第六話:聖母教会の円屋根(その5)
『彼が、お兄さまの家を出ることになった理由などは、なにかご存知でしょうか?』
そう津田なつきは続けた。電話越しに、ボイスチェンジャーでボイスチェンジした沢城みゆきさんみたいな声で。
「理由……?」
樫山ヤスコは答えに詰まった。いつものとおりの、色気もへったくれもない、少年のような高い声で。
「それは……?」
たしかに。まひろがお兄さんのもとを離れようとしていることは知っていたが、それは、単純な独立心や過保護気味なお兄さんへの反発心のようなものだけであって、あちらの甥っ子や姪っ子との関係なども考えれば、どうも話が急すぎる気がしないでもない。しかし、
「しかし、それはわたしと――」
と続けそうになって、樫山ヤスコはその口を閉じた。というのも、
「それはわたしと、一緒に暮らしたかったからでは……」
と、願望込みの答えを想い付きはしたものの、そんな事を自分の口から会社のひとへ伝えるわけにもいかないし、そもそもまひろの部屋探しは、ヤスコと出会う前から始まっていた。なので彼女は、
「それはわたしも、聞いてはいませんが」
と、無難かつ真実自分が聞いている範囲内でのみ答えることにした。そう。たしかにまひろの祖母は、ヤスコにこう言っていた。
「まひろさんは仕事も順調のようですし、お兄さまのお宅でずっと暮らすのも、あちらのご家族――特に奥さま――への負担も大きいと考えられたからではないでしょうか?」
そう言ってから樫山ヤスコは、またこう聞いてから津田なつきも、この返答に奇妙な違和感を覚えたのだが、それはすぐに言語化出来る類いのものではなかったので、
「まあ、要するに、すこし遅れて出て来た独立心みたいなものですかね」
と、時候のあいさつのような、差しさわりのない言葉でヤスコは締めようとしたし、
『なるほどー、はい、承知致しました』
と、電話の向こうの津田なつきも、それにしたがうことにした。ヤスコのキャラは大体つかめたし、まひろがここに来た理由も、これ以上は訊き出せないと想ったからである。
そうして、それからふたりは、いくつか取り留めのない会話を交わし、まひろとその兄・富士夫との仲のよさ――彼ならきっと、よろこんでまひろを、ずっと手もとに置いておいただろうみたいなこと――を語ってから電話を切った。
『あ、すみません。なんだか長々と話し込んでしまって』となつきが言って、
「いーえー、こちらこそ。取り留めのない返答ばかりですみません」とヤスコが返してから。「それでは今後とも、まひろさんのこと、よろしくお願い致します」
と、なんだか新妻っぽいな、これ。とか、そんな浮かれたことを想いながら。
*
さて。
と、そんな彼らはさておいて、山岸まひろの一番上の兄・富士夫と、その妻・美樹が結ばれたのは十二年前の夏のことだった。
彼女はもともと、富士夫の下で働いていた秘書のひとりで、その数年前に最初の婚約者とひどいわかれ方をした彼女を、「これでは業務に支障がある」と、富士夫が相談に乗ったのがことの始まりだった――と言われている。
彼の顔に――妙に長くゴツゴツとした彼の顔に――はじめて触れたときのことを美樹は、短い詩にしている。
まひろは――彼女はその時、まだ学生であったが――そのとても上手とは言い難い詩を、兄嫁の口から直接、聞かされたことがあった。
その詩の中で彼女は、まひろの兄の小さな目や高い頬骨、彼女の前でより饒舌になる大きな口を描写し、そうして、その顔の上を、人跡未踏のその地を、こわごわと、しかし十分過ぎるほどの探求心でもって、動き回る自身の指を描写していた。
「どう? まひろちゃん?」
と、兄嫁は訊いた。
が、しかし正直まひろは、その詩の出来については、あまり感心しなかったし、また、問題の探検の相手が自分の年の離れた兄であればなおさら、詩の出来不出来以前に、その探検の意味や目的、官能性みたいなものをそもそも感じることが出来なかった。
「ごめんなさい、お義姉さん」
まひろは応えた。
どうも自分は、詩というものがよく分からない、好んで詩集を手に取るようなタイプの人間でもないので、
「この詩のよしあしは、正直、私にはよく分からないです。だけど、」
だけどそれでも義姉さんが、富士夫兄さんのことを、とてもとても大事にしていることはよく分かった、と。
「ありがとね、まひろちゃん」
兄嫁はほほ笑んだ。
彼女はとても美しいひとで、この会話を交わしたときは、ひとり目の子供を妊娠したばかりだった。
「また新しいの書いたら、聞かせて下さいよ」
と言ってまひろもほほ笑んだ。
このときまひろは学生で、自身の指向にもいまだはっきりと気付けてはいなかったが、それでも、自分が美樹なら、あの富士夫のきめの粗い、髭の剃り残しがあるような顔ではなく、美樹の白く、肌もうすい顔に触れたくなるのだろうなあ、と、そんなことを想ってもいた。
*
「あー、はい、わざわざありがとね、ヤスコ先生」
津田なつきの電話から数十分後、東石神井台の街のはずれ――ヤスコの家とはまた別方向の街のはずれ――にある花盛りの家では、山岸まひろの祖母が、こう応えていた。
「いちおう私の方でも確認だけはしておくけどね、いま言われたとおりのやり取りだけなら、なにもおかしな部分はないんじゃないかしら」
彼女とヤスコは、まひろが樫山家に住むに当たって、なにか気になるようなことがあれば――あくまで念のためという意味でだが――双方連絡を取り合うようにしていた。
「単純な事務手続きのようだし、あの子が帰って来たら、一応伝えるだけ伝えてあげて」そう山岸の祖母は続け、壁の時計を一瞥してから、「どうだい? あの子の様子は?」そうヤスコに訊いた。
するとヤスコはこの質問に、まだ来て二日目であること、昨夜もすぐに寝てしまったこと等を話すと、
『今朝も元気に出かけて行きましたし、どちらかと言うとわたしの方が――』そう言いかけて言葉を選び、『その、ちゃんと接してあげられているかが不安で』
この回答に山岸の家の祖母は、部屋の奥にすわっていた赤い顔の男に目で合図をしてから、
「いやいや、ヤスコ先生なら大丈夫だよ」と言って笑い、「逆に、遠慮し過ぎていないかが不安でね」そう続けてから、わざといくつか、下卑た冗談を重ねた。
これらの冗談にヤスコは、まるで昨夜みた夢や、昼間にすこし妄想した事柄などを読まれているかのように感じ、電話の向こうで言葉に詰まり顔を赤くしたのだが、そんな気配を感じ取ったのでもあろう山岸の家の祖母は、
「あっはは、ははは、はは」
そう、するするとながい鼻を、その顎の先にくっつけながら笑った。それから、
「カワイイわねえ、ヤスコ先生は」と彼女をからかい、「まさか寝室から別にするとは想ってなかったけどさ」
と、また下卑た冗談を続けそうになったので、これは、電話向こうのヤスコに止められることになった。
「はいはいはいはい。分かった分かった」と嬉しそうに祖母は返し、「それでもやっぱり一緒にさあ――」
ガチャッ
と、裏口ドアの開く音がし、
バタンッ
と、そのドアの大きく閉められる音が続いた。
きっと、山岸の家の祖母の指示にしたがい、例の赤い顔の男が、街に出かけて行った音なのだろう。
「え? あ、いや、ごめんごめん」祖母は続けた。「なんか風がふいたのか、台所の方から音がね――いやいや、古い家だからよくあるんだよ。ええ、うん。それじゃあそうだね、さっきも言ったけど、さっきの話、いちおう私の方でも確認だけはしておくけどね、またなにかあったら連絡ちょうだい。うん、そう、それじゃあ、まひろによろしく。おやすみ、ヤスコ先生」
(続く)




