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第六話:聖母教会の円屋根(その7)

 夕食のテーブルにつくとまひろは、まずは麦茶を一杯飲んだ。


「さきにお風呂にすれば?」というヤスコの忠告は、キュゥ。と鳴るお腹の虫にさえぎられた。


「コンビニでおにぎりでも買えばよかったのに」続けてヤスコは言った。ナスの肉巻きを温め直し、トマトとオクラを小鉢によそいながら、「そんなにおなか空いてたんならさ」


 たしかに。まひろのおなかは空きに空いていた。残業自体は、それでも二時間ほどで済んだのだが、問題は、お昼過ぎからこっち――というかヤスコのメールを受け取ってからこっち――まひろが意図して、軽い間食も含め、なにも食べ物を口に入れていなかったからである。


「だって、」まひろは言った。麦茶をもうひと口飲んでから、「せっかくヤスコさんが――」


 しかし、空腹のせいか恥ずかしさのせいか、その声はどこか尻切れトンボのようであった。


「なに? なにか言った?」ヤスコが訊いた。


 彼女は、冷蔵庫の奥にあったニンニクの醤油漬けを二・三粒小皿に取り分けると、白いごはんと一緒にテーブルの上に置いた。置いたあとになって彼女は、今日の昼間に、書いては消したメールの文章を想い出し、顔を赤くしそうになった。そのため、


「ごはん、これで足りそう?」と自分をごまかそうとし、「今日は詢吾もいないし、遠慮しなくていいから――」


 と、自ら墓穴を掘りそうになったので、


「お代わりね、ごはんのお代わり」と、いそいで自分をごまかすと、のこりのおかずをテーブルの上に置いた。「さあどうぞ」と、まひろの顔を見ないまま、「どうぞ、召し上がれ」


 と、「“召し上がれ”」って言葉も、ちょっとアレだよなあ、とか、そんなことを想いながら。


     *


「あ、これ、レモンが効いてますね」


 まひろは、まさに平らげるといった感じで、テーブルに出された食事を、食べつくそうとでもいうようだった。


「ちゃんと、よくかんで食べてよ」ヤスコは言った。


 ナスが、トマトが、白いごはんが、ちいさなまひろの口をとおして、このほそい身体のどこに吸い込まれて行くのだろう? と、すこし不思議な感じを持って。


「お代わり、いいですか?」まひろが訊いた。


 彼女はほとんど口をきかず、時々ヤスコの顔を見て、恥ずかしそうにほほ笑んではいたものの、とにかくとにかくよく食べた。


 ムシャムシャムシャムシャ、

 ムシャムシャムシャ。


 と、そんな擬音を想い浮かべてヤスコは苦笑した。そんなことを想い浮かべそうな食べっぷりにも関わらず、まひろの箸の使い方やおかずの食べ方は、ほれぼれするほどだったから。


「ほんとに空いてたのね、おなか」


 食事自体は三十分もかからずに終わった。まひろはごはんを三杯も――と言っても最後の一杯は半分ほどだったが――食べ、トマトもオクラもニンニクも、ナスの肉巻きに至ってはお皿に残ったレモンソースを惜しみながら、それらぜんぶを残らず食べた。最後にもう一杯、ごくごくごくと麦茶を飲んだ。


「はぁー」と、満足そうなため息をした。「おいしかったです。ごちそうさまでした」


「はいはい。お粗末さまでした」立ち上がりながらヤスコは言った。呆然としているまひろの額に、玉のような汗がいくつか浮かんでいた。「さ、じゃあ、お風呂はいって来て下さい」


 そう言いながら、つい、手もとのタオルハンカチで、その額の汗を拭いてやった。


「おなかに余裕があるなら、デザート用にヨーグルトのシャーベットも作ったから――」


 他意のないままそう続けて、彼女はハッとなった。汗を拭かれるまひろの顔が、徐々に、赤くなっていったからである。


「こ、これがね、」ヤスコは続けた。まひろの顔から右手をはなし、「ヨーグルトとカルピスだけで作れるんだけど、」何食わぬ顔で台所へと下がりながら、「さっぱりしていて、お風呂上りには最――」


 カタッ


 と、まひろの席を立つ音が聞こえた。


「だからさ、はやくさ」


 ヤスコは続けた。うしろをふり返れないまま、


「汗とか流して、さっぱりして来て、ソファでいっしょに――」


 云々かんぬん、云々かんぬん、自分でもなにを言っているのか分からないまま、


「テレビとか見ながら、まったりしながら――」


 今夜は詢吾もいなければ、いつも邪魔するあの飼い猫も、いまは気配を感じない。


「英気を養って頂いてですね、はやく寝て頂いてですね、明日も元気にお仕事に――」


 なんか自分も、暑いからってうっすい部屋着のままだったけど、これはこれでまずかったりしたかしら? とか、


「まったりしながら」「英気を云々」って言葉のチョイスも、微妙にまずかったりしたかしら? とか、

って言うか、「はやく寝て」ってのも誤解を与えてしまいませんか? ヤスコ先生!! と自分で自分にツッコミを入れながら、次に続けることばも見付けられなくなっていたところへ、


「お皿、ここに置きますね」素知らぬ声でまひろは言った。彼女の横で、流しに自分の食べた食器を置きながら、「お風呂から上がったら、ちゃんと洗いますんで」


「あ、いや、うん」ヤスコは返した。半歩ほど横によけ、まひろのにおいを嗅ぎながら、「いいのいいの、ついでに洗っちゃうし」


 まひろ君も疲れているだろうし、はやく着替えて気楽にしてね、と。

「とても気楽にしてますよ」まひろは言った。ヤスコの頭のにおいをかがないよう注意しながら。


「あまり気を使わなくていいからね」ヤスコは言った。いまちょっと、髪のにおいをかがれた? とか想いながら。


「とても、気楽にしてますよ」と、まひろはくり返した。


     *


 さて。


 と、まあ、こんなふたりの話はさておいて。


 ところでそのころ津田なつきは、自宅の畳の布団の上で、寝苦しい夜を過ごしていた。


 と言うのも、そのころ津田なつきは、この夏の寝苦しさに負け、貧しさに負け、いいえ、世間に負けて、昨今の電気代高騰に対しひと言申し上げたい気持ちをどうにかこうにか抑えると、エアコンのタイマーをいつもより長めにセットしていたのだが、それにも関わらず、


 ムシャムシャムシャムシャ、

 ムシャムシャムシャ。


 と、問題の旧式エアコンが、桑の葉を食べる蚕のような音をふたたび出し始めていたからであった。


「まったく、どうなってんのよ」


 布団から起き出すと津田なつきは、壁のエアコンを見上げ、ついで、手もとのリモコンを、あーでもないこーでもないといじり倒し、その結果、ある設定温度と設定湿度にしておけば、問題の桑の葉を食べる蚕のような音は聞こえなくなることを発見、


「やれやれ、これで眠られる」


 と、ひたいに浮かんだ汗の玉をちいさなタオルでふき取ってから、ひとり用の布団へと戻り、電気を消し、目を閉じ、深い呼吸をし、そのまま夢もない眠りへ――落ち込もうとしたところで彼女は、強烈な違和感を覚えることになった。


「あれ……?」


 壁の時計を見、スマートフォンの時間を確認すると、それが、いつもの就寝時間より何時間も前であることが分かった。


「いったい、これは……」


 寝返りをうち、暗闇の壁を見つめる彼女に、突然、ある人物の顔が想い出された。


 その人物は、人形のような無表情でこちらを、なつきを、鋭く、威嚇するように見つめていた。まるで「これ以上は近づくな」とでも言わんばかりに。


 そうしてなつきは、その人物の顔になにやら見覚えがあった。「……山岸さん?」


 と言うのもその人物は、なつきが、ここ数年、陰ながらひそかに想っている相手とまったく同じ顔をしていたからである。が、「……あれ?」


 と、彼女がそのことに気付くよりもコンマ数秒ほど早く、いや、彼女がそのことに気付いてからコンマ数秒ほど時間を遡ったところで、


「今日はあんまり、見られなかったな」


 と津田なつきは、問題の“ある人物”ではなく、彼女がひそかに想いを寄せる人物、山岸まひろのことを考えることになった。まるで、問題の“ある人物”――山岸まひろによく似たそんな人物――を見た、あるいは見かけた記憶も事実も、どこかの世界にスライドしてしまったかのように。そうして、


「ま、でも、明日も会えるものね、会社で」


 と津田なつきは、すこし残念な気持ちのままにそう想うと、昨日今日と、問題の山岸まひろに関して調べたことや知ってしまったこと等などはすっかり忘れ、それでも、自身に課した課題・ミッション――「彼」のフォロワー・守護者・影の応援団長的なものであること――を改めて想い出すと、枕に顔を埋め、今度こそ本当に、本当に、本当に、本当に、ふかい、ふかい、ふかい、ふかい、ふかい眠りへと落ちて行った。そうして、


「どういうことだ?」


 と、どこかで悪魔がつぶやいた。



(続く)

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