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第五話:But don't look back in anger.(その2)

 おろされたブラインドが黄色くひかり、ロビーはなぜかやわらかな銀と白色に包まれていた。片すみに立つ健気なベンジャミンを除いて。


「1021、1021、1021……」


 クーラーの風に、かすかに揺れるみどりのさきを、見るともなしにながめながら山岸まひろは、本日の面会相手の部屋番号をこころの中でくり返し、そうして絶えず、壁の時計と、自身の左の腕時計に目をやっていた。


「おくれないように行って、長居しないように帰って来い」


 というのが、毎回上司と先輩から受ける指導で指示だった。


「彼女は部屋も出なければ、ベッドもめったに離れない、半病人なのだから」


 それでも、病院に入ることはおろか、医師の診察を受けることも彼女はかたくなに拒否していた。見知らぬ人々と常に接することは彼女の神経が持たなかったし、たとえばそれが医師であっても、亡くなられたご主人以外にその身体を見せ、触れられることは、彼女の自尊心が許さなかったからだ。


「1021、1021、1021……」


 約束の時間になり、まひろは急いで部屋に向かった。彼女に会うのはこれで七度目だったが、日にちや時間はいつもばらばらだった。とても重要な契約が結ばれることもあれば、ただ無言でまひろの顔をしばらくながめ、引き取らせることもあった。ほそく白い五本の指を、魔法でも使うかのようにひらひらふって。


「ごめんね、いそがしいのに」


 今日の彼女は、まひろを寝室にまねき入れた。窓辺に作りつけのソファに寝転んだまま。絹張りの壁と、ジンとライムと白バラの香りが、いつもより強く感じられた。


 外の暑さとは無縁のこの部屋で、彼女はいくつものレースと悪意とアルコールによって支えられていた。


「いやなに、ちょっと想い出したことがあってね」


 彼女はそう言うと、横のテーブルに手を伸ばそうとした。したのだが、突然、


「あら?」


 と言ってその手を止めると、野良猫のようなするどい瞳と、水のように変化するきめ細やかな肌で、まひろの顔をジッと見た。そうして、


「セックスでもした?」そう彼女に訊いて来た。「憑き物でも落ちたような顔して」


 彼女――この部屋の女主人の今日の服装は、見る角度によって色の変わるしなやかなワンピースで、いまは丁度、無数のバラを、一面に飛び散らしたような色をまひろに見せていた。


「え?」


 その不思議なドレスのせいか、それとも、まひろ自身の内気さ、神経質さのせいかは分からないが、その問いに対してまひろは、女主人の方をまともに見ることが出来なくなっていた。開きかけた小さな口も、そのまままた、こわばってしまっていた。


 女主人は、ほそく、長い、白の魔法使いのような右手を、その中指を、口のあたりに当てたまま、しばらく黙っていた。わかい母親が、ちょうど、ちいさな子どもの応えを待つように。すこしの緊張と、おおきな期待を持って。


「あ、」


 と言いかけてまひろは、顔があつくなっている自分に気付いた。昨日、あの試着室で、ヤスコの首すじに見つけた、三個のホクロを想い出していた。


「いえ、」


 女主人への応えは「否」だった。あきらかに。彼女とヤスコは、いまだ、手をつなぐ以上のことは、何もしてはいないのだから。しかし、


「しかし、」


 顔があつく、あかくなっていくのをまひろは止められなかった。実際彼女は、昨夜何度も、ドレスの下の彼女を想像しては、それを何度も止めようとしていたのだから。


「…………」


 女主人の沈黙は続いていた。おなじ姿勢を保ったまま。


「…………」


 なのでまひろは仕方なく、視線を女主人から離すと、彼女の戦利品、おとぎ話の痕跡とも言えるようなものに、意識を移すことにした。


「あの……」


 それは、寝室ベッドの両側いっぱいに置かれた、色もかたちも大小さまざまな、人工クリスタルの古いコレクションであった。


 おそらく百個以上はあっただろうそれは、しかしいわゆるバカラやサン・ルイ、ましてやスワロフスキーやケネス・ターナーらのそれとはちがい、ふかい緑の繻子やシルクのドレス、こぼれたケーキの欠けらや虹色のシダの棘、それに、螺旋の弧をえがく一疋のホタル、それから、彼が恋いこがれたやわらかな月、そんなようなものを模し、閉じ込めたものであった。


「なんだい? 興味があったのかい?」


 とうとう主人が口を開いた。作りつけのソファから身を起こし、まひろを手招きしつつ、


「どれもこれも、あの人に買ってもらったもんさ」


 収集家ならばそこに、製作年や工房、職人の名前なんかを当て嵌め説明するのかも知れないが、自分にはそんな知識も記憶力も興味もない、ただあるのは、「あの人」との想い出だけである、と。


「これはふたりで○○へ行ったときのもの」


「これを買ってもらったのは、ひどい雪の降る夜でね」


「これは、あの子を亡くした私のために、彼が無理して作らせたもの」


 闇におびえて泣いたのは、それが最後だったのだ、と。


「そうだね、それじゃあ、お祝いだ。ひとつもらっておくれよ」


 女主人は言った。まひろとヤスコの現状――口づけのひとつも済ませていない恋人たち――にひとしきりわらったあとで。


「おっきいのはあげられないけどね」


 女主人が手にしたもの。それは、すばらしい、碧い水のような、惑星のような、しかし傷ひとつ、気泡ひとつない、カットガラスのペンダントだった。


「いけません、奥さま」


 まひろは叫んだ。ちいさく、きっぱりと。握らされたそのガラスの手触りに、それが相当な品だとということが即座に分かったからだ。


「いいんだよ」と言って主人はほほ笑んだ。「私にはもう、無用のもんだしね」


 魔法使いのしろい両手で、まひろの右手を包み込みながら、


「よければ、秘密の呪文も教えておこうか?」


 そう言って、まひろのほほに、口づけを与えながら、


「恋人によろしくね、かわいいお嬢ちゃん」



(続く)

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