水際にて
朝の光というものは僕にとってどうしても忌々しい。両目を右腕で覆って光を遮ると、期待通り視界は再び暗闇の中に誘われた。
「朝だよ、洋司くん」と、梨恵の高い声がする。
僕はまだ夢の中でまどろんでいたくて、子供のように「あと十分」と駄々をこねた。しかし梨恵はそれを許さず、僕の体を包んでいた布団を容赦なく引っぺがす。体温によってあたためられていた空間は瞬く間にどこかへいってしまった。
「いいお天気で良かった。十時までにはチェックアウトしなくちゃ」
そうだ、僕は梨恵とホテルに泊まっていたのだ。そして、寝起きの眼にしみる光の強さによって僕はここが日本ではなくオーストラリアであることを思い出す。今は何時だろうか。寝返りを打ちつつ、枕元に置いておいた腕時計を確認する。現在時刻、七時三十分。まだチェックアウトまで時間はあるじゃないか、と再び瞼を閉じようとすると、梨恵が目ざとく「こら!」と一喝する。
「朝ごはん食べなくていいの?」梨恵が言う。
このホテルの朝食はバイキング形式だった。昨日の朝は、スクランブルエッグにソーセージ、パンとバターという、いかにもといった形式のイングリッシュ・ブレックファストを食べた。海外旅行に来ているといっても、日本で普段口にしている食事とさして変わらないように思えた。
「早く起きないと、朝食どころか帰りの飛行機だって間に合わないよ。洋司くんが起きないなら私、ひとりで食べに行くからね」
頬を彼女の指先でつつかれる感触がする。そう言われては寝ていられないので、僕は眠りを手放すことにした。視界に広がるホテルの部屋は大きな窓から光をいっぱいに取り入れて、生活感のない無機質な清潔さをより一層際立だせている。とても眩しかった。
ホテルの朝食は昨日と比べても特に変化はない。唯一、ホテルで焼いているという二種類のパンのうちの一つがチーズパンからクロワッサンに変わったところぐらいしか、変化は見当たらなかった。梨恵はしっかりその変化に気が付いて、クロワッサンを皿の上に乗せただけで既に満足そうにしていた。彼女にとって重要なのは味ではなく、昨日と違う食べ物を皿の上に乗せるという行為なのだろう。僕には理解しかねる。
朝食に来ている客達の様子にもさほど変わりはない。どの地域の言語かも分からない会話が飛び交っている。僕はといえば昨日と同じバターロールを頬張りながら、周囲にいる宿泊客やテーブルの向かいに座る梨恵の食べっぷりを眺めていた。その間に深く何かを考えていたような気がする。しかしそれが何なのか思い出せないあたり、大して重要なことではないのだろう――きっと梨恵にとってのクロワッサンの味そのものと同じくらいには。僕は思考を放棄して、白いカップの中の黒いコーヒーを飲み干すことだけを考えることにした。オーストラリアのコーヒーはどうにも薄くてまずい。
部屋に戻り、荷物の整理をする。僕の荷物は元々少なかったため、すぐにやるべきことは無くなってしまった。手持ち無沙汰になって困っていたところ、聖書が目についたので手に取ってみる。それはベッド脇のテーブルにネジか何かで固定されているかのように置かれていた。両手で持ってみると聖書は見た目通りの重さをしていた。ぱらぱらとページをめくってみても、英語の読めない僕には何一つとして理解することができない。アルファベットが印字された紙の上を目線が滑ってゆく。そうしている間、僕は無意識のうちにこの旅行の発端となった梨恵の言葉を思い出していた。
「洋司くんと、海がきれいなところへ行きたいな」
彼女の希望通りに僕たちはオーストラリアへ来て海辺の町に泊まり、砂浜を歩いたり船に乗ったりした。一週間ほどの滞在で、潮の香りはすっかり全身に染みついたし、肌も少し焼けた。僕にはオーストラリアの景色よりも、彼女の丸い瞳がじっと波打ち際を見つめ続ける、あの横顔が脳裏に焼き付いて離れなかった。
聖書がぱたんと閉じる音で、意識が砂浜からホテルの部屋へ戻ってくる。僕は聖書を元あったように、ネジで固定しなおすような、敬虔な気持ちでそっと置いた。
特にすることもないのでベッドに腰かけ、窓の外へ意識を向けて梨恵の支度が終わるのを待つことにする。スプリングが軋む。
空は晴れていて、まさに群青とでもいうべき色をしていた。雲一つない。この国の空は日本のそれよりも高くて、澄んでいて、鮮やかだった。余計なものの侵入を何一つとして許さないような完璧さを持っていた。残念ながら、僕はこういった自然の美しさの全てを幸福に還元するだけの感受性を持ち合わせていなかった。
外からは車がいくつも通る音が聞こえる。ここは確か十二階だ――先程エレベーターで押したボタンの数字を思い出す。地上を走る道路からそれほど離れていても、車のエンジン音は当然のように窓の隙間から滑り込んでくる。
途切れることはなく、何台も、何台も車は通り過ぎていく。日本製の自動車が多く輸入されているこの国では、母国で聴くその音と何ら変わりはない。
そう、変わらないのだ。僕は異国の地に来てもなお、このくたびれた身体と精神を引きずったままでいる。外界からの刺激が、日常から離れた新鮮なものであっても。
「準備終わったよ。お待たせ」
振り向くと、梨恵はスーツケースを一生懸命に閉じているところだった。完全に支度が終わっていないうちに「終わった」というのが彼女らしい。職場の人や友達をはじめ彼女の帰りを待つ人々へ贈るためのお土産や、自分用に購入したであろう雑貨類が増えて、淡い水色のスーツケースは物がぎゅうぎゅうに詰まっていた。出発時と比べると二倍近く容量が増えているように見える。
僕も足元に置いたままだった自分の黒いスーツケースを持ち上げる。部屋の入口まで持って行くと、「ごめん、ちょっと待って」と梨恵の焦った声。
僕は扉の前で立ったまま彼女の作業を眺めた。梨恵は鞄を他人に触られることを極端に嫌うから、きっと手伝えることは無いだろう。なんでも、高校生の頃に付き合っていた恋人から「鞄の中が汚い」と言われて以降、自身の鞄に他人を近づけたくないらしい。その恋人はひどい潔癖症だったという。「確かにその時の鞄の中はぐちゃぐちゃだった」いつかのデートの時に入ったカフェで、梨恵はそう言って笑った。「それでも気になるの」
「今度こそ終わり。本当にごめんね、待たせちゃって」
荷物をまとめ終えた梨恵が眉を下げながらスーツケースを引っ張ってきた。僕は頷いて入口の扉を開け、同時に室内を見回す。サイドテーブルの上、コンセント、窓枠、洗面所。初めてここに来た時と同じ状態になっているか、僕と梨恵はじっと部屋の中を確かめた。
唯一、ダブルベッドの両端で二つのランプが橙色の柔らかい光を放っていた。梨恵が最後の仕上げだとでも言うように照明のスイッチを押すと、僕らが一週間寝泊りした部屋はたちまち単なるホテルの客室の、ただの一つとなった。途端に色を失くした空間は、まるで随分と長い間そうしていたかのように、他人行儀に沈黙していた。
生活空間のことについて僕は考えていた。
例えば今朝、ホテルの客室は無機質に黙りこくることで僕たちを追い払った。人の体温を失った部屋というものはどうしてああも寒々しく、単調で、不躾なのだろう。
空港で出国手続きを終え、飛行機の搭乗時刻を待ちながら、僕は今更気が付いた。そうか、僕はホテルというものが苦手なのだ。料金を支払うことで部屋に寝泊りする権利を手に入れても、そこは客のための私的な空間に完全にはなり得ない。日中はルームキーパーがやって来て清掃作業やアメニティの補充をする。夜間にくつろいでいたとしても、いつフロントから電話がかかってきてもおかしくはない。内であるようで外なのだ。プライベートというものはつくづく難しい。そう考えると、他者からの干渉を完全に排除できる空間など、世界中のどこにも存在しないのかもしれない。日本にある僕の一人暮らしのアパートですら、大家さんが突然訪ねてくることがあるし、心配性の母親から電話だってかかってくる。
そして時々、連絡もなく梨恵がやってくる。ここが唯一の安息の地だとでも言わんばかりに、彼女は突然やってきては深く、深く眠る。僕はその寝顔を何時間でも眺めることができた。この人を脅かすもの全てを消し去ってしまいたかった。それを叶える手段が暴力的なものであったとしても。しかし現実の僕は臆病で無力で、嫌になるくらい理性的だった。結局、いつも僕は彼女を見つめることと、何も聞かずに部屋を提供することしかできない。
梨恵が店を見て回ってくる、と言ってどこかへ行ってから三十分は経つ。案外空港の中は充実していて、待ち時間にも退屈しないようにできている。先程見えたものだけでも、世界的有名チェーンのカフェが数軒、本屋、軽食が並ぶ売店、土産品を揃えた店、高級革製品ブランド店――僕は実のところブランド名しか知らない――があった。今頃梨恵は、タックス・フリーの文字とともに陳列される商品を物色しているに違いない。彼女は美容に凝っているから、こちらで人気のあるハンドクリームだか口紅だかを買うと言っていた。まだ買い物をするのか、と僕は面食らってしまった。
空港という場所は不思議なもので、ひとり置き去りにされた僕は今、緩やかに監禁されているような気分になっている。こんなに何もかも贅沢に空間が使われているというのに――寧ろそのせいなのかもしれない。広すぎて、ゆえに閉鎖的だ。閉鎖的に感じられないように広く設計した、という順番のほうが正しいような気がするけれど、僕にはそうは思えなかった。通路も窓も広すぎるし、照明も椅子も多すぎる。そしてそのすべては計算されつくされていて、規則的に、無感情に横たわっている。よく考えられ、手入れされている空間だと一目で分かるのに、人の体温がまるで感じられない。
人を寄せ付けない冷たさでいえば、ホテルよりも空港のほうが圧倒的に上だろう。どんなに善良な人間でも、簡単なつくりのゲートを通過するためだけに、入念に細かく審査されるのだ。旅慣れていない僕はどうしてもびくびくした。いつ誰に呼び止められるのか、どのゲートに機械音で異常を知らされるのか、と。出国審査を受ける時はいつも、僕や周りの人々は工場のベルトコンベアの上に並べられた商品なのではないかという錯覚が起こる。その中でも僕は不良品或いは混入してしまった異物で、僕がゲートを通った拍子にけたたましいアラームを鳴らされて、いつ摘まみ出されてもおかしくないような気がしているのだ。
「いた、洋司くん」
見慣れた背丈の女性がこちらに駆け寄ってくる。当然、梨恵だった。知った顔を見つけた僕の体は自然と緊張を解いてゆく。もとより知らない空間に弱い僕は、一人になってからずっと気を張っていたらしい。梨恵の顔を見て、存在を近くに感じて、心細さが和らいだ己をどうしようもなく情けないと思った。
「コーヒー買ってきたよ。はい」
向こうにあったカフェで購入したのだろう。プラスチックの容器に入ったコーヒーを両手に持った梨恵は僕の隣に座りながら、片方を手渡してくれる。僕は緑色のストローで冷たいコーヒーを飲んだ。ホテルの朝食で出てきたコーヒーよりは水っぽくない。
梨恵はどこかの店のロゴが入った袋を肘から提げていた。視線に気が付いた梨恵は僕が聞く前に説明してくれる。満足げな笑顔も添えながら。
「本屋さんが面白くて立ち読みしてたの。これ以上荷物増やしたくないのに、つい買っちゃった」
僕の読みは外れた。化粧品は買わなかったらしい。彼女は英語が堪能だから、こちらの本屋も楽しめるのだろう。僕が本屋に行ったところで、この異国では立ち読みそのものが出来なさそうだ。そもそも僕はここ数年、立ち読みという行為を全くしていないような気がする。
梨恵の提案で、僕たちは窓の一番近くにある横に長いソファーのほうへ移動した。床から天井まで高さのある窓は、外に向かって突き出すような形でわずかに曲線を描いている。晴れた午前中の日差しが穏やかなのは日本もオーストラリアも同じであるらしい。窓の向こう側には飛行場が見えた。手前には大きな飛行機が一機、白い機体の艶やかさを見せつけながら静止していた。遠くのほう――おそらく滑走路だと思う――ではこれまた大型だと分かる飛行機がゆっくり、ゆっくりと右から左へ移動している。
僕らはその光景を無言で眺めながら、互いのコーヒーをゆっくりと飲んだ。飛行機の速さと同じぐらい、ゆっくりと。ソファーは体重を乗せて沈み込み、僕と梨恵の体の側面は自然と触れ合っていた。
「帰るんだな」
旅が終われば元居た場所へ帰る、という当たり前のことが分からなくなる。日常だったはずの生活が夢のように遠く思えるからだろうか。だから僕はこうして声に出して確かめようとした。
梨恵は僕の期待通りに「そうね」と頷いてくれる。おかげで僕はようやくこの旅行を現実のものとして輪郭を掴むことができた。帰るのだ、確かに、僕らはこれから互いの家へ帰る。僕は僕の家に、梨恵は彼女を待つ婚約者の家に。この旅が終わった後、僕らは他人に戻る。はじめからそういう約束だった。
「寂しい。帰りたくないな」
梨恵がコーヒーを少しずつ口に含みながら言う。僕は梨恵に目線だけやって黙った。「寂しい」というのが、オーストラリアを離れることなのか、僕と今後会えなくなることなのか、どちらを指しているのか分からなかったのだ。真意を聞くのも怖かった。正解がそのどちらであっても、どちらでもなくとも、僕は今何を言っても自分が惨めに感じられるだろうと思った。
「来月の結婚式、ハワイで挙げるの」
僕は無言を貫いたまま梨恵の話を聞くことにした。彼女は至って冷静で、その顔つきや口調からは「寂しい」という感情など微塵も読み取れない。結婚、という単語を彼女の口からはっきりと聞くのは初めてだった。今の今まで意図的に避けてきたに違いない。
「海の見えるきれいなところ。透き通った青い海のそばで真っ白なウェディングドレスを着るのが夢だって言ったら、夢なら叶えようって彼が言ってくれた。一生に一度しかない結婚式なら、梨恵がやりたいこと全部叶えようって。でも、そしたら思っていたよりもずっとお金が必要で、おかげで式を挙げるまで随分時間がかかっちゃった。結婚ってきっと勢いで済ませちゃったほうがいいんだろうね。何回も大喧嘩をしたの。婚約破棄しそうなぐらいに」
僕は婚約者と喧嘩をするほうの梨恵ではなく、ウェディングドレス姿のほうの彼女を思い浮かべていた。梨恵と喧嘩をしたことのない僕にとっては、感情的になって怒鳴る姿よりも、純白のドレスを身に纏う姿の方が想像に容易かった。ドレスが似合うようにとショートカットだった髪を一年掛けて長く伸ばした彼女は、挙式の日に再び髪を切るのだと言う。お色直しの間にばっさりと髪を切り、別の色鮮やかなドレスを着る時にはショートヘアになっているという演出らしい。確かに僕も、梨恵はショートヘアが一番似合っていると思う。彼女のさらりとした、何にも固執することのない性格も相俟って。
しかし僕はもう二度と彼女の髪が短くなった姿を見ることはないのだ。仮に見ることがあったとしても、その柔らかい髪を撫でることはもう二度とない。
人間はここまでくるともう今更で、正しく悲しみを感じることすらできなくなるのだと思った。彼女がもうじき実現させる理想の結婚式について語っているのを聞きながら、僕はずっと結婚式当日の梨恵を想って「きれいなんだろうな」と考えている。海辺の花嫁の隣に立つ白いスーツを着た男の顔は、僕の脳内のイメージではぼやけてよく見えない。僕は彼についての話をほぼ聞いたことがないけれど、でも少なくとも、僕より背が高くて胸板はしっかりと厚く、肩幅だって広いはずだ。そう信じていたかった。
梨恵の話が一段落したのを見計らって、僕はずっと尋ねたかったことを持ち出した。
「日本に着くまでは、僕たちはまだ」
そこまで言ってから僕は一度口を閉じた。今、僕たちの関係をどう言い表しても、それは瞬く間に鋭い棘や刃となり傷痕を残してしまうだろう。僕にとっても、梨恵にとっても。
「まだ、他人じゃないんだよな」
梨恵が返事の代わりに微笑んだ。僕はコーヒーを持っていないほうの手のひらで彼女の手を包んだ。人の体温がそこにあった。今この時だけは、この手を握ることができるのは僕しかいないのだ。
「洋司くん、ありがとう。私きっと、ハワイの海を見て、オーストラリアで見た海のことを思い出すから」
梨恵が静かに言う。僕は頷いた。そこからは何も言い出せなかった。
好きな人が結婚する。僕と知り合った後に出会った男を選んで。春先に道端でひなたぼっこをする猫のように丸くなって、僕のベッドの上で眠っていた梨恵はもう帰ってこない。僕の部屋は、僕が整えた空間は、僕のすぐ傍にある世界は、梨恵にとって最後まで居心地の良い場所であり続けてくれたのだろうか。
結婚おめでとう、と伝えるべきだと分かっていても口を開くことができなかった。黒く濁った泥のような喪失感が心臓のあたりを圧迫して、呼吸に栓をしているようだった。
梨恵がコーヒーを飲み干した。遠くで飛行機がぐんぐんスピードを上げて、ついに滑走路から飛び立ってゆく。