第四話 後三条院御即位記
七月下旬、ご即位礼の準備が始まった。
いえ、準備自体はその前から行われていましたけれど。何せ今度のご即位は異例づくめなもので、前日どころか当日に入ってもバタバタしていたんです。
本来、ご即位の儀は大極殿にて行われる。もちろん内裏とは目と鼻の先。
でもいま主上がおわすのは里内裏の御子左第、儀式会場の大極殿は数年前の火災で焼亡しているものだから、かわりに太政官庁で行われるというわけで。何かと忙しかったんです。
深夜子の刻、動き始めた女官たち。
その間を左衛門権佐(廷尉)さまがウロウロと。女官たちの不穏なまなざしを物ともせず。
いえ、不審人物扱いするつもりはないんです。廷尉さまは蔵人でもあるから、主上から儀式の次第を書き留めおくようご下命を受けたか何かしたんでしょうし。でも何せ非違に厳しいお方、その鋭い眼光で不作法を逐一見咎められ書き込まれてはたまらないんだけど……。
お生憎さま。我ら女官、そうそう間違いなどするものですか!
まず手始めは寝殿のお片づけ。掃部の女嬬が出動する。
内裏における昼御座(主上の居室)は清涼殿。寝殿造で言うなら、西対に近い位置にある。でも御子左第では、寝殿(いわば南対)が昼御座に宛てられているから。そのズレによって生じた作業工程です。
その程度のズレが何だって言われればその通り。普段は問題ない。
しかしこと大事なご出御となると、寝殿は紫宸殿(南殿)に擬えられる。だから主上のお部屋がそこにあっては困るんです。
と、言うわけで。
掃部の女嬬達、まずは昼御座に設置されているご調度を片付け始める。蔵人さまは「適宜、利便の良い場所を見繕うように」とか声をかけているけど、誰も聞いちゃいない。彼女たちは片付けと設営の専門家ですもの、言われるまでもないところ。暗闇の中、黙々と動く影の中央にみるみる空間が広がってゆく。
続けてその空間に会場設営。御簾をしつらえ獅子形を置き御倚子を備え……。
その間、主上はお湯殿へ。ほんとうは前日に仕度しておくらしいんだけど、何せ特例尽くしのご即位礼、いろいろ時間が押してたらしい。
丑の刻、儀式に参加する女房の皆さまが牛車を連ねて大内裏へと先乗りした。もちろん近衛府から警備をきっちりつけて。夜中だし、貴婦人ばかりですから。
早朝、百官が参集した。何だか言い争っている。調度やら書類やら、日ごろのやり方で良いのかどうかとか、そういうところで。
女官はそれどころじゃないんです。
采女は儀式に使うご装束を準備して、唐櫃の中に入れる。間違いの無いよう、何度も確認してていねいに畳んで。
掃部女嬬は三種神器に準ずる宝物・大刀契を収めたお櫃を運び出し、行幸の際に持ち出しやすい位置に設置して。
内侍さまがたは主上のおぐしを整えて、衣装を着付けてと。誰も彼もが大忙し。
その内侍さまがたが、御剣御璽をお持ちになっておいでになった。
日華門……に擬えられた門に、鳳輦が立ち上がる。
さあ、いよいよだ。
主上が南面して立たれる。
その前には東西に公卿が並ぶ。ご即位礼ゆえ、この日の朝は勢ぞろい。
関白左大臣さま、右大臣さま、内大臣さま……やや下がって、ちょび鬚の権中納言さま。末に立つのはお若い宰相中将さま。
ひとり、権大納言(宇治大納言)さまだけがいらっしゃらない。会場に先乗りしていらっしゃるとのこと。
ひそひそ話が聞こえて来た。「お年で馬に乗れないのだ」、「御装束役を狙っているのだろう。だから先行したのだ」
その宇治大納言さまと主上の仲が険悪なことは、みんな知っている。
前関白さまは、ご即位前の主上を東宮の地位から追い落とそうとしていた。腰巾着だった宇治大納言さまも、主上にそうとう意地悪なさったらしい。
だけど前関白さまのお血筋からは宮さまがお生まれにならず、東宮の地位は揺るがなくて。先の主上が崩御されるや、関白の地位を辞された。
前関白さまの悪口は誰も言えなかったから、そのぶん宇治大納言さまが不満や陰口、棚卸しの標的になりがちで。そこへもってきてどう申しますか、宇治大納言さまは振舞いも人柄もあくが強いものだから。みんなの嫌悪を一身に集めちゃってる。
おかげで息子のちょび鬚権中納言さまと、その弟のもじゃ鬚右近衛少将さまは、だいぶ居心地悪い思いをさせられてるとか。おふたりともかなり有能で貴族仲間の受けも良いんだけど、気の毒な話よねえ。気のきつい親を持つと苦労する、わかるわー。
今もほら、皆さんの視線を集めちゃって、ばつが悪そうにちょび鬚をぽりぽりしてる。
……ひそひそ話をしたり、ひげを掻いたり、それだけの時間が流れていたともいえるわけよ。
闈司の女嬬が遅参しているって、蔵人さまはご不興だけど。仕方ないじゃない、別の要事をおおせつけられていたんだから。
ともかく闈司の女嬬により、ようやく日華門が開く。
まずはご鈴奏。ここでも揉めてたけど、蔵人さまが気合で場を整えていた。
なんでも担当の少納言さまが、病をおしてお仕事なさろうと参内されたんだけど、鼻血を出しちゃったとか。やっぱり緊張されたのかしら。代わりに右近衛少将さまによるご鈴奏。
そして。
宰相中将さまが御剣(草薙剣、その形代)を鳳輦に差し入れられた。
主上が輦に御動座される。
ご挿鞋を宰相中将さまが受け、ふたり並んだ私たち東豎子……薄緋の袍を着込んだ紀朝臣季成に手渡され。
そして璽箱(御璽・八尺瓊勾玉が納められた御箱)が鳳輦に差し入れられた。
主上は常に三種神器、御剣御璽と共におわす(八咫鏡は賢所におわす)。
行幸の際も「先剣後璽」、前後を御剣と御璽に守られて移動される。
だから鳳輦にはまず剣を入れ、そして御動座があり、その後に璽箱が差し入れられる。
いつも変わらぬ一連の作法。
ご遊覧でも、ご即位礼でも。主上が行幸されるならば必ず行われる手続。
目を光らせている蔵人さまも、ここはさらさらと書き流していた。
私たちのことなんか書き込まれていないのでしょうね。
「宰相中将さまが御剣をお輿に入れ、主上のご動座があり、続けて璽箱が差し入れられた」
大事なことはそれで全て尽くされているから。
でも私たちはそれに誇りを抱いている。
書き記すまでも無い当たり前のことに。式次第が一切の滞り無く執り行われているそのことに。
女官は、東豎子は、そのために働いている。記録に残らぬことこそが栄誉。
カッコつけすぎました。
実を申しますとね? 私たちが記録に載るのは「女官の某により騒動が起きた、けしからん」。そんな文脈ばかりなんです。
誰だって嫌でしょ、そんなことで歴史に名を残すなんて。まさに末代までの恥よ。それは必死に仕事をいたしますとも。
そんな理由でこの日、いつも以上に気を引き締めて儀式に臨んだ私たち東豎子。過つことなく作業工程をひとつ終えて。
近衛大将さまによる警蹕が、「おし」のお声が上がれば。
さあ、騎乗して日華門を出発!
里内裏・御子左第の北門を出て、三条坊門通を西へ。
すぐに神泉苑にぶつかる。右折して、大宮通を北上する。
右手に冷泉院が見えて来た。築山には女車。どなたか見物されているのでしょう。あちこちの築地塀の上にも見物人が出ているし。
ご即位礼の行列、知っていたのかしら……って、当然知ってるわよね。交通規制じゃないけれど、ずっと準備して、あらかじめ道を綺麗にしてきたんだもの。
危険が無いなら良し、って私たち現場はそう考えるんだけど。権威を気になさってるのでしょうね、前を行く江蔵人さまはいちいち睨みつけていた。そのまま誰かを目で追い求めて……ああ、あれは弾正さま。命令を下そうにも位置が遠い。行列を乱すことを嫌って諦めたみたい。
大内裏の東門にあたる待賢門に到着。
もじゃ鬚右少将さまが落馬された。珍しいな。武骨な乱暴者いえ剛直で鳴らす方だけど、そのぶん弓馬は巧みなのに。
ああもう、ここぞとばかり江蔵人さまが目を輝かせて筆を動かしてる。
そう言えばおふたりは対立派閥ってことになるのかな?
ともかくそのままいったん内裏へと立ち寄ったところが。
大盤所の北庭でも誰だお前らって連中が集まって見物してるし。
あ、蔵人さまがついにキレた……さすがに主上の御気色があったんでしょうけど……泣く子も黙る荒くれ者・看督長を投入して追い散らしてる。
そしてお昼時、全ての準備を整えて太政官庁へと向かったは良いけれど。
いつもと違う会場、やっぱり前例がないせいで儀式は荒れ模様。
大将代・中将代が立ち位置で言い争ってるのを皮切りに、他の人々もどこに立つかで右往左往。儀式の際の服装はどうなってんだっけと言い騒ぐこと限りなく……。
まあでも、ご挿鞋を宰相中将様にお渡しした時点で私たちの仕事はほぼ終わり。
またご還御の際、ご挿鞋を受け取るまでは並んでいれば良いんですもの。
……私たちはそれで良かったけれど、その後も小さなトラブルは続いた。
化粧が落ちちゃった公卿の噂とか。
緊張と疲労のせいでしょうね、倒れた女房が出たとか。
儀式が終わって後、さてご還御と思ったら。鳳輦を担ぐ当の輿丁が関白さまの下仕えに殴られたと訴え出たとか。
出鼻を挫かれたその帰りがまたしんどかった。
何せ最初っから時間が押せ押せだったもので、儀式終わりも日暮れになっていて。
ご還御の行列は飛ぶが如く。ようやく帰ったと思ったら、「明かりを用意していないとは、留守番の蔵人は何をしていたのだ!」って怒号が飛ぶありさま。
でも留守番なんて先例に無いんだもの、仕方無い……なんて言うことが許されないお立場なんでしょう、有能敏腕を売りにする蔵人の皆さまだもの。
それもこれも全て、大極殿が焼亡していたのが原因なんです。
内裏から目と鼻の先にある大極殿で儀式を行うなら移動に時間がかかることもないし、そもそも留守番を置く必要も無いんだから。
それでも無事にご即位礼が終わり。
しばらくして女房女官たちの間に噂が立った。
「権中納言さまが最近あまりちょっかいを出してこない」って。
なんでも修理権大夫を兼任しているちょび鬚さま、大極殿の修理を厳命されたとのこと。主上のご期待に応えるべく、父親の不始末を穴埋めすべく頑張っているんだとか。
「お通りがかりのところを垣間見しましたが、いつも以上に凛々しくおいでで」
そうそう。黙って仕事してれば渋い男なのに、もったいないったら。