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第九話:人形/あるいは東京市営食肉処理場第五号(その6)

 血を分けた最後の息子が死んだと聞いたとき、空はうすく曇り、彼女は焼け跡から一枚の写真を取り出したところだった。


 彼は産科医で、彼の勤める病院が焼け落ちるまで彼は、この世界に子どもを迎えるための仕事をしていた。


 彼の妻は看護師で、彼女も、夫とともに何人もの子ども達をこの世に迎える手伝いをしていた。が、結局、他人の子どもの世話が忙し過ぎたためだろうか、それとも、夫婦ともに栄養不足のやせっぽちだったせいだろうか、彼らの間に、ついぞ子どもは出来なかった。


 上の兄ふたりは軍隊に取られ、ひとりは南方で、ひとりは大陸で、すでに名誉のなんとかかんとかを遂げていた。


 彼らの姉であり妹であった彼女の娘は、嫁ぎ先から工場に働きに出ていたが、ここに書くのもバカバカしいほどのお粗末な事故に巻き込まれ、とおの昔に亡くなっていた。


 それから、末子夫婦の死を報されても彼女は、なみだを流すようなことはなかった。いや、戦争が始まってからこっち、彼女は、なにを見ても、なにを聞いても、自らなみだを流すようなことはなかった――先に話した、一度を除いて。


 そうしてそれは、彼女が瓦礫の中から見付けた一枚の写真、彼女の本当の家族との写真、そこに写る、色あせた彼らのすがたを見た、そのときでも同じだった。


 彼らは、それが、まるで当たり前かのように笑っていた。


 そうしてそれから、その瓦礫の中から、半年も経たないうちに夏が来て、ラジオの中から、甲高い男の声が聞こえた。


 なにやら、偉そうな言葉を並べ立てていた。


 子どもたちは通りに飛び出し、バカな男たちは、その場に泣き崩れていた。


 女たちは生活の続きをはじめ、彼女は、灰色のとおりを、ひとり歩いていた。


 すると、それからしばらくして彼女は、見たこともない場所へとたどり着いていた。


 そこには、乗り捨てられた馬車が停まっていた。ひとりで。


 それは二頭立ての馬車だったが、荷台はどこか棺桶のかたちをしていて、赤い顔の馬が一頭、とおくを見つめて立っていた。


 もう片方の馬は、きっと炎に焼かれたか、人々の口にでも入ったのだろう。


 赤い顔の馬のひづめは割れ、くつわの食みで口は引き裂かれていた。そうして、その夏の熱さに彼の精神は発狂寸前――のように見えた。


 誰が彼をここまで使い倒し乗り捨てたのか、彼女には分からなかった。


 しかし、瓦礫の向こう側ではきれいな小鳥たちがなにかお喋りをしていて、その美しい歌声に気付くやいなや彼女は、ぼろぼろと涙をこぼし、くずおれ、ついには泣き出していた。


 戦争が始まってからこっち、彼女は、なにを見ても、なにを聞いても、自らなみだを流すようなことはなかったのに、それでも、彼女は泣いた。えんえん、えんえん、えんえんと、今度ばかりは、わらいもなかった。


 しばらくすると、彼女のことを憐れんだのだろうか、鳥たちの中のひとりが、赤い顔の馬の近くまで来て、なにやら彼に耳打ちをした。


「ところで奥さま」


 赤い顔の馬は言った。彼女にだけ聞こえる声で、


「私にいっぱい、水を汲んで来てはくれませんかね?」


 そうして、彼女にしか聞こえぬ声で、


「代わりに私は、あなたの人生に、あなたが愛したいものを、あなたに与えて、差し上げましょう」


     *


 ペロペロ、ペロペロ、

 ペロペロ、ペロペロ。


 次に柳瀬ヒトミが目を覚ましたとき、そこはちいさなベッドの上で、よだれで顔はベタベタにされていた。この家の飼い猫の手によって。


「フェンちゃんだっけ?」


 彼女は言った。ふらつく頭で右手を見ると、腕の時計は、そろそろ14時を指そうとしていた。が、しかし、


「起こしてくれたの? ありがとね」


 と続けて見えた、机の上の目覚まし時計は、いまだ11時をいくつか過ぎたところであった。


「うーん?」彼女はうなり、猫に向かって、「あれ、どういうことだか分かる?」


 と、そう訊いたのだが、彼女の言葉を、この家の猫が理解したかどうかは不明だし、それよりなにより彼女は、途端にヒトミの顔をベタベタにすることをやめると、そのままスルリと、彼女の胸のあたりへと潜り込んで来た。きっと、彼女の主人と同じ匂いと雰囲気を、この突然の侵入者から嗅ぎ取ったからだろう。


「はいはい、いい子ね」猫の頭をなでながらヒトミは応えた。「どうやらこの子も、甘えん坊さんのようね」


 それから彼女は、ベッドの横に置かれた、ちいさなタオルで、猫のよだれをふき取ると、いまいる部屋の様子を確かめた。


「やれやれ」彼女は言った。壁の色と窓の位置に見覚えがあった。「よりにもよって、この部屋とはね」

そこは彼女と、彼女の元夫の寝室だった。ヒトミはつぶやいた、自嘲気味に。


「ま、私の身体の記憶を頼りに“通り抜けた”んだから、仕方ないか」


 床を見ると、引っ越し用の段ボールが、中身をいくつか残したまま壁際に寄せられていた。


「あー、はいはい」ふたたび彼女はつぶやいた。「いまはあの子の部屋なのね」


 それから彼女は、肩に猫を乗せると起き上がり、ベッドを下り、下の階に響かないようゆっくりと、扉の方へと向かって行った。途中、机の上に、青い表紙の、日記帳のようなものが見えた。


「うん?」


 きっとあの子――山岸まひろのものだろう。ヒトミはすこしためらって、それから机の方、青い日記帳の方へと、向きを変えた。肩の上の猫からも、これと言った異論はなかった。


「きっと、大したことは書いていないだろうけど」


 と、本当にそう想ったのか、それとも、ただの言い訳のつもりだったのかは、きっと彼女にも、もちろん私にも分からないが、とにかく彼女は、その日記帳へと手をのばし、青い表紙をゆっくり開き、その中身を、すくなくともその数ページを、読み進めることになった。



(続く)

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