第1話 東豎子(あずまわらわ) その3
ほのかに浮き立つ心を抑え、翌日からまた仕事で里内裏に詰める日々を過ごし、さきの行幸から数えて七日後のことであった。
お勤め先で与えられているお部屋――ごめん嘘です見栄張った。几帳で囲われたお部屋の一角、専用区画ね――の、御簾の向こうに男の影が立ったのは。
「宰相中将さま、また左衛門権佐さまのおいでである」
さすがにそこまでの大物は期待していなかった。めったにない珍客に、昼下がりでおねむのまぶたも持ち上がる。ではやかましく呼ばわるもう一人は何者かと思いきや。
「かく言う私は検非違使大尉」
輪番(勤務ローテーション)で詰めている同僚・阿閉宿禰さまと顔を見合わせる。
と、言うのも。女官の詰める一角は、検非違使大尉が顔を出せる場ではないから。
宰相中将さまや廷尉さまなら顔は出せるだろうけど、逆に私たち下っ端女官を訪う理由が無い。
つまりは三人が三人とも場違いなんだけど、検非違使大尉と来たらこちらの困惑に構おうともせず口を開いた。
「さきの行幸にて、朸が折れた件について問う。最初に気づいたのは阿閉宿禰どのであったか?」
その口ぶり、横柄に過ぎませんこと?
権限は存じておりますが身分はほぼ同じ、上から接して良い相手では無いことご存じでしょう? 宰相中将さまと廷尉さま、おふたりの威を借りてるの? それとも女だと思って甘く見てる?
苛立ちに眠気も浮き心も疑問すら吹っ飛んで、反射的に言い返してた。
「宿禰さまより先に、私が気づきました。輿丁に声をかけたのも私です」
受けて男三人、やけにざわついている。
御簾というのはですね、内側は暗く外側は陽が当たっているものですから。様子がはっきり見えるのでありますよ。
鳩首密議は良いけれど、検非違使大尉どのと来たら見るもむざんな慌てぶり。何かあてが外れたみたいだけど……って、検非違使の担当が警察業務なのは当然として。落ち着いて思い返せば、身分高きおふたりも彼の上司、警察の最高責任者であった。
するとこれは捜査活動、朸が折れたのは事故じゃなくて事件、人為的なものであったと?
「自ら認めるのだな? なぜ真っ先に気づいたか、明らかに述べよ」
仕切り直しの第一声がこれ、第一発見者扱い。
相変わらずの高圧的な態度に疑われているという不快感。どうにも腹が立ってやっぱり反射的に言い返してしまう。
「我ら東豎子、その職務は『騎馬にて』主上の行幸に従いまいらせること……」
御簾の向こうに、だからどうしたと言いたげな顔。
やっと男に縁ができそうなところだったと思い返して、少しはしおらしくなってみるかと言葉尻を濁したというのに。相手の察しが悪くてはその甲斐も無い!
脇息を掴み締め、しっかりと上半身を起こす。さて何を言ってやろうかと……時間をかけて考えてるようじゃ、ダメなのよね。
「紀朝臣の無実は『騎乗される』宰相中将さま、また廷尉さまにはお分かりいただけますかと(訳:徒歩で従う検非違使大尉じゃあ分からないだろうがな!)」
可愛らしいお顔に似合わず「しっかり者」(訳:ご想像にお任せします)の阿閉宿禰さま、強いられてきた不快をここぞとばかり叩き付ける。
吐き捨てて最高の笑顔をこちらに見せていただけるのは心強いけど。
その落差怖すぎるのよね。
「いえ、紀朝臣どのを疑っているわけではありませぬ」
当然よ。妙ないたずらなんてするわけがない!
先にも申し上げましたけれど。古来、行幸する主上の後ろにあって守りにつくのが私たち。そのために男装・騎乗して、男の名を名乗ってるんだから。
それは同僚の阿閉宿禰さまも同じこと、なんで私は疑われないの?
「と、申しますのも。輪番の日、また非番の日。ともに探りを入れましたが、紀朝臣どのの元には通う殿方がありません。朸に細工した実行犯と接触のしようがないのです」
男の影は捜査官でしたか!
いやだ恥ずかしい! 「口説こうって言うならまずはお文を持って来なさい」って、自意識過剰の極致じゃない! あれから来てなきゃいいんだけど。
阿閉宿禰さまも真っ赤になってる。男出入りがあるって(容疑者が絞れていないってことは複数よね?)指摘されたも同然ですもの。でも良いじゃないですか羨ましい。
「それぐらいにしておけ、大尉。……そのことよりも紀朝臣。『視点が高い騎馬なればこそ、真っ先に目に付いた』と申すのだな? やや離れた後方を行く位置取りも幸いしたと見える。お側近くにはべる我ら近衛よりも気づきやすい、なるほど道理である」
なんかいろいろ恥ずかしいけど。
ともかく私たちは最初に気づける立場であると、それだけのこと。事件とは何の関係も無い。
お年に見合わぬ沈着ぶりで知られる宰相中将さまは、さすが判断が明晰にして公正で。何より良いのは御簾のこちらからでもはっきり分かる秀麗な眉目。
「先頃の『吉兆』の件もございます。主上のお輿に思いを致すよう務めておりましたことも幸いでした」
つい心浮き立ち、問われもせずにお答えしちゃうのも仕方ないでしょ?
なお吉兆ってのは、その。言葉を濁したのです。
先月、主上がお輿にお渡りになろうとしたら、ネズミが飛び出してきた。
陰陽寮のほうで「これは吉兆です」って言ってくれたから良いようなものの、管理が甘かったことは確かじゃない? 関係者一同猛省していたはずなのに。
また管理不行き届き。反省が活かされていないんだから。弛んでるっての。
「ならばその慧眼を見込んで尋ねたい。他に気づいたことは無かったか?」
慧眼って、平安女子に対する褒め言葉じゃないですよねえ!
まあいいか、評価されたことは確かなんだし……って、宰相中将さまの整ったお顔を眺めてるとつい採点が甘くなってしまう。
おっと、ご質問にお答えしなくては。
あの時、私は何をしていたっけ。
ええと、行幸にしたがって、お仕事してた。それは確かなところ。
東豎子のお仕事とは主上の守りにつくことだとは言ったけど、それは伝承の話。当世、実際に御身を守りまいらせているのは六衛府の人々。
では実務上、私が何をしているのかと申しますと。
東豎子――行幸に従うときは姫大夫、あるいは訛って姫松と呼び慣らわされているけれど――の職務とは、主上のご挿鞋(おはきもの)を捧げ持つことなのです。
「あの時私は、膝の上に置いたご挿鞋に意を傾けておりました。目を上げ、朸に気づいたのは……」
記憶を反芻する。どうして私は視線を上げた?
「そう、後列にあった女房殿の悲鳴があったからでした!」
平安女子はおっとりしている。めざとく気づくなんてことはあり得ない。いやそうでもないか。あいつら小姑みたいだし……ともかく!
一瞬の出来事ですもの。遠く後方からでは音や傾き、兆候に気づくなんて相当難しい……あらかじめ知っていたのでもない限り。
能吏の名を宮中に轟かせている廷尉さまがすかさず立ち上がった。検非違使大尉が慌てて続く。
宰相中将さまだけが頷きを送ってよこす。これよこれ、この気配り。後宮の皆さまから大人気なのもこういうところ。
……犯人と目された人物だが、自宅でこと切れていた。
度重なる行幸に対する諫言を試みたものらしいと噂が流れてきた。
諫言にしては少々、いえだいぶ穏やかならざる手法じゃありませんこと?
噂と言えば。
東宮時代にご寵姫を亡くされた主上は、以来その後世を願いまた世の無常を感じられている、なんて噂を聞いたことがある。
初めはその意味が分からなかった。
このテの噂ってね、「ご即位されたけれどすぐにご譲位されるんじゃないか」って読むんですって。そういう流れに持って行きたい方がいるって……でも表向きは噂、まさに根も葉も無い話。
言われてみればここのところ私たちは大忙し。神社仏閣への行幸が急に増えたから。来年もその予定が重なっていて、噂に妙な信憑性が生まれていることも確かで。
こう符合していると、曾祖母さまが八十年前の事件を警戒されるのも分かるけど。
でも主上は三十路の男盛りよ? 初めて知った失恋の痛手に打ちのめされるってお年頃じゃない。東宮女御さまが亡くなられて五年は経ってるし、俗世とのかすがい、残された宮様がたもいらっしゃるのに。
だいたい寺社へおいでになると言っても、三月に一度とかその程度だし、ねえ。
そりゃまあ主上の行幸ともなれば、千・二千の人数が付き従う。公式行事でなければ人数をだいぶ絞るけど、それでも百の桁で動員される。
ちなみにどれほど絞られようとも、我ら東豎子が省かれることはない。繰り返しますが行幸・お渡りには絶対不可欠の存在なのです。どやあ。
ともかく。「行幸があれば費用がかかる、たび重なれば政治日程にも支障が生ずる」と。まあそのことは確かなんだけど。「たかが女に執着するなどあってはならぬこと」って。それが実行犯が書き置いた主張であったとか。
馬鹿にして。諫言どころか捨て台詞じゃない! 不敬にもほどがある!
なお、女房女官も数人、職を辞した。
理由は分からない。日ごろから出入りの多い職場だから。
後日。
御簾の前を通りがかった宰相中将さまからひと言をいただいた。
「冷静な判断、主上の守りと伝わる姫大夫の名に恥じぬ」
「ヒメモーチギミ」なる音へと転訛する前の呼び名だった。
大夫、それは古き言葉。
往古主上のご尊顔を拝し直にお言葉を受けることを許された貴族に向けられた尊称。
ええ。伝承の古より、主上の守りとしてお側近くに仕えてまいりました。
姿も心も、変わることなく。
検非違使大尉:検非違使(警察部門)の現場責任者
衛門佐(廷尉)・大江匡房はその上官
近衛中将・藤原宗俊はさらにその上官、最高責任者