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第四話:酒とバラと沈黙の音(その2)

 結婚式の夢から目覚めて時計を見ると、この目覚めが、いつもより10分ほど遅いことに、ヤスコは気付いた。


「にゃゴ?」ネコが訊いた。「ワシのエサは大丈夫か?」とでも言いたげに。


「大丈夫よ、フェンチャーチ」ヤスコは応えた。胸の上の彼女を持ち上げ、わきとおなかをなでながら、「ちょっと目覚ましに気付かなかっただけ」


 するとネコは――彼女はわきをなでられるのが本当に苦手だったので――ヤスコの手から脱け出すと、出口へ向かい、


「にゃーア」と今度は、「先におりるから早くしろ」とばかりに、ひと声鳴いて部屋を出た。「心配して損した」とでも言いたげなうしろ姿で。


「心配?」ドアのすき間に消えて行く彼女を見ながらヤスコは想った。先ほどの悪夢のことを言っているのだろうか? 右の目ヤニを取ろうとしてそこに手を当てると、やっと、自分が涙を流していたことに気付いた。


「ゴメンね」と彼女はつぶやいた。「ありがと、フェンチャーチ」


     *


『灰と蜂蜜』


 いま読み返してみてもよく意味の分からないタイトルだが、これが、ヤスコが初めて、彼女の最初の担当編集・本田文代にうながされて書いた――「物語のかたちに仕上げて」みた――最初の小説、文字の固まりだった。(なのでそのため、彼女はこれ以降、自身の小説には、自分で考え出したタイトルではなく、何かからの引用句を使うようになるのだが、それはまた別のお話)


 だったのだが、結局この中編小説は、本田と、そうして何よりヤスコ本人の意向により、表に出されることはなかった。


 と云うのも、この『灰と蜂蜜』は、必要以上に長く、複雑で、ある種の感動めいた部分もあるにはあるが、要は、一種の、無意識的且つ本能的な、心理療法あるいは悪魔祓いのようなものでしかなく、二・三の描写と奇妙なインシデントを別にすれば、それは、冗談ではすまされないほどに、ひとりよがりの、自伝的内容のものであったからであり、


 ヤスコにとっては、許されないほど自己欺瞞的。本田にとっては、仮にこれがなにかしらの評価を得たとしても、樫山ヤスコという、一種特殊な、物語作家の性格を歪めてしまうものになるように想えたからであった。


 そう。


 実際のところ、作家と物語の間には、薄くて硬い、本来ならば通り抜けられない、通り抜けてはならない、ダイヤモンドの薄膜のようなナニカ、決して取り除いてはならないナニカ、ましてやその向こう側に踏み入ってはいけないナニカ、がある。


 しかし、『灰と蜂蜜』で彼女は、その禁を破っている。


 ダイヤモンドの薄い膜を溶かし、その物語の中――それはつまり彼女の、個人的な情緒や夢想や想像力や不安、それに記憶や歴史といったものの中という意味だが――へと踏み込み、歩き回り、扉を開け、窓を開き、床板を剥がし、地面を掘った。来る日も来る日も。彼女をかたち作ったさまざまな人々と出会い、対話し、彼らから受け取ったギフト――良くも悪くも――を確認した。


 が、しかし、


「ねえ、だいじょうぶ? お嬢ちゃん」


 そこで彼女が最後に出会ったのは、手に負えない、ちいさな社にひとり隠れる、ふてくされた顔をした、子どもの頃の彼女自身であった。


「お母さんに会いに行くんじゃないの?」彼女は訊いた。


「あんなひと、おかあさんじゃないもん」彼女は答えた。


 きっとおろし立てであろう、白色の服で地面にすわり、おさない顔で、彼女は続けた。


「それでもむこうは、会いたがってるかも知れないわよ」


 彼女は応えた。


「知らないわよ、そんなの」


 このときの対話は――そのすべてをここに書き出すことは、あまりにも意味がなくあまりにも無粋なので止めておくが――結果として、彼女の内面を掘り起こすとともに、そこから彼女を脱け出させるものでもあった。


 『灰と蜂蜜』は、ヤスコを解放してくれた。


 とりあえず、その当時は。


 彼女と彼女の父親を置いて出て行った実母のことを、赦すことは到底出来なかったけれど、それでも、とりあえずは。


     *


「あのさ、ヤスコちゃんさ」


「なんですか? 文代さん」


「それでもこれ、最後の文章は惜しかったよね。どっかで使えないかな?」


「なかなか使えるもんでもないんじゃないですか。ちょっと意味不明だし」


「自分で書いててよく言うよ」


     *


 そう。


 その物語の最後には、こんな文章が書かれていた。


     *


 『それでもすべては現実で、

  すべてのお話はすべて、

  すべて本当にあったことなのだろう。

  みんながそれを、

  ただただ、

  わすれてしまっているだけで。』


     *



(続く)

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