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第一話:桟橋をわたって(その4)

 さて。


 ある時期までの樫山ヤスコは、彼女の友人たちが愛について語るとき、あるいは恋した男について語るとき、不機嫌、と言うのではないが、すこし押し黙ってしまう傾向にあった。


「恋に落ちるって、どんな感じ?」


 と、なかば本気で彼女が訊ねるとき、皆は笑って、次にはすこしほほ笑んで、


「そのひとのことを考えるとね、なんだかじんわり、あったかくなるのよ、胸のあたりが」


 とある者は言い、


「わたしの場合は、足のうらの感覚がなくなる感じかな。リビングのカーペットが、雲の上みたいになるの」


 とある者は言った。


 目をうっとりとさせ、ときには口を、半分ポカンと開けたまま。


 そうして、そんな彼女たちの仕合せそうな顔を見ながらヤスコは、首を横にふる、とまではいかないまでも、さらにいよいよ押し黙ってしまうかたちになった。


「だったらわたしは、いまだ恋というものをしたことがないのだろう」


 と彼女は想い、


「ひょっとしたらわたしは、誰かを愛すること、誰かに恋いこがれることの出来ない人間なのかも知れない」


 みたいなことも、同時に想った。


 なぜなら自分は、これまで会ったどんな男性に対しても、そんな風に感じたことがないのだから、と。


 このため彼女は想いなやみ、様々な本を読んでは首をかしげ、色々なひとの話を聞いては、物理的にもちいさなその胸を痛めた。


 どうしても、ぬぐい去れない違和感があった。


 そうして、その違和感の正体を突き止めようとでもしたのだろうか彼女は、その気持ちの断片を、ノートに書き溜めるようになった。


 それは最初、自分自身の、単なる言葉の羅列にしか過ぎなかった。


 なので彼女は、これでは解決の糸口にならないとでも想ったのだろう、今度はそこに、友人たちから聞いた、恋や愛に関するエピソードをからませるようにした。


 自分や友人をモデルにした人物たちに会話をさせ、ときには何かしらの行動を取らせる。


 会話や行動のテーマはもちろん、男女の愛や恋や、それらのすれ違いについてである。


 最初一冊だったノートが六冊に増え、父の使わなくなったノートパソコンが彼女のものになったころ、それら言葉の羅列、エピソードの断片たちは、なにか奇妙で特別な、小説のようなかたちを取るようになっていた。文章作法は中学生並み、物語としての起伏もなにもありはしなかったが、それでも。


 それでもしかし、神の御業か悪魔の所業か、どのような経路を通ったのかはいまではもう分からないが、彼女のこの文章、物語の前駆体のようなものは、何故か、前述の編集者・本田文代の目に留まることになった。


「ためしに、物語のかたちに仕上げてみない?」


 と、まるで天使のような声とかたちで彼女はささやき、ヤスコは、そんな悪魔との契約書――むろん、そんな契約は実在しないのだが、それでも――それにサインすることになった。


 そうしてこれが、小説家としての樫山ヤスコのスタートライン、地獄への片道切符となったわけである。であるが、それでも結局、


「それでも結局」


 いまでもすこし、彼女はついつい押し黙る。


 たしかに胸のいたみは少なくなったが、この物語の発端、彼女の感じた“ぬぐい去れない違和感”というやつは、ずうっとこころのななめうえ辺りで、わだかまり続けていたからである。


 あ、いや、もちろん。


 これまで付き合ったふたりの恋人たち――彼女の彼女たち――から、“じんわりあったかい”なにかや、“リビングのカーペットが雲のよう”になる、それにちかいなにかを、与えられることもあるにはあったが、それでも結局、


「それでも、結局」


 その最後のひとりとも、この数ヶ月前に別れたばかりであった。そうしてそれで、


「それで……?」


 と、ここでやっと、目の前の相手・山岸まひろの言葉と、彼女・樫山ヤスコの思考はつながる。まひろは言う。


「だけど、これですぐに先生だって気付けたし」その手の中の文庫本には、はじめて彼女が小説のかたちに出来た、ちいさな物語がはいっている。「それで気が付いたら、次の電車に乗っていたんです」


 まひろが、はにかみながらわらった。少年のような笑顔にヤスコは――やっと、相手の顔をまともに見ながらヤスコは、


「神さまってのは、不公平よね」


 と、そんな風にも想っていた。


 何故なら彼女はそれまで――これまで付き合った彼女の彼女たちもふくめてそれまで――これほどまでに美しい顔立ちの人物に、出会ったことがなかったのだから。


「それで?」とヤスコは訊いた。


 パイはもうなくなっていた。しかし、リンゴとシナモンの仲のよいかおりは、やさしくテーブルをつつみ込んでいた。


「いつもは?」続けてヤスコは訊いた。まひろのうすい唇に、ちいさな欠けらが残っているのを、おかしく想いながら、「いつもは、どんな感じなの?」


「いつも?」まひろが訊き返した。


「パイを食べて、」ヤスコは続けた。「パイを食べて、「はい、さよなら」ってわけでもないんでしょ?」まひろの唇の欠けらを、指でぬぐってやりながら、「デート? ……にしたいのよね? これ?」



(続く)

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