第四話:酒とバラと沈黙の音(その7.75)
*
「うん。たしかに。先週の土曜日からですんで、今日で三日目ですね」
*
くすくすくすっ
と、例の騒々しい編集者の言葉を想い出しながら、五十嵐典子はわらった。
いまは物置きになっている子どもたちの部屋には、実はそれほど荷物が置かれているわけではなかった。
はいり切らなくなった本や、秋冬物をしまうためのタンスが置かれている程度で、それ以上置くものもなかったし、また、なかなか物を置く気にもなれなかった。
暗い、しんとした雰囲気が、そこにはあった。
窓のしきいに、まず絶対に使うことはないであろう電話の子機が、なぜかポツンと置かれていた。
その、小さな夜間灯が、五十嵐典子を見つめていた。
プルルルルルル、
プルルルルルル。
とつぜん、電話が鳴った。
「はい?」
不審に想いながらも、なぜか五十嵐典子は、その電話に出た。
「五十嵐ですが?」見たこともないような、数字が並んでいた。「どちらさまですか?」
*
「それでしたら、目線はあの時計のあたりを見て頂いて――」
と、半袖すがたのカメラマンが指示を出していた。
これは、花婿はもちろん、花嫁も顔出しNGとの指示が出ていたためであるが、
「せっかくお化粧したのにもったいない」と、少々不服そうに問題の編集者は言って、
「ダメ、ほんとにそれだけは止めて」小説家は頑なにそれを拒んでいた。「スマホで撮るのも禁止よ、南子ちゃん」
*
受話器の向こうでは、酔っぱらいの男が、なにかしらをつぶやいていた。
「五十嵐?」酒とバラの匂いをプンプンさせつつ、「※※さんのお宅では?」
「いいえ、ちがいます」五十嵐典子は応えた。
「そうですか……」男は続けた。もの悲し気な声で、「**で一緒に戦った旧友なのだが……」
せまくひろい家に、彼はひとりで暮らしているということだった。しかし、
「すみません、夜も遅いですし」と言って五十嵐典子は電話を切った。
まちがい電話なのだから仕方ないが、ふしぎなことに、こちら側の窓からも、とおい十六夜の月が見えていた。
*
「それじゃあ、本田のこともご存知なんですか?」
ロビーで編集者が話していた。するすると伸びた鼻のながい老人と、その付き添いだという赤い顔の男と一緒に、三人で。
「※※さんのご紹介でウチに来たことがあってね、結局お役には立てなかったけれど」
撮影が終わり、あとは試着室の花嫁と花婿を元のかっこうに戻らせるだけである。
「――なさいね、昨夜は。突然過ぎたでしょ?」
扉のむこうから、ふたりの話し声が聞こえた。
五十嵐典子は、ノックしようとしていた右手を引っ込めた。
すこしの罪悪感をおぼえながらも、そんなふたりの会話を聞いた。
「いえ、うれしかったです」花婿は応えた。「兄も許してくれましたし」
「ほんと?」花嫁は言った。うれしそうに、しかし直ぐに不安になって、「ほんとに?」
「……先生?」花婿が訊いた。「なにかありました?」
しかし、花嫁は応えなかった――沈黙が訪れた。
「先生?」ふたたび、花婿が訊いた。「なにか、ありました?」
しかし、沈黙は続いていた。
ずっと。
ずっと。
ずっと。
ずっと。
ずっと。
ずっと。
ずっと。
沈黙は、続いていた。
ゾクリッ。
と、つめたいナニカがその場に降り立ち、
そうして、たまり兼ねた五十嵐典子が、ふたたび右手をあげようとした、その瞬間――、
*
コンコン。
と、子ども部屋の扉を、ノックする音が聞こえた。
そこに夫は立っていた。
寝ぼけたまなこのまま、変なかたちの寝ぐせを付けて。
「ノリちゃん?」夫は訊いた。「どうかした?」
五十嵐典子は、受話器をもとに戻した。それから、
「なんでもないわ」と言って、夫のもとへと戻って行った。「ちょっと、目が覚めただけ」
「そうかい?」夫が言った。ちいさなあくびと、引き締まらないお腹のまま。「なにか、あったのかと想った」
「なんにもないわよ」五十嵐典子は言った。部屋を出て、夫の手を取りながら、「ねえ、ヒロくん?」
「なんだい?」夫は応えた。
「仕合せよね? 私たち」彼女は訊いた。
「そうだな」夫は応えた。ためらう間もなく、ただただ、「仕合せだよ、ぼくたち」と。
*
「先生?」
沈黙を破ったのは、山岸まひろだった。
「ひょっとして、早すぎました? 兄に話すの」
が、この言葉は、まったくの的はずれだった。問題は、まひろの方にはなかった。
「ちがうの」
ヤスコは言った。言葉になみだと感傷がまざり込むのを必死で抑えながら、
「そうじゃないの」
鏡にうつる自分を、わかい母にそっくりな自分を、必死で視界から追い払いながら、
「わたしの母も、」
彼女は続けた。まるで、9才の女の子にもどったような口調で、
「とおいむかし、こんな服を着て、」
まひろの手を取り、そこに額を当てながら、
「わたしの父と、」
まるでまひろに、赦しを請うように。
「永遠の愛を、誓ったのよ」
ふたたび、沈黙が訪れた。
そいつは、彼女の腕へとまとわり付くと、肩へ、首へ、彼女の声へと、まるでうす暗いナニカ、増殖続ける声なき声のようなナニカとなって、そのしろい肌へとしのび込んで行き、
そっと、
そっと、
そっと、
そっと、
そっと、
そっと、
そっと、
そっと、
そっと、
そっと、
沈黙の音を、そこにひびかせ続けていた。
ゾクリッ。
と、扉のむこうで、ふたたび典子は恐怖を感じ、おろしていた右手を――
「先生」
が、しかし、ふたたび、この沈黙を破ったのは花婿――いや、彼女の恋人、山岸まひろであった。
「僕のふたつ目の兄は――」
そう、彼女は言いかけて、
「あ、いや、ごめんなさい」
そう、彼女はあやまった。
「他人を引き合いに出すのは、卑怯ですよね」そう、彼女は言った。「顔をあげて下さい、ヤスコさん」
このとき、果たして樫山ヤスコが、なみだにくもり、過去と沈黙に押し込められたその顔を、まひろの方へと向けたかどうかは、扉のこちら側に立つ五十嵐典子には、どうしても知ることが出来なかった。絶対に。
が、しかしそれでも、まひろは続けた。
「未来のことも、永遠のことも、いや、時間のことすら、僕にはなにも分かりません。だけれど――、」
だけれど自分には、予感があるのだ、と。
「昨夜、駅のホームで、ヤスコさんが僕を追いかけて来てくれたとき」
いや、それよりもずっと以前から、
「僕は、この人と、一緒の人生を生きることになるんだ。そう確信したんです」
未来の未知性と、過去の岩のような既知性が、彼らを恐れさせ、怖れさせ、畏れさせ、足を止めさせることもあるだろう。が、しかし、それでも、
「それでも、」
と、まひろは続ける。
「それでも、僕と一緒に」
恐れと怖れと畏れの欠如が、いつでも僕らを、ふたたび歩き出すよう命じるだろう。
「僕と一緒に、一緒の人生を、歩いてくれませんか?」
(続く)




