカスを捉えていた。


「初めまして、ラトリッジ家のマリーと申します」


「マーカスと申します」


 マリーとの会話はそれだけである。

 孤児院の子どもと話す内容などなく、領主様ご一家がマーカスに注目したのはその一瞬だった。その後もマリーは大人の会話に参加していた。彼女の存在はマーカスが居るのとは別世界で、完璧で、きらきらと輝いて見えたのだった。マリーをずっと見ていたので、孤児院の責任者と領主様ご一家が何を話していたのかは覚えていない。

 そんな風に自由に暮らしているうちに、祖父母が相次いで息を引き取ったので、マーカスは正式に孤児院の子になった。寮に入り、遊び、学び、生活を共にするのは、祖父母のいる家で居るときよりもうんと楽しい日々だった。

 その生活も長くは続かず、イーストン伯爵家の執事を名乗る老人がマーカスを引き取りに現れた。話は先にまとまっていたようで、着の身着のままマーカスは馬車に押し込まれた。友人らに分かれを告げる間もなかった。

 馬車の中で、マーカスは自分がイーストン伯爵がメイドに産ませた子で、健康な男児に恵まれなかった伯爵が跡継ぎにするため手元に戻すらしいという説明を受けた。執事は感情の読みにくく、何を考えているのか分からなかった。

 伯爵家の離れに放り込まれたマーカスは、これからは「ルーカス」と名乗るように言われた。貴族としての教養、礼儀作法の教育がそこから始まり、その教育のほとんどは老執事によって行われた。彼のお眼鏡にかなうまで外に出られないとまで言われた。別になりたくて伯爵家の庶子になったつもりもないが、上手く行けばマリーにまた会えるかもしれないと思うと少しだけ力が湧いた。

 幸いなことに、この老執事は非常に講師としては有能で、また、ルーカスも孤児院で受けた基礎的な学力があったおかげで、年齢相応の知識はすぐに吸収したし、何なら先取りで教えてくれた内容にもすぐに対応できた。

 礼儀作法を身に着けるには少々時間がかかったが、座学がある程度目途が立った時点から剣術の稽古も始まった。それはさすがに老執事相手ではなく、伯爵家の警備を一任されている騎士からの手ほどきであった。

 名前も覚えていないその騎士は、庶子であるルーカスのことを明らかに軽んじていた。そのころにはある程度身分の上下も、自分の庶子という立場についても理解していたが、この騎士風情に馬鹿にされる理由は無いということも理解していた。腹立たしく思いながらも生ぬるい指導らしきものを受け、しばらくして気が付いた。


「なぜ、お前から剣術を教えてもらう事ができないの」


 ルーカスが老執事に言うと、執事は動きをとめて珍しくにこにこ顔になった。


「なぜこのロートルに教えを乞うのですかな」


「あの男よりも強いのだろう」


 そう言うと、老執事は嬉しそうに「有難いお言葉ですねえ」と頷いた。

 そんな会話をしてすぐに、ルーカスは老執事の案内で前イーストン伯爵が隠居している別邸へ赴いた。まだ現当主にも会ったことはなかったし、前伯爵からどういう理屈で招かれたのか分からない。

 別邸は青々と木々が枝葉を伸ばす、美しく、小さい屋敷だった。客間のソファに座っていると、その屋敷の田舎風の雰囲気からかけ離れた、背筋の伸びた老人が入って来た。ルーカスは本能から危険を察知し、ソファから立ち上がった。


「座っておれ、別に取って食いやせん」


 老人は、老人らしからぬ身のこなしで颯爽と向かいに座る。老執事も流れるような手際でお茶の用意をする。メイドも慣れた様子でてきぱきとその手伝いをする。逃げ出したいくらいの緊張を感じているのはルーカスだけらしかった。


「よく来たな。

 出来損ないの子にしては聡いとスミスから聞いている。

 あれが人を褒めることは珍しいから誇ると良い」


 前伯爵が皮肉っぽく笑うと、老執事が頭を下げた。


「さて、ここに呼んだ理由だが。

 そこのスミスは年を取ったが、剣の腕の立つ男で間違いない。

 それを見抜いた孫がいると聞いて、私は早々に馬鹿息子から爵位を継がせたいのだよ」


 手にしていた杖の、柄を撫でながら前伯爵は笑っている。


「しかし、私は庶子で」


「あの寝てばかりの怠け者が居なければ問題無い。

 病弱ではないのは分かっている、任せておけ。

 お前の教育はスミスに一任する。

 さあさあ、この爺にここに来るまでのことを聞かせておくれ」


 最後ばかりは好々爺のような笑みを浮かべたが、危険な老人であることだけはよくわかった。

 こうして、ルーカスは前伯爵に時折呼び出され、進捗を確認されながら、老執事によるスパルタ教育を受けていくこととなったのだった。老執事の名前がジョン・スミスと紹介されたので、本名なのか偽名なのかいまだに不明である。

 しばらくして、健康不安のため部屋に籠っていた嫡子がついに死亡したという報せがあった。ルーカスにも喪服が与えられ、老執事と共に葬儀に参列した。父の妻である人物は棺にすがって泣き続けていたので顔もよく分からなかったし、ぽっちゃりとした実の父を遠目に初めて見たが、血のつながりは特に感じなかった。

 それに伴い、ルーカスは離れから母屋に居を移した。客間の一つを与えられたという状態ではあるが、これから家を継ぐ者としての待遇を得たのはこの時である。老執事はルーカス付のまま留め置かれ、引き続き各種の指導を受けることになった。

 ルーカスは更に成長し、背丈が父と並ぶ頃合いで、父はルーカスの婚約者を早く選定したいと考えたらしく、パーティーに連れ出されるようになった。庶子という出自でありながら、反応は然程悪くない様子であった。その理由の一つがルーカスの容姿であるということは、会話の端々からもすぐに分かった。媚びた視線を向けるご令嬢も少なからず居り、気色の悪さの方が先に立った。


(伯爵家のために、父の選んだ妻を得るのは絶対に嫌だ)


 ルーカスは祖父に相談した。


「伯爵が縁談を準備し始めていますが、彼がまともな相手を選べるとは思えません。

 それに、私には憧れている方が居ります。

 並行して伯爵家の利益になる方を探しますので、しばらく猶予を頂戴したい」


「相手による」


 さすがに少々老いを感じさせるようになった祖父は、厳しい顔で言った。


「ラトリッジ家のマリー嬢です」


 伝えると、祖父はやはり悪役めいた、人の悪そうな笑みを浮かべた。


「どんな美女の名前が出るかと思ったら、良い趣味だ。

 彼女の才能は認めるから利益はお前が補填するように。

 近衛隊の隊長になれ、五年の猶予をやる。

 お断りされたときの代案は馬鹿息子ではなく私が考える」


 そういう話になったので、ルーカスは十五歳にして近衛隊の入隊試験を受けたのだった。

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