第一話:桟橋をわたって(その5)
「だったらウチの弟とほとんど変わらないわね。月は? 何月生まれ?」
「10月です。10月の21日」
「だったら、あいつとは一学年差ね。あいつ、3月生まれだから」
やがて、リンゴとシナモンのかおりも消え、ふたりはそこのカフェを出た。
「デート? ……にしたいのよね? これ?」
そう訊いたヤスコの言葉にまひろは、見開いたおおきな目と、まっ赤になったちいさな耳で応えた。
ヤスコはすこし、吹き出しそうになった。
通りの向こうから、少人数のパレード・オーケストラによる白とオレンジの陽気な音楽が聞こえて来た。
「だったら、」
そう言ってヤスコは立ち上がった。まひろの唇に、こぼれたパイの欠けらみたいなものが、もうひとつ残っているのが見えた。今度は彼女はそれを、まるで弟にでもしてやるかのような感じで取ってやった。
「そろそろ出ましょう」とおくに聞こえるドラムの音に、合わせるように彼女は言った。「あまり長居すると、次から来にくくなるのよね、ここ」
それから彼女は、伝票を取り、レジへと向かうと、
「どっか行きたいとことかない? 映画とかカラオケ……は、わたしは苦手だけど」
そうまひろに訊いたのだが、しかし結局ふたりは、映画もカラオケも、たとえば洒落たレストランや賑やかしい居酒屋に行くこともなかった。
「映画やカラオケだと、あまり話せなさそうですし」まひろは言った。「歩きませんか? ふたりで。しずかな場所で」
「変わった子だな」ヤスコは想った。だけどなぜだか、一緒にいると気持ちがしっくるとする。そんな気もした。
彼女の横を、彼女の速度に合わせて歩くまひろを、彼女の手を握りたそうにしているその左手を、ヤスコはおかしく、そうして、好ましいもののように感じた。
が、しかしそれでもふたりは、そのまま、ちょっとの距離を取ったまま、しずかに雑踏をはなれて行った。
「弟さん、いるんですね」しばらくしてまひろが言った。
「出来の悪いのがね」ヤスコは答えた。「まひろ君、ご兄弟は?」
この問いにまひろは、すこししまったというような顔をしたが続けて、
「兄が、三人」そう、ぽつりと答えた。それから、まるでその話題を避けるかのように、「年下は、だめですか?」とヤスコに訊いた。
そのためヤスコは、まひろのきょうだいのおおさに驚くよりもはやく、つい、
「年下がだめってわけじゃないわよ」と言って応えた。自分でもそのはやさに驚きながら、なにならだめなのかも言わないまま、代わりに、まひろのおかしくも好ましい左手を取りながら、「まあ、うちの弟みたいなやつならいやかもだけど」そう言ってごまかしながら。
そう。
彼女はこのとき、半分ごまかしのつもりで、まひろの手を取った。
が、しかし、奇妙なことに、ここで彼女は、握ったまひろの左の手から、男性特有の、あの、陰気な雲のような感じを、まるで受けなかった。
そう。
それはまるで、これまで彼女が愛した女性たちの、その手の感触にちかいもののように、ヤスコには感じられた。そうして、
くしゅっ
ここでまひろが突然、きっと緊張からだろう、ちいさな、なまめかしいような、そんなくしゃみを、ひとつした。こんどはまた、別の通りの向こうから、虹色の音楽が聞こえて来て、まひろの髪を揺らした。
「ご、ごめんなさい」まひろは謝り、
「だいじょうぶ?」とヤスコは訊いた。相手の手は握ったまま、かばんの中のハンカチを探しながら、「こっちこそごめんね、急に」
それからまひろは、こちらももちろん、そんな彼女の手をはなすようなこともせず、そのまま彼女に、鼻をふかれてやった。
それからまたしばらくがしてふたりは、公園横の、白く、やわらかな道へとはいって行った。
そこは、うつくしい夜だった。
おだやかで、ちいさな星がきらめき、これが東京の夏の夜だと言っても、だれも信じてはくれないだろう。そんな夜だった。
「あ、ちょっと待って」ヤスコが言った。
なんだかちょっと、足もとがふわふわして、やわらかな白い道が、雲の上のように感じられたからだった。
「どうかしたんですか?」彼女のちいさな足を見つめながら、まひろは訊いた。
まひろはまひろで、そのほっそりとした足はすでに地面から離れている様子だった。
「つかれたようなら、どこか座ります?」
彼女たちが地面に残した足跡は、なにか繊細な動物――おとぎ話にでも出て来るような、そんな銀白色のなにか――が残す足跡のように、まひろの目には映っていた。
「あ、いや、そういうんじゃないんだけど」
ヤスコは応えた。まひろの方に、一歩足を近付けた。
するとそのとき、そんなつもりはまったくなかったのだが彼女は、羽毛のような足元の苔と、風に乗ってやって来た木の葉に足をすべらせると、そのまま、まひろによりかかるようにして、そこに倒れそうになった。
まひろは、不意に倒れこんで来たヤスコの身体を抱き支えると、さきほど彼女をすべらせたのとおなじ風が、今度は自分に巻き付いてくるような、そんな感じを受けた。
ヤスコは、必死で体勢を立て直そうとし、その若者の匂いを吸いこんだ、胸いっぱいに。
それは白い、清涼な、香りのないアガパンサスを想い起こさせるような、そんな匂いだった。
「ご、ごめんなさい」
まひろから離れるようにして彼女は言った。しかし、
こぉっ
と、公園の反対側で鳥の鳴く声が聞こえ、そんな彼女をまひろは引き寄せた。
彼女のうなじにやわらかな左手を、彼女のひたいに、自身の鼻のさきを当てながら、
「ちょ、ちょっと、まひろくん?」
戸惑う彼女の気持ちが落ち着くのを待ってから、
「ほら、もう大丈夫よ」
と言う彼女の言葉が、本心ではないことを理解してから。まひろは、そのまま彼女のひとみに自分のひとみを――が、ここで、
ブーッ、ブーッ、ブーッ、ブーッ、
ブーッ、ブーッ、ブーッ、ブーッ、
まひろのシャツのスマートフォンが、無粋な音を奏で出し、
「ほ、ほら、電話よ」
そう言うヤスコを、自分の腕から引きはがさせた。
兄からの、着信だった。
(続く)