第1話 東豎子(あずまわらわ) その2
つつがなく勤務を終え自宅に帰れば、曾祖母さまが端近まで迎えに来ていた。
年を取ると子供に返るとは言うけれど、もう少し落ち着いてくださいな。
って、そんな遠慮をする人は長生きできないのよねえ。ほら、こっちに構わずしゃべり出す。
「朝臣どの、きょうのお勤めはいかがでしたか?」
ひまごでも現役の官人だからと憚るあたり、かなりしっかりしてる。まだまだがんばれそうね、この調子だと。
ともかく。紀朝臣季明、それが私の名。
女でありながら名を、それも男の名を明らかにすることを許され、また求められる我ら。その官名を東豎子と称する。平安の京にあってはごく例外的な存在だ。
この職は母娘継承、男性の名も一族の女が襲いでゆく。曾祖母さまご自身も、かつては季明を名乗り出仕していた。
目の前にいるその曾祖母さまだけど、いまや祖母さまよりも長生きしてついに米寿を超えた。歴史の生き証人たるお立場には敬意を惜しみませんけれど、何せ年寄りは話が長い。ごたごたがあったなどと言おうものならさらに長くなるから適当にごまかしたけど、それぐらいでは止まるはずもなくて。
「寺社への行幸であったと伺っております。さてあれば、母が勤めておりました時分の例の件。我ら東豎子、また女官にとって痛恨の屈辱事。よもお忘れではありますまいな。二度と無きよう、心してお励みくださいませ」
痛恨の屈辱事。それは幼き折より繰り返し聞かされてきた物語。
月明らかなる夜半のこと、時の主上がたばかられ連れ出され山科のお寺で落飾された、無理にご譲位させられたと。
確かにひどいお話だけど。
私たち東豎子、紀朝臣一家にとっての問題はもう少しその、ちっちゃい話で。
主上が内裏から外へと行幸されるならば、東豎子は必ずお供することになっている(大内裏じゃなくて、内裏よ? ちょっとしたお出ましでも必ずお供するのです)。それが決め事、儀礼、慣習、しきたり、先例なんです。実際我ら一族、何百年と欠かすことなくお役目を勤め上げてまいりましたとも。
だというのに、あの事件。主上は内裏の御格子を上げてただひとり外出された……って、それじゃあお供の立場が無いじゃない!
「我らの存在が、職務が無視されてしまった。東豎子無しで主上が外出される事態を、先例を許してしまった」って。
五代八十年にわたり憤慨し続けているのは、そこなのです。
ともあれ一族の大事であることは存じております。
でもしつこいのよ、曾祖母さまも。「我ら女官」って、いつまで現役気分なのかしら。
しかたないから決め台詞。
「重々存じております。行幸にはかならず侍りまいらせ、主上の御身を守りまいらせることこそ、我ら東豎子の職責。日々怠らずあい務めます」
官人としての覚悟表明ですから。
異を唱えること、たとえ家族でも先人でも許さない。
曾祖母さまもさすがに押し黙った。子供みたいに頬を膨らませてはいたけれど。
「お姫さまはお疲れのご様子。今日のところはどうかそれまでに」
気まずい睨み合いは乳姉妹・小楢の助け舟に救われた。
「お姫さま」なんて呼ばれるほどご大層な身分でもないけれど、それでも一応貴族(五位)の娘。乳姉妹から下男・端女、要は使用人だけど。それぐらいは抱えているわけですよ。
「ありがとう小楢、助かった」
上衣を肩から外しつつお礼言上申し上げれば。
あらかじめ心得て後ろを歩みながら衣を剥がしつつ話しかけてくる。
これも熟練の技能ってやつよね、間違いなく。
「ほんとうに嫌な事件であったと聞き及んでおります。でもそもそものお話、なぜ発心など。お姿お心映えに優れたおきさき様は他にもたくさんいらしたでしょうに」
でもあの事件で危機感を抱いたことが幸いにして一族の今につながっていると、そう言えなくも無いのよね。それと、さすがにね? 小楢が私を気遣ってくれてることは分かるけど。
女官たる者、どうあってもそちらへの言及は、その。
「当時の主上は数えて十九歳にあらせられたの。初めて恋を知り、愛された更衣様を亡くされて。みほとけの道にお心を引かれる……おくゆかしき話だとは思います」
出来事それ自体は東豎子の、いえ女官全員の屈辱であった。
それは確かなことだけど、さ。
「お姫さまが恋を語るだなんて! どうなさいましたの!? 出先でおかしな物でも食べました? お熱は?」
うるさいわよ小楢! 仕事仕事で気づけばもう七年、男っ気の無い生活で悪うございましたね!
耳に痛い話を避けつつようやく腰を落ち着けたと思ったら、庭先をうろうろしてるのがいるし。
厩舎人の犬丸ね? すっとろい牛の世話でもさせればもう少し落ち着くかしら。
ええ、自分でも分かっています。疲れてイラついてるってことぐらい。でもそんな私の顔を覗き込むや「おくつろぎくださいませ」なんてうそぶくことはないでしょ、小楢。言い捨てて簀子へ寄って行くあたりも腹立つし。私の機嫌が読めるなら、もう少し言いようってものがあるんじゃない? ともかく伝言は面倒だから、犬丸には大きな声ではっきり言うよう伝えといて!
「昨日のこと、お邸を垣間見ている若い男がありました。声をかけたところそそくさと逃げ去るその様子、あまりに怪しく。次に来たら追い返すか、取り押さえるか。お下知をいただきたく、お帰りをお待ち申しておりました」
ちょっと、それって。まさかもしやひょっとして。
大声で言わせるんじゃなかった!
「いけません、犬丸さん!」
ちょうど簀子を歩んでいた阿漕が、ウチで預かってる子なんだけど、庭に降りていく。袖を引きごにょごにょと耳打ちするや、犬丸め赤くなったと思いきやにやけだす。
腹立たしい。御簾の内からならば分かるまいとでも思っているのかと。
「その、お姫さま。次のお休みはいつになりますか?」
犬丸の攻勢を受けて、誠忠なるわが乳姉妹が御簾の内にて仁王立ち。
「次に来たならばお名前と官位官職を伺い、まずはお文を届け参らせるよう伝えなさい。過分な小遣いなど受けて手引きすることは許しませんよ?」
うわずるその声、小楢も慣れていないことはバレバレで。
全く仕方ないわねえ……って、頬が緩むのはどうしたらよいのやら。