第一話:桟橋をわたって(その1)
ほそい、アルミフレームの眼鏡をかけたおばあさんが笑っていた。するすると伸びたその鼻を、やたらとながいその顎の先にくっつけそうないきおいで。
昼間のホームにひと影はまばらで、日差しは強く、彼女も、彼女の話し相手も、白い、ちいさな、日傘のようなものを差していた。
彼女たちの会話に一貫性はなかったが、話し相手の弁舌は巧みで、レンジでチンしたハワイアンに、下書きなしの浅はかさで描かれた楽園&パラダイスのイメージは、それでも、いやだからこそ、彼女の笑いを、いっそう楽しげなものへと変えていた。
「都心に出るのは久しぶりだ」
そう、樫山ヤスコは想った。
仕事はほとんど自宅で済ませられたし、調べ物は近所の図書館とネット検索でどうにかなった。
作家仲間や編集者とは、メールやSNSで繋がっていたので、仕事や交友関係にも支障はなかった。
向学館の坪井さんなんかは――彼女はほんとにいい子だが――ときどき家まで来てくれていたりする。
「あーっはっはっは、そうなのよ」
アルミフレームのおばあさんが、ひときわ大きな声でわらった。伸びた鼻とながい顎が、いまにもくっ付きそうだった。
「やっぱり。そうじゃないかと想っていたんですよ」
と、彼女の話し相手は応えた。
彼らはいま、自動販売機横の青と緑のベンチにすわっていた。日傘のようなものからのぞく話し相手の赤い肌と黒いあごひげにヤスコは、
「なんだか、せこい悪魔みたいね」
と、そんなふうに想った。
ホームの時計を確認し、自分も日傘を出そうか出すまいかとすこし考えて、すぐにそれをやめた。帽子の向きを、すこし変えた。
「でもでも、部長がたまには顔をみたいって」
と、この数日前、彼女にそう伝えたのは、担当編集の坪井南子だった。
坪井の上司・本田文代とヤスコとは、ヤスコが学生時代からの付き合いだが、東石神井からなかなか出ようとしないヤスコに対抗するように彼女も、護国寺より西にはあまり出ようとしない人だった。
「私が呼べば来ないワケにはいかないでしょ」
という本田のふくみ笑いが目に見えるようだが、それでもヤスコは、そのふくみ笑いにすこし感謝しながら、今回のお誘い――と言っても、電車で20~30分ほど移動するだけだが――を受けることにした。
「きっと、たいした話もないのだろうけれど」
それでもこれは、彼女の恋人が出て行ってしまってからこっち、ふさぎ込みがちだったヤスコのことを想ってくれてのことなのだろう。それが、ヤスコにはうれしかった。
「いいえ、ネコは大丈夫なんですよ、ネコは」アルミフレームのおばあさんが、すこし強い口調で言った。「ネコは、自分で自分の面倒を見られますからね」
「ハトはどうです? 彼らはどうなんです?」真夏のせこい悪魔が訊いた。「彼らの小屋は? 小屋のカギは開けて来ましたか?」
「それはもちろん」と、おばあさんは応えた。
彼らのこの会話に樫山ヤスコは、
「彼らはいったい、なんの話をしているのだろう?」
と、そんなふうに想った。
そうして彼女は、そんな彼らの会話に興味をおぼえたのだろうか、おばあさんと悪魔のすわるベンチのほうへそっと、歩み寄ろうとしたのだがそのとき、
プシュー。
ガタガタガタ。
と、元町行き各駅停車の電車が到着し彼女は、彼らの話の続きを聞き逃すことになった。なったのだが、ここで突然、
「ダメですよ、ここでチャンスを逃がしては」
と、ささやく声がヤスコに聴こえ、そのまま彼女は不意に、
よろよろよろっ
まるで風にあおられる小枝のように、そのささやき声にあおられると、彼女が本来立つべきドア、彼女が本来見るべき人物が降りてくるそのドアの前に、立ち直すことになった。
ぷしゅっ。
と、電車のドアが開きヤスコは、その“本来見るべき人物”と目を合わせた。
ひとめぼれ。
という自然現象が存在することは彼女も知っていたし、自身の小説でもしばしば――うまい設定が想い付かないときは特に――使用していたけれども、それでも彼女は、まさかそれが、そんな不思議な現象が、自分自身に起こるとは、想定してもいなかった。少なくとも、この時までは、
ヤスコは、見るべき相手から目を離せなくなっていた。
そうしてまた、その相手も、彼女から目を離せない様子だった。
が、しかし、それでも彼らは、日々の習性というのは恐ろしくも愚かなもので、片方はそのまま電車を降り、片方はそのまま電車に乗ると、双方そのまま、目と目を交わしあったまま、そのままそっと、すれ違うことになった。
「あの、」
と、同時になにかを言い掛けて、
ぷしゅっ
と、青と銀のとびらはしまった。
そうして電車は、ヤスコを乗せたその電車は、そのまま、東の方へと走り去って行った。
「あら、まあ、」アルミフレームのおばあさんがおどろき呆れ、
「まったく」彼女の悪魔はつぶやいていた。「手間のかかる人間たちだ」
(続く)