第一話:桟橋をわたって(その3)
「それで? どうやって見付けたのよ」
それから彼らが行なったのは、先ずは、編集部長の本田を始めとした、好奇心旺盛を絵に描いてプリントアウトしてパウチで止めたような、あのビルの編集者連中から逃れ、場所を変えることであった。
「きっと今ごろ、あそこのグルチャ、大変なことになってるわよ」
ここは、問題の向学館編集部がある銀灰色のビルから歩いて7分ほどのところにある喫茶店、いわゆる 《美鈴さんのカフェ》で、このカフェは、言ってみればヤスコら物書きと本田ら編集者の間に設けられたDMZ・非武装中立地帯のような場所であり、ここでは、出版業務・業界に関するあらゆる議論・紛争・中傷・闘争・締切業務の本当のデッドラインや印税・原稿料に関する腹の探り合い等々を決してしてはならないことになっており、もしそれを破るような者あらば、
「もう、ほんと、止めて」
という美鈴さんの言葉とともにその者は、二度とこの地を踏めなくなるという呪い (同業者からの無視あるいは侮蔑の眼差し)をかけられてしまうというような場所であり、つまり今回のような逃避行――と書くと誤解があるけど、まあいっか――にはもっとも適した場所であり、ああ、あとそれから、
「はいよ、パイふたつね」
と、不愛想な蛙のようなこの店のウェイターが運んで来たリンゴとシナモンの美味しいパイは、この時期ぜったいに外せないこのお店の名物であり、先ほど本田が、
「あ、こら、坪井、アンタはついて行かなくていいのよ」
と厳命し、編集部に置いて来ることになってしまった坪井南子と一緒にヤスコは、本日ここに食べに来る予定を立てていたからでもあった。
「えー、でもでも編集長、週明け月曜の打ち合わせがまだ――」
「いいから、いいから、あとは若いふたりにまかせましょう」
と言う、本田のニヤニヤ笑いがまだ目に焼き付いているようだが――仕事の打ち合わせとやらも結局、メールで済ませることになったし――それはさておき。
「それで?」と改めて目の前の人物に問うヤスコ。フォークを取りながら、「どうやって見つけたのよ」そう訊くのだが、ここで、
グーッ
と、リンゴとバターとシナモンの香りに刺激された彼女のお腹は鳴った。このパイのために彼女は、昼食を抜いていたのである。
くすっ
と、目の前の相手がわらい、
どきっ
と、その少年のような笑顔にヤスコはいっしゅん戸惑ったが、
「と、とにかく」そう言って体勢を立て直すと、「食べながら聞きましょうか」と、手にしたフォークでパイを切りはじめた。
「ですね」と、少年のような声で相手は答えた。「僕もちょっと、我慢出来なくて」ヤスコに合わせるようにパイを切りながら、「こんな美味しそうなパイ、はじめてですよ」
「このお店、はじめて?」
「この駅自体はじめてですね」
「あー、そんなこと言ってたわね、さっきも」
そう言うとふたりは、同時にパイを口にいれた。先ずは少年のような相手が、
「え? うそ? おいしくありません? これ?」と驚き、
「でしょー?」と得意げにヤスコは返した。「もう、ね、ここのアップルパイ食べたらね、ほかのところのパイなんかね、こう、なんて言うの? “パイ”ね、ただの“パイ”」と、およそ物書きとは想えないほどの語彙力で。
「うん。いや、でも、これ、ほんと美味しいですよ、いくらでも食べられそう」
「でしょー? もうねー、カロリーさえ気にしなければねー、わたしもあと2~3個は食べられるんだけどー」
「え? でも、ヤスコ先生ぜんぜんスリムじゃないですか」
「ぜーんぜん、ぜーんぜん。元が貧相だからそう見えるかも知れないけどさあ、やっぱさあ、年とともに落ちにくくなるワケよ、おなか周りに付いた、この脂肪ってヤ――」
って、ちょい待ち。
と、ここでヤスコは考える。
なんかパイのせいで普通に会話しちゃっているけど、この子――でいいのよね? さすがに年下だとは想うけど――、
「――生?」
って言うか、声もやたら若いって言うかカワイイし、まさか未成年?――だったら、ちょっと問題あるわよね。こちとら今年でもう (*検閲ガ入リマシタ)才のおばさんだし。東京都の青少年健全育成条例だとたしか――、
「――先生?」
って、いやいやまてまて、樫山ヤスコ。そもそも男の子相手にわたしがどうこうなるワケもないのだから、相手が何才だろうとそこに問題はないワケなのだけれど、それでもやっぱり、まわりが変に騒ぎ出すことも――、
「ヤスコ先生?!」
「え? あ? なに?」
と、相手の声にこちら側に戻ってくるヤスコ。
「あ? えー、あ、うん。ごめん、なんの話だったっけ?」
と、見事に整った相手の顔と、純真素朴を絵に描いたようなきれいな瞳に、ついつい、いまだこころここにあらずな様子であった。
「あ、いえ、べつに。なんかこころここにあらずって感じだったんで、なにか考えごとですか?」
そうね、あなたのせいでね――って、そう言えば、この子の名前もまだ訊いてなかったわね、わたし。
「あ、先生にはまだ言ってませんでしたっけ」
「うん。編集長がせかしたからね」
「まひろです。山岸まひろ」
「まひろ君? 漢字は? どう書くの?」
「真実の“真”に、広島の“広”で、真広」
「ふーん。いい名前ね。わたしの名前は大丈夫よね? ペンネームとの一字違いだから」
「ええ、本田さんに教えて頂きま――あ、そうそう、それで」
「なに?」
「質問の答え」
「答え?」
「どうやって先生を見つけたのか」
「あー、はいはい。どうやって見つけたの?」
「あのあと、駅でこの本を拾ったんです」
そう言うとまひろは、黄色の肩掛けカバンに入れておいた一冊の文庫本を取り出した。
「これで、先生だって分かったんです」
それは、ヤスコが初めて出した本の文庫版で、その短編集のカバーの折り返しには――彼女がどうにかして他のモノに差し替えたいと願っている――若いころのヤスコの写真が、まだそのまま残っていた。
「だけど、これですぐに先生だって気付けたし――」まひろは続けた。ふたたび、少年のようにほほを染めながら、「それで気が付いたら、次の電車に乗っていたんです」
(続く)