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おじいちゃん

人は、

人の中に、

色々な出会いや別れの中に、

人のつながりの中に、

存在するもの。


自分にとってかけがえのない大切な大切な人が、

たとえ今、目の前にいなくとも、

心の中には確かに生き続け、

感謝や愛が強ければ強いほど、

決して色あせることはない、ということを、

今、心の中に存在している方々に、教えていただきました。


======================================


今回は、「おじいちゃん」をご紹介いたします。


身内の話で大変恐縮なのですが、

おじいちゃんへの感謝を文字にして紡いでおかないことには、

いつ来るかわからない自分のお迎えの日を

安心して迎えることなどできないように想われます。


ここでいうところの「おじいちゃん」は、

母方の祖父のこと。

父方の祖父はわたしが生まれる前に亡くなってしまったので、

会ったことがありません。


「おじいちゃん」は、子どもの頃のわたしにとっては、

誰よりも怖くて、誰よりも厳しい人でした。


おじいちゃんのおうちは、

東京の世田谷にありました。

川崎、横浜に住んでいたので、

おじいちゃん家までは車で1時間半ほどかかったでしょうか。

医者だったおじいちゃんのお家は、

診療所と自宅が繋がっており、

その玄関は診療所も自宅も同じ。

そのため玄関を入ると目の前に患者さん用のトイレがあり、

その隣に受付がありました。

廊下兼待合室を通り抜けると右側は診療室、

左側は自宅になっています。

左側の方へとまっすぐ行くと、

おじいちゃんは、廊下のつなぎの縁側の長椅子にゆったりと座っているか、

あるいはその隣の掘りごたつのある食卓に腰を下ろしてテレビを見ているか、

そのどちらかでした。


到着すると、まず、家族四人、並んでおじいちゃんの前に正座して座り、

膝の前の床に両手をついて頭を下げ、

「こんにちは。」とご挨拶をします。

「よく来たね。」と、おじいちゃん。

そして、父も母も妹も、スーッとどこかに消えてしまった後も、

要領の悪いわたしはいつもどうしてよいのやらわからず、

おじいちゃんの前で体を強張らせて、

身動きが取れずに座っておりました。


おじいちゃんからお声がかかります。

「由季、手首のゴムを外しなさい。」

母からは、「お返事、はい。元気に、はい。」といつも言われておりました。

おじいちゃんにとっては、はい、以外の返事はありません。

その時も間髪入れずに、

「はい。」

とすぐさま返事をし、

即、左手首に嵌めていたヘアゴムを外しました。

なぜ、などとは、聞いてはいけません。

はい、と返事をして実行するのみです。


でもおじいちゃんの言葉には、

いつも必ずおじいちゃんなりの理由があったのでした。

手首にヘアゴムを嵌めていると、

血液の循環が悪くなる、と、

その時にはそのような理由だったのだろうと想われます。

「でも、手首のゴムはゆるゆるだよ。」などとは

決して口にしてはいけないのでした。


また、ある日のご挨拶の後、

おじいちゃんは聞きました。

「由季は、今、学校でなんの係をしてるのか。」

その時は、学級委員だったのでそう答えると、

「昨日は、何人休んだ?」と聞きます。

えっと、、、と、考えていると、

「学級委員であれば、すぐに答えられないようではダメだ。

クラス全体を把握することは、学級委員の役目。

何人休んだんだ。」

ともう一度質問が飛んできます。

「飼育係にしとくんだった。昨日ウサギに餌をやりました、とか言えるのに・・・」と思っても、

時すでに遅し。

「学級委員とは、どういう仕事をするのか。」

との質問には、

「学級会で議長をします。喧嘩があれば、仲裁役として両者の話を聞きます。

スポーツ大会などのクラスの行事を企画します・・・。」と

普段使わない頭をできうる限り使って答えたものでした。


さて、あれは、小学5年生の林間学校の後のこと。

いつものようにおじいちゃんにご挨拶をしてから、

箱根林間学校で買ったお土産をおじいちゃんに渡しました。

すると、おじいちゃんは聞きました。

「どの道路を通って、箱根に行ったんだ。」


えっ、どの道路、って・・・?


林間学校へは、学校から皆でバスに乗って行き、

バスを降りたら箱根に到着していたので、

どの道路を通ったか、など、

知る由もありません。

黙っていると、今度は違う質問が飛んできます。

「箱根のどこに行ったんだ。」

「芦ノ湖、です。」

「芦ノ湖のどこだ。住所は?」

「わ・・・かりません・・・・。」

「わからない、とはどういうことだ。

お母さんは、旅行の前には、必ず、

どこの道路を通り、

どの宿に泊まり、

どこを観光するのか、

全ての日程と場所を説明してから出かけたものだ。

自分の行く場所を調べることは当たり前のことだ。

由季は、そんなこともできないのか。」


えっ、知らなかった。

お母さんが、そんなことをしていたなんて・・・

恥ずかしくて、

自分が情けなくて、

でもここで泣いてはいけないと、

泣きそうなのをグッとこらえて正座でじっと我慢するのが精一杯でした。


おじいちゃんが台所にいるおばあちゃんに声をかけます。

「おい、地図を持ってこい。」


おじいちゃんのおうちには、

10センチくらいの厚さの古くて大きな地図帳が何冊もありました。

その何冊もある大きな地図帳の中から神奈川県が載っている地図帳を一冊

おばあちゃんが持ってきました。

おじいちゃんはその分厚い地図帳のページをバッタバッタとめくり、

箱根のページを開きました。

芦ノ湖がドーンと、ページの多くを占領していました。

「箱根は、こんなに広いんだ。

ここのどこに泊まったんだ。」


わかりませんでした。

答えられませんでした。

胸が苦しくて、

わかりません、とも答えられず、

ただ、じっと、大きな地図帳の芦ノ湖を眺めていたのでした。


翌年のこと、

今度は修学旅行で日光へ行きました。

さぁ、大変です。

どこの道路を通って、

どの宿に泊まって、

東照宮のことも家康や家光のことなど、

できうる限り調べておじいちゃんのおうちに向かいました。


お土産は、手のひらにおさまる小さな三猿の置物。

三猿の由来だって、聞かれても大丈夫です。


ご挨拶の後、いつものようにおじいちゃんのお話が始まりました。

少し間が開いた際に、

バッグからお土産を取り出しておじいちゃんに渡します。

おじいちゃんは、ただ、

「ありがとう。」とだけ言いました。

あれ、どこの道路を通ったとか、聞かないのかな、、、と待っていたのですが、

その後、おじいちゃんは、穏やかな表情で長椅子に腰掛けているのみで、

何も言いません。

せっかく調べたのにちょっと悔しいので、

「男体山が、綺麗でした。」

などと言ってみました。

おじいちゃんは、あたたかな表情を浮かべながら、

「そうかい。」とだけ言ったのでした。


おじいちゃんには、よくわかっていたのでしょう。

この子は、わかった、と。

もう大丈夫だと。


おじいちゃんとのご挨拶は、

心を使うものだったのでした。



おじいちゃんには、

子どもが五人、孫が九人いました。

その子どもたちや孫たちが集まると、

いつもご飯の用意が大変です。


狭い台所は、祖母と二人の伯母と母が入れば身動きする場所など全くなく、

でも「お手伝い」をしなければという思いが頭の片隅にあるので、

お勝手の入り口でなんとなく待っています。

お勝手に続くのは掘りごたつのある食堂。

上座におじいちゃんが座っており、

テレビを見ています。


あれは、小学校1年生くらいの時だったでしょうか、

いつものようになんとなくお勝手口に立っていると、

おばあちゃんから、

「ハイ、由季ちゃん、御膳ふいてー。」と

ポンと台拭きを渡されました。


えー、ダメダメダメダメ・・・

と頭をブルブルしましたが、

皆それぞれ忙しく、誰一人、構ってなんてくれません。


母が子どもの時の御膳をふく話が、

いやでも頭に浮かんできます。

「食事の前に御膳をふく時にはね、

おじいちゃんにね、それはよく叱られたわよ。

『お前は、ゴミを擦っとる。』って言うのよ。

こっちは擦ってるつもりなんて、全くないのにね。」


さて、困りました。

どうしよう・・・。

台拭きを片手に逃げ出したくなりました。


が、こうなったら、やるしかありません。

一か八かです。

一生懸命考えました。

お母さんは、確か、ゴミを擦っとる、と言って注意されていたのだから、

ゴミを擦らなければいいのかも、

でもどうやったらゴミを擦らないで御膳をふけるのかなぁ。

わたしの取ったストラテジーは、

1)小さなゴミ箱を抱え、台拭きを箒のように用いてゴミを集め、ゴミ箱に入れる。

2)台拭きの面を変え、台をキレイにふく。

この方法でやってみよう、と決めました。


台拭きを片手におじいちゃんの前に現れると、

おじいちゃんの厳しい視線が一気に台拭きに注がれたような気がしました。

小さなゴミ箱を持ってきて、

擦らないように、擦らないように、と

台拭きを、さっ、さっと払うように動かして、

ゴミをゴミ箱に入れようと試みました。

方向は一方向のみ。

(ちなみに、掃除機でさえも、ガーガーと、

押して引いて押して引いてと「普通に」かけると

ゴミを擦っているではないか、と、注意されたそうです。

動かすのは、一方向のみにしなさい、と。)

向こう側から手前にゴミを持ってきて、

埃や食べ物のカスなどをゴミ箱に落とします。

次に、御膳を拭きます。

おじいちゃんの視線が、注意が、わたしの手元、一挙一動に注がれ、

凄まじい緊張感の中で大きな御膳を拭いていきました。

おじいちゃんの目の前を拭くときの緊張はマックス。

拭き終わると、急いで台所に入り込み、

はぁー、と大きな大きな息を吐きました。


小学校の一年生のやることです。

きっと、キレイになんて、拭けていなかったに違いありません。

でも、そのとき、おじいちゃんは何も言わなかったのでした。



食べ物に対しては、色々なこだわりがあったようです。

・トーストにはバターが一番うまい。

(おじいちゃんはトーストを必ず2回かじりました。

歯型が残らないようにするためです。)

・茹でナスには生姜醤油が一番うまい。

・毎日食べても飽きないご飯というのは、すごいものだ。


お茶、天ぷら、うなぎ、干し柿、などなども、

おじいちゃんの好物だったようです。

おじいちゃんのおうちのお茶は本当に美味しいお茶でした。

高級なお茶を、おばあちゃんが丁寧に入れていました。

おばあちゃんの天ぷらは、特にエビのかき揚げは天下一品でした。

おじいちゃんはそのおばあちゃんの美味しい天ぷらを、

お皿いっぱい、山のように召しあがっていました。



母はよく、自分が小さかった頃のおじいちゃんの話をしてくれました。

おじいちゃんは、とても怖かったけれど、

おばあちゃんのことが大好きだったのねぇ。

食事は3食お家でとっていたけれど、

いつだったか、夜お酒飲んで珍しく酔っ払って帰って来て、

夜の路上でおばあちゃんの名前を大声で叫びながら家まで帰って来たらしいのね。

いつもおじいちゃんは10時くらいには布団に入っていたのだけれど、

おばあちゃんのことを待っていたみたいだしね・・・。



挿絵(By みてみん)

1935年12月18日



医者ではなく、本当は絵描きになりたかったこと、

でも親に反対されたので医者になったこと、

(おじいちゃんのおうちには、地図帳と同じくらい分厚くて大きい美術全集があった。)

養子に出されたこと、

医学部にいた時の焼肉の話、

肋膜炎を患い入院した時に字を習ったこと、

(おじいちゃんの字は、専門家のように正しく美しい字でした。)

日本中を旅して回ったこと、

(その際には、高級ホテルや旅館の一番安い部屋に泊まったそうです。)

また、

体は傷つけるものではない、

親は生きているだけでありがたいものだ、

医者は選ぶものだ、

解熱薬は熱を一度だけ下げるものを飲みなさい、

道具は一流のものを使いなさい、

買い物をする時には、上質の、最高級のものを選ぶか、

もしくは一回きりの使い捨てのものを選ぶか、そのどちらかだ、

などの言葉は、おじいちゃんの言葉ですが、

母を通してこちらに伝えられました。


おじいちゃんは、わたしにとっては、

怖くて厳しいおじいちゃんでした。

「おじいちゃん」と声をかけることなどしたことはありません。

いえ、一度だけ、たったの一度だけ、

おじいちゃん、と、声をかけたことがあったでしょうか。

ある時、おじいちゃんのおうちでお茶をいただいた後、

パッカパッカという音がどこかからか聞こえてきます。

見ると、おじいちゃんの歯が、全部、

バカバカと歯茎ごと外れたりおさまったりしているではありませんか。

思わず、本当に思わず声が出てしまいました。

「おじいちゃん、そっ、それ、もう一回やって〜!」

おじいちゃんは、数回、歯をパカパカしてくれました。


さすが、おじいちゃん。

やっぱり、おじいちゃんはすごい。

入れ歯というものを知らなかったわたしは、

次の日学校で歯をパカパカできるおじいちゃんのことを大いに自慢したものでした。


おじいちゃん、と声をかけたのは、その、一度きり。


わたしにとっては、恐れ多い、

近いようで遠い、尊敬の対象のような存在だったのでした。


子どもの時、

祖母から、母から、周りの方から、なんとなくこちらに届いていた言葉があります。

「由季はいい子だ、いい子だって、おじいちゃんはいつも言っているのよ。」


おじいちゃんから直接褒められた記憶は、ほとんどありません。

ただ、他の人からそう伝え聞く度に、

小さいながらも、

おじいちゃんの言うところの、いい子、って、どういう意味だろう、

と思わずにはいられませんでした。

おじいちゃんはこの上なく厳しいけれど、

人を見る目のある、人の内面をよく見ることのできる人、

そして何よりも非常に愛情深い人だ、ということを、

わたしは知っていました。

そのおじいちゃんの言うところの、いい子、というのは、

決して、大人の言うことをよく聞く子、とか、

大人にとって都合のいい子、というような、

そういった意味での「いい子」ではないはず。

おじいちゃんはわたしの中のどの部分を見て、

いい子だ、と言っているのだろう、と・・・。


おじいちゃんの厳しさは、

その人に使う時間とエネルギーは、

人への愛情があるゆえのもの。

自信がなく、時に潰れそうだったあの頃のわたしがおじいちゃんからの愛情にどれほど救われ、

そして今も支えられているか、

とても言葉にはなりません。

どうも歯車がかみ合わず、

気分が落ち続けているような時に、

「どこの道路を通ったのだ。」

というおじいちゃんの声が聞こえると、

もう遅いけれど、道路、調べなくちゃ、と、

とりあえず動こう、と、

シャンとした気持ちになるのでした。



ほんの数年前だったでしょうか、

いとこの一人からメールが届きました。

「おじいちゃんはいつも、由季は思慮深い子だ、って、言っていたよ。」


えっ、思慮深い?

思慮深い・・・


おっちょこちょい、だの、頑固、だの、負けず嫌い、だの、

そんな言葉はいただいたことはあっても、

思慮深い、そんな言葉は、

未だかつて他人様から一度もいただいたことはございませんし、

自分の中にそのような要素が潜んでいると感じたことも一度もありません。

いい子と言われた時のことを思い出し、

その時と同じように遠い気持ちになりました。


都合のいい想像であることは承知の上で、

それでも尚且つ確信のように感ぜられるのは、

おじいちゃんは、

人の真性のようなもの、

人格の核の部分のようなもの、

そんなものを見てくれていたのではないか。

わたしには、おじいちゃんが意味するところの、

自分の中の、いい子、あるいは思慮深い部分を見いだすことは難しいけれど、

そのようにおじいちゃんが見てくれていた、ということが、

心からありがたく感ぜられ、

また、いつも、大丈夫だよ、と言ってもらっているような、

そんな気持ちにもなるのでした。


おじいちゃんは、わたしが中学校一年生の冬に亡くなりました。

午前中、患者さんを診て、

午後、ちょっと休むと言って横になり、

お茶を一口飲んで、亡くなりました。


中学校1年生の1学期、

自然教室という宿泊学習があり、

例によっておじいちゃんにお土産を買ったのですが、

とうとうおじいちゃんにそのお土産を渡せないまま、

おじいちゃんは逝ってしまいました。

また、地図を頭に叩き込んで、

どこの道路を通って、どこを観光して、、、と準備をした上で、

おじいちゃんと対面してお話をする、

当時のわたしには、その力がなかったのでした。


おじいちゃんは、酒豪だったと言います。

もし、あの世なるものがあるとして、

あの世でお目にかかることが叶うならば、

おじいちゃんとお酒を一献させていただきたいなぁ。

そして、「おじいちゃん」と呼ばせていただきたい。


その時まで、

おじいちゃんに救われた心の、

あるいはSeele(魂)の,

自分には見えないけれどもおじいちゃんに心をかけていただいたその部分を、

また、受け継いだ命を、

大切に、大切に、生きてゆきたい、

そう、想っております。




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