第二話:雨の中のネコ (その4)
ケーキが焼き上がるときの甘いかおりと、レモンのさわやかな匂いが鼻をこすり、台所から家の中、換気扇を通って外の世界へも広がって行った。
三尾千佳子のレモンケーキ――これももう、件のОRCに負けるとも劣らないほどの絶品スイーツだったが――には、隠し味として、適量のブランデーを含ませるのが本来であった。
であったが、ことがここ樫山家での製作となると話は別で、そのブランデーの量は従来の約73分の1、しかもその工程は、パティシエの手元にて、確実に秘して行われなければならなかった。と言うのも、
「ほんっと、お酒は入れないでよね」
と語るこの家の主人・樫山ヤスコが、由緒正しき下戸の一族の正統後継者であり、事実彼女は、奈良漬け3枚、あるいはウイスキーボンボンの2つもあれば、まずは陽気に、つぎには多弁に、それから誰かに抱きついては泣き出すと、そのまま大虎ならぬ気の抜けた小猫か小ダヌキのようになって、床にベターッと這いつくばっては寝始めてしまうのが常道だったからである。で、あるが、しかし、
「はいはい、分かってるわよ」
と答える三尾千佳子にしてみれば、この「まずは陽気に、つぎには多弁に」あたりまでのヤスコは、大変かわいく好ましく、ぶっちゃけとても興味深い生命体のように想われるワケで、いままさに焼き上がったその生地の下の方には、微かな、わずかの、香りづけ程度のブランデーを、すでに数滴まぎれ込ませておいたし、
「それよりあんたも、さっさとお風呂はいって来なさいよ」
と言いつつ作るアイシングの中には――こちらはあくまで自分用にだが――ちょっとした祝杯気分で、おなじお酒をポタポタポタ。と加える彼女なのでもあった――「ま、このバージョンも食べさせてみたい気もするけどね」
とここで、
「すみません、お風呂ありがとうございました」
そう言って祝杯気分の原因、樫山ヤスコの新恋人、山岸まひろがリビングにもどって来たので、ついつい彼女は、手もとのボウルをわきへとよけると、ちょっとあせりながら、
「あ、ほら、まひろさんももどって来たじゃない」とヤスコに言い、
「どう? ちゃんとあったまれた?」
とヤスコはヤスコで――千佳子の挙動に不審なものを感じながらも――まひろの方へと歩いて行った。
それから彼女は、赤味を取り戻したまひろの顔を見ると、
「うん。だいじょうぶそうね」と安心したような声で言い、
「ごめんなさい。ついついながくなっちゃって」とまひろは、シャツの裾を直しながらこれに応えた。「その……、いろいろと支度が」
このときヤスコはまひろに、彼女の着替えを渡すのは、さすがに酷だと考えて、弟・詢吾のお古を貸してあげたわけだが、それでもやはり、元々の体型を隠すのには、それ相応の――まあ、“支度”が必要のようであった。
「ヤスコ先生こそ、大丈夫ですか?」と、続けてまひろが訊いた。
「うん」とヤスコは答えた。「髪はふけたし、服も着替えたし」いつものグレーの部屋着を、すこし恥ずかしく想いながら、それでもすこし笑って、「というか、そろそろ“先生”はやめない?」
「え?」と、驚いた顔でまひろは訊き返した。「でも――」
「だって、せっかく、」ヤスコは続けた。「その……になったんだし?」と、肝心の単語を出せないまま、「それに……、ほら……、やっぱり……」
と、自分から言い出しておいて、そのままそこに固まってしまう。湯上りのまひろの匂いのせいだろうか、なんだか鼻がむずがゆくなるのを感じていた。するとまひろも、
「でも……、じゃあ……」
と、こちらはこちらで、かわき切っていないヤスコの前髪がひかったせいでもあろうし、なにかちいさく柔らかなものが、胸のあたりでゆっくり動き、それがなんだか、彼女の鼻を、むずがゆくさせたためでもあろうが、やっぱりそのまま、そこに固まってしまった。
そうしてそこで、
見つめ合うふたりの時間は、
そのままそこで、
止まってしまうかのようで、
あったのだが――、
そんなふたりの態度に、一番のむずがゆさを感じていたのは、台所に立つ三尾千佳子であった。
「はいはいはいはい、はいはいはいはい」
カンカンカンカン、カンカンカンカン。
と千佳子は、手もとのアイシング用のボウル (その2)を計量スプーンで鳴らすと、
「いいからヤスコはサッサとお風呂」と吐き捨てるように言った。「その間にまひろさんは、コイツの呼び方考えてやって」
ヤスコさんでもヤスコでも、ヤスコちゃんでもハニーでも、ダーリンだろうと、マイ・スウィート・マンズサクだろうと。ナンダロウとカンダロウと。
「マイ・スウィート・マンズサク?」とまひろは訊き返し、
「マイ・スウィート・マンズサク?」とヤスコも訊き返した。「なによそれ?」
「なんでもいいのよ」と千佳子は応えた。「要は、ふたりの間で通じ合えれば」
(続く)




