表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
37/145

第四話:酒とバラと沈黙の音(その7.75)

     *


「うん。たしかに。先週の土曜日からですんで、今日で三日目ですね」


     *


 くすくすくすっ


 と、例の騒々しい編集者の言葉を想い出しながら、五十嵐典子はわらった。


 いまは物置きになっている子どもたちの部屋には、実はそれほど荷物が置かれているわけではなかった。


 はいり切らなくなった本や、秋冬物をしまうためのタンスが置かれている程度で、それ以上置くものもなかったし、また、なかなか物を置く気にもなれなかった。


 暗い、しんとした雰囲気が、そこにはあった。


 窓のしきいに、まず絶対に使うことはないであろう電話の子機が、なぜかポツンと置かれていた。

その、小さな夜間灯が、五十嵐典子を見つめていた。


 プルルルルルル、

 プルルルルルル。


 とつぜん、電話が鳴った。


「はい?」


 不審に想いながらも、なぜか五十嵐典子は、その電話に出た。


「五十嵐ですが?」見たこともないような、数字が並んでいた。「どちらさまですか?」


     *


「それでしたら、目線はあの時計のあたりを見て頂いて――」


 と、半袖すがたのカメラマンが指示を出していた。


 これは、花婿はもちろん、花嫁も顔出しNGとの指示が出ていたためであるが、


「せっかくお化粧したのにもったいない」と、少々不服そうに問題の編集者は言って、


「ダメ、ほんとにそれだけは止めて」小説家は頑なにそれを拒んでいた。「スマホで撮るのも禁止よ、南子ちゃん」


     *


 受話器の向こうでは、酔っぱらいの男が、なにかしらをつぶやいていた。


「五十嵐?」酒とバラの匂いをプンプンさせつつ、「※※さんのお宅では?」


「いいえ、ちがいます」五十嵐典子は応えた。


「そうですか……」男は続けた。もの悲し気な声で、「**で一緒に戦った旧友なのだが……」


 せまくひろい家に、彼はひとりで暮らしているということだった。しかし、


「すみません、夜も遅いですし」と言って五十嵐典子は電話を切った。


 まちがい電話なのだから仕方ないが、ふしぎなことに、こちら側の窓からも、とおい十六夜の月が見えていた。


     *


「それじゃあ、本田のこともご存知なんですか?」


 ロビーで編集者が話していた。するすると伸びた鼻のながい老人と、その付き添いだという赤い顔の男と一緒に、三人で。


「※※さんのご紹介でウチに来たことがあってね、結局お役には立てなかったけれど」


 撮影が終わり、あとは試着室の花嫁と花婿を元のかっこうに戻らせるだけである。


「――なさいね、昨夜は。突然過ぎたでしょ?」


 扉のむこうから、ふたりの話し声が聞こえた。


 五十嵐典子は、ノックしようとしていた右手を引っ込めた。


 すこしの罪悪感をおぼえながらも、そんなふたりの会話を聞いた。


「いえ、うれしかったです」花婿は応えた。「兄も許してくれましたし」


「ほんと?」花嫁は言った。うれしそうに、しかし直ぐに不安になって、「ほんとに?」


「……先生?」花婿が訊いた。「なにかありました?」


 しかし、花嫁は応えなかった――沈黙が訪れた。


「先生?」ふたたび、花婿が訊いた。「なにか、ありました?」


 しかし、沈黙は続いていた。


 ずっと。

 ずっと。

 ずっと。

 ずっと。

 ずっと。

 ずっと。

 ずっと。


 沈黙は、続いていた。


 ゾクリッ。


 と、つめたいナニカがその場に降り立ち、


 そうして、たまり兼ねた五十嵐典子が、ふたたび右手をあげようとした、その瞬間――、


     *


 コンコン。


 と、子ども部屋の扉を、ノックする音が聞こえた。


 そこに夫は立っていた。


 寝ぼけたまなこのまま、変なかたちの寝ぐせを付けて。


「ノリちゃん?」夫は訊いた。「どうかした?」


 五十嵐典子は、受話器をもとに戻した。それから、


「なんでもないわ」と言って、夫のもとへと戻って行った。「ちょっと、目が覚めただけ」


「そうかい?」夫が言った。ちいさなあくびと、引き締まらないお腹のまま。「なにか、あったのかと想った」


「なんにもないわよ」五十嵐典子は言った。部屋を出て、夫の手を取りながら、「ねえ、ヒロくん?」


「なんだい?」夫は応えた。


「仕合せよね? 私たち」彼女は訊いた。


「そうだな」夫は応えた。ためらう間もなく、ただただ、「仕合せだよ、ぼくたち」と。


     *


「先生?」


 沈黙を破ったのは、山岸まひろだった。


「ひょっとして、早すぎました? 兄に話すの」


 が、この言葉は、まったくの的はずれだった。問題は、まひろの方にはなかった。


「ちがうの」


 ヤスコは言った。言葉になみだと感傷がまざり込むのを必死で抑えながら、


「そうじゃないの」


 鏡にうつる自分を、わかい母にそっくりな自分を、必死で視界から追い払いながら、


「わたしの母も、」


 彼女は続けた。まるで、9才の女の子にもどったような口調で、


「とおいむかし、こんな服を着て、」


 まひろの手を取り、そこに額を当てながら、


「わたしの父と、」


 まるでまひろに、赦しを請うように。


「永遠の愛を、誓ったのよ」


 ふたたび、沈黙が訪れた。


 そいつは、彼女の腕へとまとわり付くと、肩へ、首へ、彼女の声へと、まるでうす暗いナニカ、増殖続ける声なき声のようなナニカとなって、そのしろい肌へとしのび込んで行き、


 そっと、

 そっと、

 そっと、

 そっと、

 そっと、

 そっと、

 そっと、

 そっと、

 そっと、

 そっと、


 沈黙の音を、そこにひびかせ続けていた。


 ゾクリッ。


 と、扉のむこうで、ふたたび典子は恐怖を感じ、おろしていた右手を――


「先生」


 が、しかし、ふたたび、この沈黙を破ったのは花婿――いや、彼女の恋人、山岸まひろであった。


「僕のふたつ目の兄は――」


 そう、彼女は言いかけて、


「あ、いや、ごめんなさい」


 そう、彼女はあやまった。


「他人を引き合いに出すのは、卑怯ですよね」そう、彼女は言った。「顔をあげて下さい、ヤスコさん」


 このとき、果たして樫山ヤスコが、なみだにくもり、過去と沈黙に押し込められたその顔を、まひろの方へと向けたかどうかは、扉のこちら側に立つ五十嵐典子には、どうしても知ることが出来なかった。絶対に。


 が、しかしそれでも、まひろは続けた。


「未来のことも、永遠のことも、いや、時間のことすら、僕にはなにも分かりません。だけれど――、」


 だけれど自分には、予感があるのだ、と。


「昨夜、駅のホームで、ヤスコさんが僕を追いかけて来てくれたとき」


 いや、それよりもずっと以前から、


「僕は、この人と、一緒の人生を生きることになるんだ。そう確信したんです」


 未来の未知性と、過去の岩のような既知性が、彼らを恐れさせ、怖れさせ、畏れさせ、足を止めさせることもあるだろう。が、しかし、それでも、


「それでも、」


 と、まひろは続ける。


「それでも、僕と一緒に」


 恐れと怖れと畏れの欠如が、いつでも僕らを、ふたたび歩き出すよう命じるだろう。


「僕と一緒に、一緒の人生を、歩いてくれませんか?」



(続く)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ