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第一話:桟橋をわたって(その6)

 樫山ヤスコの部屋のエアコンは壊れていた。


 ふるいタイプの留守番電話には、明日来る予定の修理業者が、来週に延期させて欲しいとのメッセージを入れていた。ちょうど、その日の夕方ちかくに。


「どうした? おそかったな」


 彼女の帰りを待ってくれていたのだろう、短パン姿の弟は訊いた。「メシは? なにか食ったか?」


 しかし、この質問に彼女は、すっかり香りの消えたアップルパイの欠けらだけを彼に伝えると、そのまま階段を上がり、真昼のあつさをため込んだ自室へと引きこもった。ドアを閉め、窓を開け、十年来の友となる日に焼けた扇風機のスイッチを押した。服を脱ぎ、髪をほどき、夏用のストッキングを無理やり引っぺがしてから、


 ポスッ


 と、色あせたうす茶色のまくらに顔をしずめた。つい数時間前に嗅いだ、香りのないアガパンサスのにおいを想い出そうとしたが、しかしそこには、嗅ぎ慣れた自分の汗のにおいと、数ヶ月前にはなれていった恋人のにおいが、かすかに感じるだけだった。


 まぶたを強く閉じ、まひろとの間に浮かんださまざまなイメージ――浮かんだと想えた、彼女とまひろとの未来のイメージ――を、想い出そうとした。


 が、しかしそれらは、どれもこれもが、昼間の駅ホームで、せこい悪魔がわらいながら語るような、浅はかな、出来合いの、薄っぺらい、バーゲンセールのような、そんなイメージばかりだった。


「まったく、めんどうなおひとだ」と、例の悪魔がつぶやいて、


「にゃあ?」と、この家の飼い猫の鳴く声が聞こえた。


 きっと、主人を心配してのことだろうが彼女は、


 ぴょん。


 とベッドに飛び乗ると、そのままヤスコに近づいて、寝ている彼女の胸のあたりに、まるく、柔らかく、そして小さな頭をゆっくりのせた。


 がしかし、そうは言っても彼女も彼女で猫なので、この部屋の暑さと、ヤスコの体温と汗のにおい、それにどうにも陰気な彼女の気配に、すぐにそれを止めると、まずはヤスコの左手を、つぎにヤスコのうなじのあたりを、


 ぺしぱし。


 と、かるく叩いてから、扇風機のすこし手前、いちばん風のあたる場所へと移動した。


「この薄情者」


 ヤスコは想い、それでも彼女――この家の飼い猫のフェンチャーチ――の方は向かずに、そのまま、しろい、古ぼけた、なんだか変なシミの付いてる、壁の方へと寝返りを打った。つい数時間前に交わした、まひろの兄との会話を想い出していた。


     *


「そちらの女性は誰だ?」


 まひろの兄――彼は四人きょうだいの一番上ということだったが――は、四十過ぎとは想えない黒々とした髪の毛と広い肩幅、それに、意思の強さとそれを支える賢明さを同時に感じさせるしっかりとした顎と、するどい眼を持っていた。


「どうしておまえと一緒にいるんだ?」


 公園横の、しろく、やわらかな道に立つふたりを見つけるなり、彼は言った。手にしたスマートフォンの電源を切りながら、


「まだ、こんなことをしているのか?」


 さすがにネクタイまでは締めていなかったものの、糊の利いたシャツと、きっとオーダーメイドであろう夏用のスーツは、非の打ちどころがないほどに彼のからだにフィットし、そうしてヤスコに、「あんまり、似てはいないのね」そう想わせるようなものでもあった。


 左手薬指には白金色の指輪、きっとまひろのスマートフォンから位置を割り出したのだろうが、その話し方や歩き方、そうしてなにより、彼が現われてから、いや、彼からの着信に気付いてからのまひろのこころとからだのこわばりに、ヤスコは、この男性への警戒と嫌悪を同時に感じていた。


「さあ、まひろ、帰るぞ」


 そう言う兄の影から逃げるように、まひろは後ろに数歩下がった。ヤスコとつないでいた手を離し、シダの薄地を踏む音が聞こえた。


「失礼ですが、お兄さま」


 ヤスコは言った。兄とまひろの間に立ちながら、これ以上まひろが、影に捕らわれてしまわないように。


「弟さんを心配される気持ちは分かりますが、彼のプライベートにいきなり現れて、「さあ帰るぞ」というのは、あまりにも――」


 と、ここでヤスコは、次につづく言葉を選ぶため、すこし言葉を切ったのだが、その隙を付くように、


「“弟さんを心配”?」眉をしかめながら、まひろの兄は訊いた。それから、直ぐにすべてを悟ったのだろう、「失礼、お嬢さん」そう言うと彼女の肩を押し、そのまままひろの方へと向かって行った。「これは、家族の問題でね」


 見上げた彼の目もとには、家長としての苦労の痕がハッキリと見て取れた。が、しかしヤスコは、


「ちょっと!」と言って叫んだ。柄にもなく、つよい口調で、「これは、わたしと彼との問題です」


 が、しかし、この叫びも、


「いいかい? お嬢さん」と言う兄の、静かだが有無を言わせぬ言葉に、すぐにかき消された。「今日あったばかりなら仕方もないが」


 兄は続けた。まひろの手をつかみながら、


「こいつのことを、“彼”だなんて言えているうちに、こいつとの付き合いは考え直した方がいい」


「わたしが!」ヤスコは応えた。彼の影が、自分の身体に落ちるのをおそれながら。それでも、できる限りの大きな声で、「わたしが、彼のことをどう呼ぼうと、わたしの勝――」


「うるさい!」兄は叫んだ。まひろの肩を、両方の手で支えながら、「うちの妹に! これ以上近付くなと言っているんだよ、お嬢さん」



(続く)

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