ベクトル
矢印は常に定まらない。樹海のコンパスのようにフラフラと彷徨う。方向を知りたかったらペンで書くしかない。しかしそれもすぐに壊れてしまうだろう。あ、ウサギが針を持っていってしまった。取り返さなくては。待てよ。今失った物は何だ。排気口から漏れ出すシチューの香り、ジメジメとした灰色の暗がり、灯台の足元に転がっている一粒の石。取り返したところで得られるのは、土星のガスに月の砂、空っぽの箱がおまけについてくるだけ。私は暫し躊躇した。どっちの方がいいかなんて、眠っていたならすぐに分かっただろうに。ここは夢より不確かな街。口から今にも飛び出そうとする雪化粧をなんとか飲み込んで、私は後ろに下がった。牛車が目の前をとんでもないスピードで通り過ぎた。道中の泥をかき集め跳ね飛ばしながら。頭から泥を被るよりも酷い有様に呆然としつつ過ぎた轍の跡を目でなぞった。するとどうだろう。あれほどまでにくっきりとしていた跡が消えてゆく。代わりに表れたのはストロベリーを28階から落としてゾウにぐちゃぐちゃに踏み潰されたように滲んだ赤。どんどんと広がっていき、私の足元まで染めていった。そこに無数の星々の煌めくの影を認めた。赤い染みは青い影、白い海は、黒い大地。そうか、頭を垂れることは星を見上げるのと同じこと。矢印の描かれた丸い看板が何処からともなく表れてそれを告げた。合成と回転はこれが為に示されたのだ。