第九話:人形/あるいは東京市営食肉処理場第五号(その3)
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つぎにヤスコが目を覚ましたとき、時計は11時をすこし回ったところで、ソファの下のフェンチャーチは、いまだ眠りの中だった。なんだかとても、幸せそうな顔で。
二階の詢吾の降りて来る気配はなく、まひろのやわらかな髪は、まだ、彼女の上でちいさな寝息を立てていた。
母との約束は昼過ぎだそうだから、そろそろ着替えて、なにか軽い昼食でも――、
そうヤスコは考え、起き上がろうとし、まひろの髪に手を当てたとき、彼女の中に、激しい衝動が、先ほどの、初めての口づけと同じか、それ以上の激しい衝動が、彼女の中にわき起こった。
まひろくん。
と強く、しかしささやくようにヤスコは言うと、彼女の上のまひろが目を覚ました。
最初まどろんでいたその瞳にも、直ぐに、ヤスコと同じ衝動がわき起こるのが見て取れた。
今度はヤスコが上になり、まひろの手を、腰を、頬をやさしくさわった。
そうして、それからふたりは、ふたたびくちびるを重ねると、ソファの下の飼い猫は、幸せそうに眠ったまま、二階の部屋の弟に、下りて来る様子はなかった。
壁に掛かった時計の針は、11時をすこし回ったところで、止まっていた。
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「なんだい不破さん、どっか行ってたのかい?」
と、ちょうどそれと同じころ、山岸の家の祖母は言った。花盛りの家のソファで、もどって来たばかりの彼女の悪魔に、
「出掛けるんなら、ひと声かけてって前から言ってるでしょ?」
赤い顔の悪魔は応えた。
「ああ、これはすみません」と、上辺だけでも恐縮しつつ、「ちょいと豚を殺しに行ってたもので、声をかけるほどでもないかと」
「それでもだよ」山岸の家の祖母は続けた。「言ってくれりゃあ、風も貸せるし」
「それはもう」赤い顔の男も続けた。妙に芝居掛かった調子で、「その時こそは、こちらからこそ、お願いします」
「ふーん」山岸の家の祖母は訊いた。男の両手を見つめながら、「それで? 豚は」
「船乗りの奥さまにあげてしまいました」赤い顔の男は答えた。「彼女、エプロンいっぱいの栗を分けてくれましたからね――そちらはなにか? 変わったことは?」
「いいや、特には」と、山岸の家の祖母は言いかけて、「うーん?」とそのまま東を向いて、鼻をつまむと、「ま、特にはないだろうね」
「あのお二人の?」赤い顔の男は訊いた。
「記憶は消してあげたけど」山岸の家の祖母は答えた。「奥手なのには変わりはないしね」
「まひろ様も?」
「うん。むかしのあたしそっくり」
「なるほど?」と不破は言った。なんだか少し苦笑して、「あとで、ご様子でもうかがいに行きますか?」
「え?」と山岸の家の祖母は言った。男の方に顔を上げ、「あ、ああ、まあ……」すこし考え、「いや、どうせ進展もないだろうしね」と。「今日はやめておきましょう」
「記憶、消さない方がよかったのでは?」男が言った。
「うん?」山岸の家の祖母は訊き返した。「どうしてだい?」
「“嫉妬も恋のスパイスさ”」赤い顔の悪魔は続けた。うれしそうに、「鷹士さまとのことをまひろさまが知れば、それがよりヤスコさまを求めるきっかけになったかも」
「まさか」山岸の家の祖母は苦笑した。もう一度、鼻をつまんで、「あの子は、そんなタイプじゃないよ、多分ね」
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「あ、ニア、そっちはダメだ」
と、ちょうどこれと同じころ、杏奈ジアは言った。ちいさな石段を上ろうとしている彼女の妹・杏奈ニアに向かって、
「タイプは違うが、視覚フィールドのようなものが張られている」
それから彼女は、スマートフォンを確認すると向きを変え、
「周囲をまわって、フィールドの穴、弱いところを探そう」
そう言いながら歩き始めた。花盛りの家を、右手上方に眺めながら。
「視覚フィールド?」杏奈ニアは訊き返した。急ぎ足でジアに追い付き、「そんな感じはしなかったけど?」
「“の、ようなもの”だからな」ジアは応えた。立ち止まり、花盛りの家とスマートフォンの位置を確認しつつ、「お前の感覚器官すらだますんだ、相当めんどうな技術だよ」
それから彼女は、「技術? だよな?」とひとりつぶやくと、ゆっくり目線を、ニアの足もとへと向け、それから、こちらもゆっくりと、花盛りの家の裏庭へと向けた。
するとそこには、ゆるやかな傾斜――ブタクサやスズメノカタビラや、ひとの背丈ほどもあるオオアレチノギク等のやっかいな草花を一面に生やしたゆるやかな斜面――が見て取れた。そのため彼女は、
「ちっ」と、お気に入りの靴と夏物のスカートで来てしまった自分をうらめしく想いながら、それでも、「やれやれだな」と言って、その雑草まみれの傾斜を上り始めた。
「えっ」と、彼女のこの行動に驚いたのはニアである。「行くの? ここ」彼女は彼女で、靴やスカート、なんなら下着や靴下まで、今日はすべてお気に入りで固めていたのである。「一旦もどって、ジャージに着替えて来ない?」
「ダメだ」ジアは言った。手にした日傘で雑草を掻き分けながら、「音楽を聴いてみろ」
「音楽?」ニアは応え、「音楽がどうかしたの?」と、言葉にしたがい、耳をすました。
するとたしかに、先ほどまでの黒魔術的『威風堂々』がいまは、拙いながらも、エドワード・エルガーが望んだであろう曲調のものへと変わり始めていた。ジアは続けた。
「やり方までは分からないが、どうやらここには、視覚フィルターや聴覚フィルター、それに知覚フィルター“のようなもの”を、何重にも、しかも、きっとランダムに生起・消滅させつつガードする結界、フィールド“のようなもの”が張られているようだ――もういちど、耳をすませてみろ」
この言葉に杏奈ニアは、もういちど、問題の吹奏楽に意識を集中してみた。するとなるほど今度は、エルガーをとおく離れ、まるでバッハの教会音楽を模したもののように、彼らの『威風堂々』は変わっていた。
「いまはたまたま」ジアは続けた。首のまわりに群がるぶよを、左手で払いのけながら、「いまはたまたま、ここが穴のようになっているが、いつまた閉じるか分からない」
それから彼女はうしろを向いて、「いいから上がって来い。樫山さんが心配じゃないのか?」
すると、この言葉に杏奈ニアは、痛いところを付かれたとでも言うようにくちびるを尖らせると、「むー」とひと声うなってから、
「分かったわよ」と、ジアの歩いた跡をのぼり始めた。「お姉さまのためなら、エンヤコラ、だわ」
「ふん」ジアはわらった。そんな彼女の様子に、「もちろん、杞憂であることを望むがな」日傘を突いて、彼女を待ちながら、「この前おまえが、「イヤな感じ」と言った男のこともある」改めてスマートフォンの画面をのぞいた。変化を続ける『威風堂々』のように、画面が歪み変化するのが分かった。「とにかく。あの家がなんなのか? 調べるだけ調べておこう」
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「一歩、二歩、三歩……」
と、ちょうどそれと同じころ、つぎに道をわたり終えていたのは、スーツ姿のサラだった。
彼女たちはいま、昨日の約束どおり、樫山家へと向かっている途上であったが、そんな彼女が、道をわたり終えた先に見たのは、それでもやはり、先ほどうしろに置いて来たばかりの、スーツケースに腰をおろした、ニシナの姿だった。
「はあ」サラはおどろいていた。彼女なりに、「たしかに、おふたりの言うとおりですね」
こちらも理由は不明だが、どうやら、樫山家に通じる路地の手前、ちょうど番地を分けるそこの道に、奇妙なループ空間は、出来てしまっているようであった。
(続く)




