第九話:人形/あるいは東京市営食肉処理場第五号(その5)
さて。
彼女のしたこと、していることについて、このお話の作者である私は、責める気もなければ、そんな資格も持っていない。それは多分、作者である私が、彼女の人生の物語を、その一部分を、彼女から直接、聞かせて頂いたことが関係するかも知れないが、それでも。
そう。
「ふしぎだったんだよ」と、その夜彼女はそう言った。「いつも行ってた工場ね、そこのね、塀も柵も屋根も窓もぜーんぶがね、きれいさっぱり、なくなっててね、あたりにはね、なにかこう、焦げた固まりのようなものがね、いくつも転がっててね」それは、炎に飲まれて死んだひとたちだったんだけどね、「それで――あ、いや、ふしぎだったのはそこじゃなくてね」
近所の家々は燃やされ、倒れ、煉瓦や石塀は崩されていた。そうしてそれらは積み重なると、低くちいさな丘になってた。
「ほら、すこし前にさ、アポロが月へ着陸したろ?」想い出しつつ彼女は言う。「あのときのさ、テレビにさ」
あのときのテレビに映った月の表面、そこにそれは、大変よく似ていたのだ、と。
「もちろんこっちは、あーんなキレイな死の世界じゃなくて、灰と煙と、熔けたガラス、それにひとの焼けた匂いの世界だったけどね」
そんな世界の起伏の上を、足が焼ける無間地獄を、彼女は歩き、家へと急いだ。かすかな希望と、ほのかな絶望を、同時に予感しながら。
「でもね、それでも結局ね」彼女は言った。「あたしひとりさ、のこったのはさ」彼女は言った。「空がとっても青くって、あー、このまま死んでもいいかって想えるほどにまぶしくて」なみだも笑いも、出てこなかった。「そうそう、そのとき」彼女は言った。
「そのときなんだよ、すっごいふしぎに想ったのはさ」
もちろん。そのときの彼女に、その日の正確な犠牲者の数は分かっていなかったが、それでも、
「あの時のさ、あの飛行機。あのとき飛んでった、あの飛行機。あれに乗ってたひとたち、あれを飛ばしたひとたち、あれを作ったひとたち、あれを使おうと考えたひとたちはさ、それほどのさ、あれほどの手間やひまやお金をかけてさ、それでさ、あたし達を消したい。って想ったってことなんだろ? だからやったんだろ? 消したくて、消したくて、消したくて、消したくて、消したくて、消したくて、消したくてっ、ひとり残らず消し去りたくて、しかたがなくなったから、やったんだろ? あーんなことをさ」
そのことに気付いたときはじめて彼女は、止めていた笑いとなみだを、流すことが出来たのだと言う。彼女はわらった。彼女は続けた。
「ふしぎだって想わないかい?」ずれたアルミフレームを、もとの位置に戻しながら、「知り合いでもない人間を、会ったこともない人間を、自分が恨んでいるかどうかも分からない人間を、子どもを、女を、赤ん坊を、何千人も、何万人も、何十万人も消すためにさ、それだけのためにさ、あーんなお金と情熱を、人間ってやつらは、かけられるんだからさ」彼女はくり返した。「ふしぎだって、想わないかい?」
彼女のこの質問に、私は応えられなかった。ただ、その日の昼間に手を合わせた、ふたつのお墓のことを考えていた――彼らはいったい、だれの願いだったのだろう?
「消されてたまるかい」彼女は続けた。私の答えは待たずに、「山岸の家は、あたしが守る。誰が、なんと言おうとね」そのためのちからを、彼女は持っているのだと。
「そうだよ」彼女はつぶやいた。あの墓石は、彼女の子ども達のものなのだろうか?「消されて、たまるもんですか」
いや、だとしたら、いまいる彼女の息子や孫たちは、いったい誰なのだろうか?
「もう二度と、消させはしないんだから」彼女はわらい、つぶやいた。「富士夫も、鷹士も、茄夫も、まひろも、彼らの父親も、母親も」
いや、そもそも、この老婆は、いったいいくつなのだろうか?
「そうだよ」彼女はわらい、つぶやいた。「みんな、あたしが、幸せにしてやるんだから」
*
『電波の届かないところにあるか、電源が切られており、もう一度番号お確かめの上――』
何度目となるか分からない、無機質な案内音声がスマートフォンから流れて来て、ニシナは電話を切った。
「やっぱダメっすね、つながらないッス、お宅」彼は言った。あきれた声で、「ってか、固定電話で電波の届かないとかって意味分かんなくないッスか?」が、さすがの彼の毒舌も、いまのこの状況では出て来そうもない様子であった。「マジでどうします? ヒトミさん」
柳瀬ヒトミは考え、想い出そうとしていた。似た状況になら、ずっと昔にも、遭遇したことがあるから――が、しかし。
「あの人はあの丘の家にいるはずだし、私がここに来ていることも、たぶん知らない。離れたところから結界を張れるとも想えないし、いま、樫山の家にいるのはヤスコと――」
と、ここまで考えたところでヒトミは、昨日あった娘の恋人のことを想い出していた。
「なるほど?」ヒトミはつぶやいた。あの子は、ああ見えて実は女の子だ。「あの人の血を? 能力を? 継いでいてもおかしくない」
「ヒトミさん?」こんどはサラが訊いた。「どうします? いちど出直しますか?」彼女にしては珍しく、すこし自嘲気味に、「出直してどうなるものかも分かりませんが」
「あ、いや、サラちゃん」ヒトミは応えた。左手をあげ、彼女を制し、ニシナの方をふり返りながら、「スーツケースを開けてちょうだい、ニシナくん」それから、「ひょっとしたら娘も」そう言い掛けて、その言葉は飲み込んだ――昨日手に入れた手帳を、改めて読み直した。
*
つぎに樫山ヤスコが目を覚ましたとき、時計は11時をすこし回ったところのままだった。
髪にのこる恋人の手の感触をこそばゆく想い、直接肌に触れる、ふるいソファの感触に、いまの自分のすがたを想い出した。ハッとなって起き上がり、それと同時に、横で一緒に眠る恋人の姿がないことに彼女は気付いた。
「まひろくん?」ちいさな恐怖をおぼえ、彼女は向きを変えた。タオルケットでからだを隠すことも忘れたまま。
「にゃ?」ソファの下の飼い猫が――ここに来てやっと――目を覚ました。それから、
「あ、起きました?」台所から恋人の声が――まるですぐそばにいるように――聞こえた。
「朝ごはん、忘れてたでしょ」彼女は続けた。ヤスコの顔をのぞき込みながら、「パンと目玉焼き焼いたんですけ――」それから顔を赤らめて、「あの……」と言って目をそむけた。「見えてます、その――」
「きゃっ」とヤスコはあわてて胸を隠すと、「見ないで、見ないで、見ないで」とこちらも顔を赤らめて、「あっち向いてて、お願い」と、ソファや床に放り出された服や下着を探しはじめた。
「にゃ?」と彼女の飼い猫が、そのあわてぶりに、「なにをいまさら」とあきれた顔で笑い、
「それとこれとは違うのよ」と彼女はつぶやきで返した。「あー、もー、パンツどこよ」――この生意気な飼い猫が、ふたりの邪魔をしなかったことを、すこし不思議に、想いながら。
*
「なるほど。それでしばらくヤスコ先生のお宅にご厄介になってたってことかい?」
と、ちょうどそれと同じころ――時計は13時と14時の間を行ったり来たりしていたが、それでもそれとおなじころ――花盛りの家の客間では、杏奈姉妹が、彼女たちの来歴と身の上を、山岸の家の祖母相手に話し終えたところであった。
「それならまあニアちゃんが、先生のことを慕う気持ちも、分からないではないけどね」と、山岸の家の祖母は言った。ほほ笑みながら、「あのひと、やさしいからね、誰に対しても」
彼女たちの身の上、正体といったものは本来、なかなか信じてもらえない、おいそれとは語られないもののはずであるが、山岸の家の祖母は抵抗なくそれを受け入れ、杏奈姉妹も、きっと、この家の雰囲気と出された紅茶のせいだろう、それでも多少のウソは混ぜつつ、彼女に本当のところを伝えていた。彼女も彼女で、姉妹に本当のところを伝えてくれたのだから、と。
「もちろん。私だって樫山さんのことは慕っていますよ」姉のジアが言った。「それから、借りた恩は、かならず返さなくてはいけないとも想っています」
そのためにも、彼女にはしあわせになって欲しいし、しあわせでいて欲しい。だから、
「だから」と、姉の言葉を、妹のニアが受け取った。「山岸――まひろさんとのことだって認めようとしているんですよ」それでもすこし憤った様子で、「お姉さまが望んだひとだってことですからね、だけど、」
だけど、いまのおばあさんの話を聞いた後では、どうも素直にそう想えない。
「結局あいつは、逃げ出したってことでしょ?」ニアは続けた。バッとソファを立ち上がり、「その避難先に、お姉さまを利用しただけのように聞こえます」
(続く)




