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第一話:桟橋をわたって(その2)

「でもでもそれは、探すべきですよ、絶対」


 上階行きのボタンを押しながら彼女は言った。


 青一色に膨れ上がった真夏の屋外は、自分を見失いそうなほどに暑かったが、古い回転ドアをとおって入ったこの屋内は、逆に、ツキに見放されたギャンブラーのように冷え切っていた。


「あー、やっぱすずしいですねえ、中は」


 ふたたび、ノースリーブ姿の彼女・坪井南子は言った。


 がしかし、健康優良児的肉体 (とくに胸のあたり)を持つ彼女とはちがい樫山ヤスコは、「ガリガリ」とまではいかないまでも、「ほんと、入り日の影法師みたいだな」と実の弟に揶揄されるほどには貧相な肉体をしていたので、絶賛稼働中のこのビルの旧式エアコンにも、


 ぶるぶるぶるッ


 と肩をふるわせ、手にしたちいさな鞄から、紺のカーディガンを取り出そうとしていた。


「でも、探すってどうやって」取り出したカーディガンに袖を通しながらヤスコは訊いた。「それにあのひと――」


 が、そこまで言って彼女は、口を閉じ、先ほど駅ですれ違った人物、強い印象を彼女に残したあの人物、その人物の顔やかたちを、改めて想い出そうとしていた。


 すっきりとした、細身のひとだった。


 ただそれでも、胸板はすこし厚めで、浅黒いが肌理の細やかな肌に、すこしウェーブのはいった黒い髪は短くまとめられ、ちいさく盛り上がったおかしな鼻は、整ったその人の顔を、整い過ぎないようギリギリのバランスにして、そこに立ってくれていた。


 きっと、アラブやインドのことを知らない宇宙人や未来人があの人の顔を見たとしたらきっと、そのあたりの周辺国の、年若きプリンスか何かだと勘違いしたかも知れない。


 と、そんな風にヤスコは想い、そんな風に想った自分を苦笑した。


 ポォン。


 とここで、エレベーターが到着の合図を鳴らし、


「先生?」と坪井南子が、先に乗るようヤスコを促した。


「あ、うん、ごめんなさい」ヤスコは応えた。それから、そのちいさな古いエレベーターへと乗り込みながら彼女は、「それでも、あのひと」と考えを続けようとした。したのだが、


「でもでも、先生」と続けて坪井が、扉が閉まるのを待っていたかのように、彼女に訊いた。「やっぱりまだ、だめなんですよね?」


「うーん?」ヤスコは応えた。せまいエレベーターの中、距離を詰めてくる彼女から離れるように、「まだも何も」それでも彼女を、緊張させないように、「たぶん一生」そうおどけた調子で、「変わらないと想うわよ、こればっかりは」


「ふーん?」坪井は言った。9階行きのボタンを押してから、「だったら余計、運命とかじゃないんですか?」


「うーん?」ヤスコは応えた。「でもねえ、」と、まるで何かのアレルギー患者が、とても美味しそうに見える、その何かを差し出されたときのような顔で、「それでもそのひと、男の人だったのよ?」だけれどそこに、その人物の姿を重ね合わせもしながら、「それでわたしに、なにが出来るって言うのよ」


     *


 と、言うことで。


 樫山ヤスコは戸惑っていた。


 と言うのも彼女は、最近では特に珍しくもない、『彼氏いない歴=年齢』みたいな、妙齢からすこし足を踏み外した感じの女性であって、しかもそれがイコール、『恋人いない歴=年齢』を示すものではなかったからである。


 と言うか、恋人にしたひとの数で言うのなら、恋愛下手でシスコンで、ちょうどこのまえ奥さまに逃げられたばかりの彼女の弟 (第二話登場予定)がお付き合いしたひとの数――それはつまり、“たったひとり”という意味だが――よりは多いくらい――それはつまり、“なんとかふたり”という意味だが――で、

これはつまり、彼女の恋人になってくれた方々というのが、そのどちらもが、“彼女”だったことを示しているからである。


「が、あ、いや、でも、そうは言ってもね」と、ヤスコは続ける。


 別にこれは、男性の存在そのものが許せないとかキライとか、わかい頃にひどいセクハラを受けたせいで男を見るだけで吐き気をもよおしてくるとか、そういうことではなく――なんなら、普通の男ともだちも何人かはいるし――ただただ純粋に、そーゆー恋人的なアレやコレやという視点で彼らを見ることが難しいというか、もっと言うと、そーゆー男性との恋人的なアレやコレやを想像するだけで、気持ちが悪くなってオエッとなる……というよりは、どっちかって言うと、アーッハッハッハと腹を抱えて笑い出しそうになる自分がいるからであるし、それにやっぱり、


「それにね、やっぱりね」と、さらにヤスコは続ける。「女の子の方がステキじゃない。あったかいしさ、やわらかいしさ」


 のだが、さすがにここまで書いてしまうと、読者の皆さまはもちろん、目の前の坪井南子にもドン引きされてしまうので、これ以上は書かないようにしておくとして、


 要は、それ程までに彼女・樫山ヤスコにとって、恋愛対象としての男性や、そんな男性とのアレやコレやなんかは、未知っていうか異世界ファンタジーっていうか、都市伝説的なもののひとつであって、であるから一層、今日のあのひととの出会い・遭遇、それにそこで感じたあのなんとも言えない気分のせいで、本日現在の樫山ヤスコは、たいへんたいへん戸惑っているワケであって、そうして彼女は――、


     *


 ピィン


 とたどり着いたビルの9階で、


 アーハッハッハ。


 という笑い声――向学館文芸部部長・本田文代の呵々大笑――とそれに続く、


「あ、ちょうど来たみたいね」


 という彼女のセリフ、それから、


「ヤスコちゃーん、はやくはやく、こっち来てー、アンタにお客さまよ」


 そう呼ばれて行った応接スペースで聞いた、


「あぁ、やっと会えた」


 という少年のような声、というか、なぜかそこに座っていた問題の駅のホームのあの人のすがた、それに、


「すっごく、待ったんですよ」


 と言ってほほを染めつつヤスコを見つめるその人のまなざしに、


 ト……ックゥン。


 と、いまどき少女マンガでも使わないような擬音とともに、恋に落ちてしまいそうになるのであった。



(続く)

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