5 決戦
目が覚めると、白い天井があった。
病室で目を覚まし、蓮ははっとしてベッドから上体を起こした。着替えさせられた入院着は、微妙にサイズが合っていなかった。
(俺は、一体どうしてここに)
直後、最後に見た光景が脳裏に甦ってきた。喫茶店の窓を破り、謎の能力者が飛び去って行く姿が鮮明に思い出された。
(そうだ。俺は、取材を受けて喫茶店に行ったんだ。そして、あの宮川という女性が襲いかかってきて―)
そこまで考えて、蓮はベッド脇の椅子に腰かけている少女に気がついた。うつらうつらと船を漕いでいる彼女の肩をそっと叩き、意識を覚醒させる。
「森川?」
「ひゃっ」
効果はてきめんだったようで、森川はただちに飛び起きた。背筋をぴんと伸ばし、何度か瞬きをしてから蓮を見つめる。自分を見つめる瞳がみるみる涙で濡れていくのに、蓮は少なからず困惑していた。
おそらく、自分が意識を取り戻すまでの間、ほとんど一睡もせずに寄り添っていてくれたのではないだろうか。一生懸命に看病してくれた森川には、頭が上がらない。
「よかった。蓮君、無事だったんやね」
自分の回復を喜びながらも、今にも泣き崩れてしまいそうだった。蓮はそれを「嬉し泣き」と解釈したが、彼女には別に涙を流す理由があった。
「自分で言うのも変かもしれないけど、よく助かったな」
宮川が変身したクラゲの能力者は、蓮に多量の毒を注入した。意識を失って倒れるくらい、その効果は絶大だったはずである。
「確かに、現代の医療だけじゃ難しかったかもしれんね」
森川は無理に笑顔をつくって、精一杯明るい雰囲気を演出しようとした。
「でも、ユグちゃんが薬草をつくってくれたおかげやね。それを煎じて飲ませたら、だいぶ落ち着いたみたいやわ」
以前にも、メドゥーサの毒にやられた佐伯をユグドラシルが助けたことがある。今回も、自分たち討伐隊のために力を貸してくれたということか。命の恩人に、蓮は感謝してもし切れなかった。
「前みたいに、岩崎さんが煎じてくれたのかな。あの人にもお礼を言っておかないと」
何気ない一言に、森川の笑みは凍りついた。刹那、感情をせき止めていた堤防が決壊したように嗚咽を漏らし始める。目から零れる大粒の涙に、蓮は戸惑わないではいられなかった。
「お、おい。どうしたんだよ」
「…岩崎さんやなくて、うちがやったんよ。あの人も今は入院しとるから」
堪えきれずに、森川は泣きじゃくった。蓮の肩に縋りつくようにして、直視したくもない現実を彼に伝えようとする。
「どこから話したらいいんやろ」
「落ち着いてくれ、森川。一体何があったんだ」
ただ事ではないのだと、蓮にもようやく理解ができた。事態は深刻で、蓮が生死をさまよったこと以外にも問題が発生しているのだ。
「蓮君が戦った宮川って人の他にも、三人の能力者がそれぞれ別の場所で暴れたんよ。そのうち一人は岩崎さんで、彼女は特殊な薬品で操られていたみたい」
驚き、目を見開いた蓮に、森川は沈んだ声音で続けた。
「岩崎さんいわく、自分を手駒にした主犯格は永山啓一。元NEXTの構成員で、ラードーン開発の責任者だったらしい人らしいんよ」
ラードーンという単語を、蓮はしばらく前に宮川の口から聞いていた。
『簡潔に説明するけど、あなたは元々ラードーンの器になる予定だったの。でも、あなたが家出したことでその計画は破綻した。代わりに選ばれたのが、私の息子だったというわけ』
逃げ出した自分の代わりに、宮川菜穂子の子供が犠牲となった。討伐隊を相手に絶対的な強さを見せつけたあの能力者も、元は普通の人間だったのだ。NEXTの野望を止めるためとはいえ彼を射殺したことを、蓮は心の中で詫びた。宮川の息子の冥福を祈った。
もしかして、一連の事件は「ラードーン」という一点で繋がっているのではないか。直感ではあるが、何となくそんな気がした。
「それで、それでね」
森川は声を震わせ、彼に真実を伝えた。
「永山が、渚を人質にとったんや」
討伐隊隊長の曽我部は、あまりの事態に当惑していた。謎の能力者による立て続けの襲撃を受け、どこから手をつけて良いか分からないほどであった。
軍から与えられた執務室で、彼は側近らに苛立った口調で尋ねた。
「さらわれた第十八班の隊員の行方は、まだ分からないのか」
「申し訳ありません。現在、捜索中です」
深々と頭を下げ、中年の男が謝罪の意を示す。彼を責める気にもなれず、曽我部はため息をついた。
ついさっき戻った佐伯雅也も、新たな事件の模様を伝えている。しかも、その件にも岩崎を襲った永山啓一という男が関わっているらしいのだ。
「失礼します」
そこへ、執務室のドアをノックして若い隊員が入室する。ノックが返ってくるのを待たずに扉を開けた彼は、通常なら礼儀知らずだと非難されるだろう。だが、状況は一刻を争っていた。
「たった今、曽我部隊長宛てにこんなものが届きました」
慌てた様子で、青年隊員は手にした封筒を差し出した。曽我部は眉をひそめ、注意深くそれを受け取った。やがて差出人の名前を見て、あっと声を上げる。
「どうしました」
驚いて問うた部下の一人に、忌々しげに封筒を見せる。住所までは記されていないが、永山啓一、と万年筆で丁寧に記されていた。
爆発物が入っている可能性も考えたが、曽我部はすぐに切り捨てた。封筒はやや大きめのサイズでこそあれ、とても爆弾が仕込めそうにはなかった。
デスクから取り出したペーパーナイフで封を切ると、一枚のディスクが姿を現した。
「いわゆる、ビデオレターというやつか」
永山は一体何を考えているのだろうか。訝しむように独り言ち、曽我部はそれを部下へ手渡した。およそ五分後に機器が再生した映像は、以下のようなものだった。
薄暗い室内がカメラで映し出される。画面手前には、一人の少女が転がされていた。両手足を縄で縛られ、口には猿ぐつわを噛まされている。その目には恐怖がありありと浮かんでいた。
突然、部屋の灯りが点く。明るくなった室内には、かつて何らかの実験に用いられたのであろう、フラスコやビーカーが器具が散乱していた。割れたまま放置されているものもいくつかある。
『ごきげんよう、討伐隊の諸君』
永山啓一が姿を見せ、カメラに向かってにやりと笑った。少女の背中を容赦なく踏みつけ、さらに笑みを深める。
変身せずとも能力者が常人以上の力を発揮できることは、討伐隊の隊員にとっては周知の事実である。彼女が相当な苦痛に晒されていることは、想像に難くなかった。抵抗できない相手をいたぶる姿に、曽我部は怒りが湧き上がるのを感じた。
『僕が差し向けた能力者に、君たちは見事に対処した。敵ながらあっぱれだ。だけど、味方全員を守れたわけではなかったようだね』
足に力が込められ、井上渚がくぐもった悲鳴を漏らす。
『彼女を助けたければ、交換条件としてユグドラシルを僕に引き渡せ。断れば、この娘は死ぬことになる』
カメラに顔を近づけ、永山は残忍な微笑みを浮かべた。
『引き渡しは明後日の早朝に行う。旧NEXT本部ビルにユグドラシルを連れてこい。ただし、君たちが彼女の他に連れてきて良いのは能力者のみだ。普通の人間が混じっていた場合、取引は中止とする。もちろん、人質の命は失われる』
懸命な判断を期待しているよ、と結ばれ、映像はそこで途切れた。
ただちに軍と討伐隊の関係者が政府官邸に召集され、緊急会議が開かれた。
大会議室に一同が揃ったのが確認され、政府軍最高司令官、和泉零二が現状の報告、並びに先ほど届けられたビデオレターの内容の説明を行う。ざわついた雰囲気が波紋のように広がっていく中、零二は言った。
「永山が指定した時刻まで、あと一日と少ししかありません。早急に対応を考える必要があります」
彼が着席するのを待たずに、神原康成がさっと手を挙げる。
「それは、犯人が出した要求を呑むかどうか、ということでしょうか」
隙あらば他人を蹴落として出世しようと狙っている彼も、さすがに今回は真面目な様子だった。それだけ事態が緊迫しているということでもある。
「その点も、検討内容に含まれると思います」
椅子から少し腰を浮かせて、零二が答弁する。なるほど、と軽く頷いてから、神原は持論を展開し始めた。
「私としては、取引に応じるのには反対です。理由は二つあります」
そこでやや間を空ける。聴衆の意識を引きつけるための、神原の常套手段だった。
「第一に、ユグドラシルを引き渡すリスクが大きすぎます。四年前、NEXTは彼女の能力を特殊な装置を用いて増幅し、スパイダーの巣をエキス化させるために利用しようとしました。今回の犯人の狙いが何なのか、はっきりとしたところは分かりません。しかしながら、永山は元NEXTの研究者。それも、強力な能力者の開発に携わっていたというではありませんか。ユグドラシルの力を、彼が正当な目的のために使うわけがない」
そうだ、と賛同の声が相次ぐ。二年前の事件で失態を見せてはいるものの、いまだに神原の影響力は健在である。彼を慕う者は少なくない。
「第二に、『能力者以外を連れて来るな』という条件です。いかにも怪しい。罠に決まっています。我々の戦力を削ぎ、確実に目的を達成するために違いありません」
なおも話を続けようとした彼に、政府関係者の一人が恐縮そうに挙手した。軍内部の派閥に縁のない人間ならば、こうした場でもさほど気兼ねなく発言できる。
「ですが、神原長官。本当に敵戦力を減らしたいのであれば、普通『能力者を連れて来るな』とするのではありませんか?彼らは少数でも大きな力を発揮する、優れた戦士です。こう言っては政府軍の方に失礼かもしれませんが、並みの軍人よりもよっぽど脅威になりうると思われます」
「それは…」
奥歯を噛み、神原は言い澱んだ。視線が虚空をさまよい、何か上手い切り返しを模索する。
政府高官がそれを意識したかは定かではないが、彼の言葉は神原にとって手痛いものだった。神原自らが主導して開発した対能力者用特殊装備は、まだ大きな成果を上げていない。使用すれば平均的な能力者と同じ身体能力を発揮できるものの、和泉蓮らを超えるほどのパワーを引き出せていないのだ。
「特殊装備が能力者に取って代わる」という神原の理想は、達成されていない。政府関係者の指摘は、神原のアキレス腱を突いていた。
「敵の数が少ない方が対処しやすい、とでも考えたんじゃないですか。ともかく、永山が自分にとって有利になるように条件を設定したのは確かです。危ない橋を渡るのはベストな選択肢ではありません」
形勢不利と見たのか、神原は一旦口をつぐんだ。場が静まったのを見て、司会進行を任せられた零二が議論を再開する。
「仮に取引に応じないとして、犯人と人質にはどう対処するおつもりですか」
「我が軍をもって排除します」
自分へ向けられた問いに、神原は威勢よく答えた。
「人質の救出が困難であるならば、最悪の場合、犯人もろとも消し飛ばすのもやむを得ないでしょう。それを可能にするだけの力が、今の軍にはあるのですから」
彼の自信の裏には、二年前から導入されている戦闘機「ラース」の存在がある。上空にあるスパイダーの巣を切り裂いて飛行し、ターゲットの真上に回り込んでからレーザー光線や追尾機能付きのミサイルを発射して速やかに撃破する。今では国内に四機が配備され、何体ものスパイダーを倒した実績もあった。
「関東基地に配備されている最新型の『ラース』は、ステルス機能も搭載しています。いかに永山が優秀な科学者だといっても、彼個人の力では接近を予測することすら難しいはずです。『ラース』を用いれば、潜伏しているビルごと木端微塵にするのも容易い」
「討伐隊の井上渚を、見殺しにしろと言うんですか」
零二が眉をひそめても、神原は意に介さなかった。ペースを崩すどころか、ますます饒舌になっている。
「もちろん、彼女を救うために手は尽くしますよ。しかし、そのためにユグドラシルを犯人に引き渡すのなど論外ではありませんか。あの少女は、使い方次第ではこの世界のあり方を変えてしまえるだけの力を秘めている。一人の隊員の命を救うためだけに全人類を危険に晒すなんて、間違っています。そうではないですか?」
会議室の全員を見回し、柔和な笑みを浮かべる。神原の強硬論に、出席者の心は揺れていた。彼は決して間違った主張をしているのではない。起こり得る様々な可能性を天秤にかけた結果、最もリスクの少ない道を提示しているのだ。
「…神原長官、あなたは一つだけ大切なことを見落としている」
やがて、零二は意を決したように口を開いた。
「永山啓一は能力者です。それも、報告によれば複数の能力者の力を取り込んだ状態だということです。そんな相手を、戦闘機で本当に倒せますか。井上隊員は攻撃に巻き込まれて死亡したが、犯人は逃走した―といった事態になれば、政府軍への非難は免れませんが」
渚は蓮と同じ班に所属しており、零二にとっても容易に失いたくはない人物だった。けれども、彼は感情論に訴えるような真似はしない。あえて理詰めで反論し、神原の意見を覆そうとしたのだった。
出席者の大方は、零二の言うことももっともだと考えたらしい。興味深そうに神原の反応を見やった。
予想していなかったしっぺ返しに、神原は焦りを隠せなかった。
「…しかし、他の能力者の力を吸収した程度で『ラース』の追尾ミサイルは振り切れません。そんなことは不可能だ」
「絶対に無理だとは言い切れません。永山は、かつて討伐隊を苦しめた第二世代と呼ばれる能力者たちの異能をも取り込んでいます。どんなことが起きても不思議ではありません」
苦し紛れの反論を、零二は冷静に退けた。
もし神原が攻撃作戦を決行していたとしても、おそらく失敗に終わっただろう。蝙蝠の能力により、永山の五感は常人より遥かに鋭敏になっている。ステルス機能を使われようとも、微かな音から戦闘機の接近に気づけたはずだ。
機体そのものを破壊するには、少々手こずるかもしれない。だが、攻撃を受ける前に先手を打ってパイロットを無力化し、動きを止めるという方法なら容易い。岩崎から抜き取ったセイレーンの力を使えば、操縦士の精神はすぐに崩壊する。
「司令、これはあくまで確率の話なのです。私の作戦の方が、より確実に事態を収束させることができるはずだ。永山が得体の知れない力を有しているのは認めましょう。ですが彼を倒すために、物量で圧倒して強行突破する以上に適した方法があるでしょうか。取引の条件など、反故にしてしまえばいいんですよ」
神原はなおも自説を主張して譲らない。そのとき、今まで沈黙を守っていた初老の男が手を挙げた。
「―神原さん。あなたは、軍人に向いていないと思いますよ」
この場に呼ばれているのは、何も軍人ばかりではない。討伐隊の代表として、曽我部も出席していた。険しい顔つきで睨まれ、神原が怯んだ様子を見せる。
「人民を守るのが軍の仕事です。あなたは危険を回避し、事件をなるべく穏便に解決することしか考えていない。人質を助けるつもりなんて、これっぽっちもないんじゃないですか」
隊員がさらわれた曽我部からすれば、神原の主張は暴論もいいところだった。はらわたが煮えくり返りそうになるのを、今までずっと堪えてきたのだ。それが一気に爆発した。
「では曽我部さんは、ユグドラシルを引き渡してでも人質を助けろと言いたいのですか」
しかし神原としても、一方的に批判されてただで引き下がるつもりはなかった。肥えた体を揺すり、一段と声を張り上げる。
「彼女には貴重な能力がある。我々の元で保護し、悪意をもつ者の手に渡さないようにしなければならないのです」
「人間一人の命に、価値の大小はない」
その気迫に負けじと、曽我部が強い口調で続ける。
「あなたは井上隊員のことを、ごく普通の若い女性だと思っているのかもしれません。しかし彼女は四年前、NEXTとの戦いにおいて大きな役割を果たしています。彼女の機転がなければ、我々はラードーンという強力な能力者を倒せていなかったでしょう。無論、NEXTの計画も止められなかったに違いありません。井上隊員は、討伐隊にとってかけがえのない存在です。失うわけにはいかない」
能力者全員で攻撃し、隊員らが必死で援護射撃を行っても、ラードーンに決定打を与えるには至らなかった。メドゥーサを捕食し皮膚の石化能力を得たラードーンは、絶対的な防御力を誇っていた。「至近距離から対スパイダー用ライフルを連射する」という井上の立てた作戦のおかげで、どうにか仕留めることができたのである。
ついに神原が折れた。がっくりと肩を落とし、うなだれて黙り込む。初めは彼に賛同していた者たちも、今ではすっかり勢いを失っていた。
かくして、一応は永山の取引に応じることが決定されたのである。
同時刻、能力者たちも軍施設内の談話室に集まっていた。円形のテーブルを囲むようにして皆が腰かける。
「司令から連絡があったんだが、永山は人質を渡す条件として二つを挙げたそうだ。ユグドラシルの身柄を引き渡すことと、その交換に立ち会えるのは能力者のみにすることらしい」
早速口火を切った澤田を、蓮たちは緊張した面持ちで見つめた。
「ユグドラシルの件についてはまだ協議中だが、永山の対処に俺たちが当たることは決まったようだ。皆はそれで構わないか」
今日、澤田の側には松木が座っていない。藤宮猛と戦ったときの傷を癒すため、現在彼は入院中である。仲間の仇を討つためにも、永山と戦いたいというのが澤田の望みだった。
「俺は大丈夫だ」
すぐに蓮が首肯する。渚を自分たちの元に必ず取り戻すと、彼は心に誓っていた。彼女がさらわれたと告げたときの森川の泣き顔を、蓮はまだ忘れることができないでいた。
佐伯も同意の意を示し、それから円卓の反対側に座る二人へ視線を向けた。
「お前たちはどうする」
一人は、ドロップショルダーを着こなし、首に十字架型のネックレスをかけた金髪の男。もう一人は丸みを帯びた赤い眼鏡をかけ、地味で大人しそうな印象を与える若い娘だった。
「手伝うよ」
それが当たり前の選択であるかのように、村上は即答してみせた。
「井上って人のことはよく知らないけど、あんたたちの大切な仲間なんだろ。二年前に助けてもらった借りもある。一緒に戦うのが筋ってもんだ」
「私も頑張ります。よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げた怜奈を、村上を除く一同は温かい眼差しで迎えた。
政府軍の部隊とサード・ジェネレーションが衝突した際、現場から逃げようとした村上たち二人は、裏切り者の新田に奇襲攻撃を喰らった。彼を無力化した命の恩人は、他でもない和泉蓮である。彼だけではない。駆けつけた澤田や松木、佐伯らも退路を切り開いてくれた。あのとき受けた恩を、村上は一生忘れないだろう。
だが彼と異なり、怜奈は蓮たちと直接話をする機会があったわけではない。負傷した彼女はすぐに病院へ搬送され、しばらく寝たきりの状態が続いた。村上のように病院の待合室で彼らと情報交換することもなかったし、蓮たちも事後処理に追われたなかなか見舞いに行く時間が取れなかった。そのため、彼らとはほとんど初対面となる。
「うん、よろしくね」
にっこり笑った白石が、場の雰囲気を和やかなものに変えてくれた。
何の確証もなかったが、この仲間たちとなら苦しい状況も打開できるのではないか、と蓮は思った。
話し合いが終わり、談話室を後にする。そのまま歩き去ろうとした佐伯の意識が何かを捉え、歩みを止めさせた。
「盗み聞きとは感心しないな」
振り向き、人影に鋭い眼光を浴びせる。視線に射抜かれた彼女はびくっと身を震わせ、縮こまった。
幸か不幸か、他のメンバーは彼女に気づかないまま退室した後だった。佐伯と二人きりという状況がつくり出された。
「ごめん」
照れくささと申し訳なさが半分ずつ同居した笑みを見せ、森川は言った。
「どうしても早く方針が知りたくて、居ても立ってもいられんかったんよ」
「そうか。まあ、気持ちは分からなくもない」
別段問い詰める素振りも見せず、話は終わりだとばかりに佐伯が歩き出す。その腕を森川は遠慮がちに、だがしっかりと掴んだ。
「うちがここに来たのは、話し合いの様子を把握するためだけじゃない。佐伯君たちにお願いをするためでもあるんや」
考えてみれば、盗聴のみが目的だったのなら、会議が終わってすぐに立ち去っているはずだ。そうせずに残っていたのは、佐伯に見つかって恥ずかしい思いをするためでは決してない。
言うが早いか、森川は手を離した。そして床に膝を突き、頭を深く下げる。
「一生のお願いや。うちを、今回の作戦に加えてほしい」
佐伯のこれまでの人生において、目の前で女性に土下座されたという経験はない。必死に懇願する森川の姿に、動揺を誘われないではなかった。
「渚が誘拐されたのは、うちが弱かったから。うちがセイレーンを倒せなかったから、渚はたった一人で戦い抜いて…それで、永山にさらわれてしまった。うちの責任なんよ」
声を震わせて訴える彼女を見て、佐伯は「ああ、そうか」と思った。
森川は事件以来ずっと、自分を責め続けてきたのだ。自分の無力さを呪い、心の中で何度も渚に詫びたに違いない。
「それはできない」
だが、佐伯は非情にも言い放った。
「能力者のみを交換に立ち会わせるというのが、向こうの出してきた条件だ。森川が同行すれば、約束を破ったとみなされかねない。そうなれば、井上の命にかかわる」
「分かってる。分かってるんやけど、でも」
目には涙さえ浮かべ、森川は絞り出すように言った。
「うちは渚を助け出したい。自分の弱さにも勝てず、親友の力にもなれないなんて嫌や。納得できん」
「今は非常事態なんだぞ。一個人のわがままが通るような状況じゃない」
泣き崩れる彼女を前にしても、佐伯は拒絶の姿勢を崩そうとしなかった。井上渚の無事を思いやるからこそ、彼には森川の勝手ともいえる行動を許すことができなかった。
足元で嗚咽を漏らし始めた森川に、佐伯は冷徹な視線を投げかけ続けていた。
「友美、本当にごめんな」
病院の一室で、岸田達郎は妻の手を握り締めた。その表情は苦悩と後悔に満ちていた。
「俺が側にいてやれなかったから、こんな酷い目に遭わせてしまって」
「いいんです」
ベッドに体を横たえた岩崎は、とても弱い力で手を握り返した。永山に無理矢理投与された薬品により、彼女の肉体は衰弱している。医者からは、しばらく安静にしているようにと言われた。
「ところで、あの子は?」
「政府軍の本部に匿われてる。いや、隔離されてると言った方が正確かもな」
気に食わない、と言いたげに岸田は吐き捨てた。
「永山啓一の狙いはユグドラシルだ。軍の上層部は、何としてでもあの子を守り抜きたいらしい」
彼女の安全が確保されるのは、本来なら喜ばしいことだ。だが一方で、彼女が能力者ユグドラシルとしてのみ認識されているのは不愉快だった。異能の有無を除けば、あの子は普通の少女と何一つ変わらない。
岩崎の見舞いに来たがっていた本人の意思が無視されているのも、問題である。これでは、NEXTの実験動物として扱われていた四年前と大差ないではないか。スパイダーの巣のエキス化を防ぐためとはいえ、もう少し柔軟な対応をしてもらえないものか。
(これだから、縦社会は嫌いなんだよ)
上に立つ者は下の者の事情を理解しようとせず、自分たちの都合で物事を動かす。いつもの光景ではあるものの、岸田は苛立ちを禁じえず、束の間物思いに耽っていた。
手にしていた温もりが突然消えて、意識を目の前の現実へ引き戻す。
「おい、友美。どうしたんだ、おい」
彼の手のひらを握っていた手は離され、代わりに胸を押さえていた。岩崎の顔が苦痛に歪む。
「分かりません。急に、息が苦しくなって」
喘ぐように、何度も不規則な呼吸を繰り返す。ぜえぜえという息の合間に、時折苦しそうな咳が混じるようになった。
ただ事ではないと感じ、焦った岸田はすぐに看護師を呼んだ。
軍用車両が停まったのは、蓮たちにとって忘れるはずもない場所だった。
旧NEXT本部ビル。天まで届きそうな摩天楼は、激しい戦いと四年の歳月の中で所々が破壊されている。しかし、原型は十分すぎるくらいに保たれていた。
他のビルは既に解体作業が終わっているが、この円柱形のビルだけはほとんど手つかずである。相当な高さがあるため作業が難航しているのだ、と聞いたことがある。
正面入り口から中に足を踏み入れても、人の気配はない。四年前なら、受付嬢や従業員らが侵入者を見て悲鳴を上げたことだろう。瓦礫の散乱する高層ビル内部を、能力者たちは慎重に進んだ。NEXTの保有していたものは大半が持ち出された後であり、異様にがらんとした空間が広がっている。
電気が通っていない以上、当然エレベーターは使用できない。あの決戦の日と同じく、一歩一歩長い階段を上がっていくより他になかった。
やがて最上階に辿り着いた彼らを、永山は笑顔で出迎えた。ビル中央部にある吹き抜け、その側の手すりにもたれかかってこちらを見ている。彼の足元には、拘束された井上渚が転がされていた。
「来たのは君たちだけって解釈で、良いのかな」
「構わない」
蓮が静かに首肯する。相手が約束を守ったことにひとまず満足したらしく、永山は笑みを深めた。
「結構。では、約束通り人質の交換を行おう。ユグドラシルは連れてきているな?」
彼の問いに、蓮の背後から進み出た少女がこくりと頷いた。パーカーのフードを深めに被っており、表情までは窺えない。それでも、緊張し怯えているのが痛いほど伝わってくる。
探し求めていた獲物の姿をついに捉え、永山は興奮を隠せなかった。目はらんらんと輝き、ユグドラシルの肉体を穴が開くほど見つめている。
「素晴らしい。ついにこの時が来た」
永山は彼女へつかつかと歩み寄り、肩を乱暴に掴んで引き寄せた。それから渚の体を蹴って床を転がし、きわめて手荒な方法で蓮たちの元へ返した。人質からは完全に興味を失ったらしかった。
慌てて彼女を助け起こそうとする能力者たちを尻目に、永山は高らかに勝利宣言を発したのだった。
「この娘の能力を吸収することで、僕はNEXTの意志を継ぐ。もはや専用の増幅装置など必要ない。僕自身の異能でユグドラシルの力を倍増させれば、革命の雨は再び地上を潤すのだから」
永山の肉体が白煙に包まれたのち、黒い翼と半透明の触手が顕現する。
「チェックメイトだ!」
勝ち誇った笑い声に続き、彼の伸ばした触手が少女へと迫った。
「―あんたの思い通りにはさせへん」
予想に反した冷たい声音で、少女は呟いた。目深に被ったフードを払い除けて視界を確保し、素早く後方へ跳び退る。触手が空を切り、永山は動揺を露わにした。少女の姿は、彼の記憶にある実験体とは明らかに異なっていた。
「君は何者だ。本物のユグドラシルはどこにいる」
「今頃は軍人さんたちに守ってもらってるんと違う?」
すました顔で言ってのけ、森川綾音は微笑を浮かべた。彼女の後ろでは、拘束を解かれた渚が仲間たちと無事に再会を果たしていた。
土下座までして頼み込んだ森川の意志を、佐伯は結局のところ無視できなかった。零二を介して「森川を作戦に加えることはできないか」と上層部に意見を伝えたところ、ユグドラシルの身代わりを演じさせることで方針がまとまったのであった。
敵にユグドラシルを差し出すのは危険が大きすぎると判断した政府と、親友を助け出したいという森川の利害が一致したかたちになる。あえて危険な役目を務め、人質の交換に応じるふりをして渚を救出したのであった。
「あのときは、力になれなくてごめん。これで貸し借りなしや」
「綾音…」
くるりと振り向き、森川が屈託なく笑う。彼女を見つめ、渚は泣き笑いのような表情になっていた。
「白石、二人を安全な場所へ」
「はい!」
澤田の指示に、ウサギの能力者へと変身した彼女が頷く。監禁されて弱っていた渚を背負い、森川の手を引いて一目散に来た道を戻る。ぴょんぴょんとリズミカルに跳びはね、瞬く間に階段を駆け下りていった。負傷した仲間を連れて撤退するのは、特殊部隊にいた頃から白石の得意分野である。
計画が破綻し、永山は怒りの形相になっていた。指先をわなわなと震わせ、瞳の奥には憤怒の炎が燃え上がっている。
「よくも騙してくれたな」
五人の能力者は彼を取り囲み、いつ戦闘が始まっても良いように構えていた。ややあって、蓮が口を開く。
「あんたの目的は何なんだ。どうしてユグドラシルを狙った」
「NEXTの計画を再始動させることさ」
徐々に冷静さを取り戻し、永山は余裕すら感じさせる声音で言った。
「僕にはラードーンと同じ力がある。彼女の能力を増幅させる装置などなくとも、力を取り込むことさえできれば日光照射量を操作できる。スパイダーの巣を崩壊させることなど容易い」
「ラードーンと同じ力だと?」
眉をぴくりと動かし、今度は佐伯が問うた。
「四年前の決戦で、俺たちは確かにあの能力者を倒した。ジェームズはラードーンの遺伝子情報を含む薬品を所有していたが、それも和泉によって破壊されたはずだ」
「その通り。けど、それが全てではないんだよ」
永山は鷹揚に頷き、真相を語り始めた。
「そもそも僕が開発したラードーンは、初めから竜の姿をしていたわけじゃない。ベースとなる力はサラマンダーという蜥蜴の一種で、それにある能力を人為的に加えただけさ。捕食した能力者の力を我が物にする、という異能をね」
一体、あの巨大な飛竜に成長するまでに何人の能力者を喰らってきたのか。考えるだけでぞっとした。
「ジェームズが僕に無断で使おうとしたのは、ある程度成長したラードーンの遺伝子情報だ。元となる能力を含む薬品は、僕が個人的な研究のために持ち出していた。その後はNEXTに加担した罪を問われて四年間服役していたが、先日になってようやく釈放されてね。かねてから温めていた計画を実行に移したわけさ」
「あんたに利用された人たちの容態が、急変したと聞いている。それも計画の一部なのか」
永山によって能力者にされた岩崎友美、宮川菜穂子、藤宮猛の三人は皆、大なり小なりの怪我をして入院していた。昨日から彼らは急に身をよじって苦しみ始め、医者にも対処法が分からないということだった。
「まあね」
蓮に問いただされても、永山は表情一つ変えなかった。
「彼らに投与したのは、エドワード氏が第三世代に対して用いた薬品を改良したものだ。従来のものよりも早く使用者の遺伝子情報を上書きし、能力を定着させることができる。ただし、即効性がある反面で体への負担も大きい。計画を迅速に遂行するためには、それも必要なことだったんだ」
久しぶりにその科学者の名前を耳にし、村上と怜奈は緊張した様子だった。
「僕はエドワードとは元同僚で、彼がNEXTを去ったのちも互いの考え方を理解し、親密な関係を築いていた。その過程で技術提供を受けるのは造作もなかったよ」
二年前、多くの能力者を傷つける事件を引き起こしたエドワード。彼の残した技術を引き継ぎ、新たな悪意が放たれようとしていた。
「僕は従来のラードーンとは異なり、蝙蝠の異能をベースにしている。その特徴を取り込んだ結果、捕食せずとも血液を採取するだけで力を吸収できるようになった。さらに宮川君から奪ったクラゲの力で、触手の針から血を吸うことも可能となった。保管していた薬品とエドワードの編み出した技術を組み合わせて、僕は政府軍や討伐隊に恨みをもつ人間に力を与え、異能を奪うことに成功したのさ」
宮川菜穂子や藤宮猛は、やはり無作為に選ばれて能力者になったわけではなかった。永山が計画を実行に移す前に、彼らにはできる限り軍と討伐隊に打撃を与えることが求められたのだろう。クラゲの能力者となった宮川は、猛毒を打ち込んで蓮を意識不明の重体にまで追い込んだ。藤宮猛も澤田に敗れこそしたが、松木に深手を負わせている。彼らもまた永山に利用された被害者だったのだと、蓮は苦々しく思った。
「加えて、西岡君にはサード・ジェネレーションの拉致を担当してもらった。彼らから力を抜き取ることで、僕はかつてのラードーンをも超える究極の力を手に入れたことになる。それを今見せてやろう」
能力解放、と永山が低い声で発声する。彼の肉体が紅のオーラに包まれ、さらなる進化を遂げる。もはや、多種多様な能力の集合体ではない。それらは混ざり合いながら、一つの洗練されたかたちへと収斂されていった。
漆黒の翼は倍以上の大きさになり、筋肉量が一気に増加する。全身を赤紫の頑丈な鱗が覆い、両腕には太く鋭利な爪がそなわった。
かろうじて人型のシルエットを維持したまま、永山は強靭な肉体を持つ竜人へと変貌した。
「こうなれば力づくだ。君たちを蹴散らして政府軍へ乗り込み、何としてでもユグドラシルを手中に収める!」
猛々しい咆哮を轟かせ、ラードーンの能力者は敵勢力へ向かい突進した。
強敵が向かってくるのを見るや、五人の戦士は別々の方向に散開した。唯一、永山の正面に立っていた蓮だけは位置をほとんど変えず、ラードーンを迎え撃った。
「『能力解放』!」
五人がほぼ同時にコマンドを唱え、異能を解き放つ。獅子の能力者へと変わった蓮は、永山の繰り出した拳を両手でかろうじて受け止めた。すさまじい力と衝撃に、腕がびりびりと震えるのを感じた。
「あんた、自分が何をしようとしてるか分かってるのか」
息を荒げながら、蓮が詰問する。
「スパイダーの巣が変化したエキスは、人を化け物に変える。あんただって、二度と人間の姿には戻れなくなるんだぞ」
「そんなことはどうでもいいんだよ」
右腕にさらに力を加え、永山は蓮を突き飛ばした。間髪入れずに翼を広げ、空中を滑るようにして獅子の能力者へ接近する。
「興味があるのは、自分の才能が正しく評価されるか否かだけだ。世界のあり方を変えた英雄的存在として、僕は歴史に名を残す!」
ペガサスに由来する異能を発揮し、鋭い跳び蹴りが放たれる。胸部にそれを喰らい、蓮の体は大きく吹き飛ばされた。金色のたてがみが乱れて揺れる。
「NEXTの偉大なる計画が阻止されて以来、僕の研究を認めてくれる者は誰もいなかった。だから僕は僕自身の手で究極の強さを手に入れ、自分の有能さを証明する。そのために僕は今日、四年前と同じステージを戦場に選んだのさ。NEXTの為しえなかった偉業を達成し、四年間君たちが積み上げてきたものを無に帰すのに、これ以上ふさわしい舞台はないだろう?」
高らかに笑う永山からは、狂気の片鱗さえ窺えた。四年間の獄中生活は彼の精神を歪め、復讐心を燃え上がらせていたのだった。
「下らねえプライドだな」
つまらなさそうに吐き捨て、村上が動いた。床を蹴り飛ばすと同時に、特殊装備の革靴がブーツへと変形する。脚力強化の恩恵を得て、アメンボの能力者は近距離から回し蹴りを放った。
渾身の一撃を前に、しかし永山は回避動作を見せない。次の瞬間、村上の両目が驚愕に見開かれた。強烈な威力を誇るキックを防いだのは、岩のように硬く石化した皮膚。メドゥーサの能力を増幅して使用した永山は、オリジナルを上回る性能を発揮していたのである。
「無駄だ。その程度の攻撃では、僕には傷一つつけられない」
敵へと向き直り、永山が体を低く屈める。繰り出された掌打が村上の腹部を捉え、数メートルも吹き飛ばした。
「…村上君!」
援護しようと駆け寄った怜奈の動きを、蝙蝠に由来する研ぎ澄まされた知覚が察知する。隙の無い動作でカマキリの能力者の方を振り向き、永山は顎を大きく開いた。そこから放たれた不可視の超音波が彼女を襲い、悶えさせる。
よろめき、後ずさった怜奈へ飛びかかり、ラードーンの能力者は容赦なく膝蹴りを叩き込んだ。床へ思い切り叩きつけられ、怜奈が呻き声を上げる。
「よくも仲間を」
澤田は歯ぎしりし、佐伯と蓮へ素早く視線を投げた。
「三方向から同時攻撃だ。ラードーンといえども、全ては防ぎ切れまい」
熊の能力者が剛腕を振り上げ、左方向から迫る。そして虎の能力者が右から、獅子の戦士は後方から永山を攻撃しようとした。
だが、彼らの連携も永山の不意を突くことはできなかった。三人の繰り出した殴打が命中するより前に、ラードーンの能力者は天井すれすれまで飛翔していた。
「残念でしたね」
にやりと笑い、永山が再度口を大きく開ける。一フロア全体を射程に収めた強力な超音波が放たれ、蓮たちは躱すことさえままならなかった。全身が麻痺したように動かなくなり、足元がふらつく。
「何なんだ、これは」
脳裏をよぎるのは、かつて父親と―零二と口論になった際の記憶だった。ひどい頭痛に襲われ、蓮は立っているのがやっとだった。
「今の僕は、蝙蝠の音波とセイレーンの能力を組み合わせて使うことができる。つまりは、そういうことだよ」
静かに下界へ舞い降り、永山が種明かしをする。オリジナルよりも効果範囲が広くなっただけではなく、目に見えない音波という攻撃パターンをとるため耳栓をしても防げない。
四年前の戦いでは、松木が高速突進を仕掛けて風を切り、ノイズを発生させることで歌声の効力を半減させるという攻略法が用いられた。けれども、彼女の異能を改良して用いる永山の前には、そんな小細工は通用しない。
「諦めろ。単一の能力しか持たない君たちのような旧型では、僕には勝てない!」
無様に膝を突いた能力者たちへ、永山が襲いかかった。両腕の爪を続けざまに振るい、澤田と佐伯に一撃を加える。それだけでは飽き足らず、体重を乗せた鋭い蹴りをも見舞った。コンクリートの柱へと叩きつけられ、彼らの意識は朦朧としていた。
まさに圧倒的な強さだった。永山は束の間攻撃の手を止め、恍惚とした表情を浮かべていた。もはや止めを刺す必要もないと判断したのかもしれない。
「素晴らしい力だ。誰も僕を止めることはできない」
力なく倒れ伏した能力者たちを見下ろし、満足そうに首を何度も縦に振る。
「僕はあの出来の悪い不良品とは違う。他の能力者の異能を取り込んでも、自我を失うことはない。改良を加えたラードーンの性能をもって、僕はこの世界を制覇するのさ」
「…不良品だと?」
その言葉が、薄れかけていた蓮の意識を呼び覚ました。震える手に懸命に力を込め、必死に立ち上がる。
「馬鹿な。どこにそんな力が残っていたというんだ」
僅かに動揺の気配を見せた永山へ、蓮は激しい怒りを込めた視線を投げかけ、睨みつけた。
「四年前、宮川さんの息子は俺の代わりにラードーンの器になった。それをあんたは、不良品だったって言うのかよ」
「当然だ」
小さく鼻を鳴らし、永山が顔を背ける。
「実験開始から一週間足らずで自我を失うなど、出来損ないにもほどがある。心が弱かったんだよ、彼は。戦闘力こそ高かったが、使い物にはならなかった」
「…ふざけるなよ」
喫茶店で対面したとき、宮川菜穂子は悲痛な面持ちで自分に言ったのだ。忘れることなどできない、痛々しい表情だった。
『当時NEXTの研究員だった私は、「息子を最強の能力者にしてやる」とジェームズに騙され、代わりの研究材料として最愛の息子を差し出した。でも、あの子は』
クラゲの異能を発現し、憎しみを露わに蓮を攻撃して叫んだのだ。
『…負荷に耐えられず、実験開始から一週間足らずで自我をなくした。人の心を失ったのよ!』
事件から四年が経過してもなお、彼女は息子の死を乗り越えることができずにいた。その間接的な要因となった蓮を執念で追い詰め、深手を負わせるほどに強い憎しみを抱えていた。
宮川の息子を実験体として使い捨てにしただけでなく、永山は宮川自身をも能力者にして利用した。他にも大勢の人々を巻き込み、犠牲にし、自分の目的を達成しようとしている。
「人の命を、一体何だと思ってるんだ」
荒くなった呼吸を整え、蓮は強大な敵にも怯まずに吠えた。
「あんたみたいな奴に、この世界は絶対に渡さない!」
獅子の能力者の勇気に奮い立たされ、満身創痍の戦士たちが再び立ち上がる。五人はラードーンを包囲し、雄叫びを上げて挑みかかった。
両脇から、蓮と佐伯が息の合ったコンビネーションを見せて殴りかかる。猛烈な勢いで放たれたパンチを、永山は高く飛び上がることで回避しようとした。
「―同じ手を喰らうかよ」
嘲笑うかのような声が背後から聞こえて、ラードーンの能力者はぎくりとした。振り返ったときには既に遅く、死角に回り込んでいた村上の跳び蹴りを胸部に受けることとなった。
装備で跳躍力を底上げしている村上なら、相手が高度を大きく上げる前に先制攻撃を仕掛けることが可能なのである。キックの一撃は石化能力で防いだものの、永山はバランスを崩して高度を下げた。メドゥーサの能力は便利だが結果として体重が増すため、ペガサスの飛行能力との相性はいまひとつだった。
隙を見せた竜人へ、澤田が躍りかかる。左右の拳を交互に打ち出し、永山の肉体へ強い衝撃を与えた。石の鎧を砕くことは叶わなかったが、振動で揺さぶることには成功する。
悪態を吐き、永山は一旦着地して体勢を立て直そうとした。すかさず、そこへ怜奈が斬りかかる。目にも止まらぬ速さで放たれた斬撃が、ついにラードーンの石化した皮膚に亀裂を走らせた。
腕を薙ぎ払うようにして彼女を退かせたが、永山に息つく暇は与えられない。側方から突進してきた佐伯が間合いに踏み込み、右腕を下から勢いよく突き上げる。強烈なアッパーカットを顎に受け、ラードーンの巨躯がよろめいた。石化が間に合ってダメージは軽減できているものの、完全に殺し切れたわけではなかった。
決定打を与えるべく、正面から蓮が迫る。懐に潜り込むやいなや右腕を軽く引き、渾身のストレートパンチを放った。狙ったのは、先刻怜奈が攻撃したのと同じ箇所だった。
赤紫の鱗に覆われた厚い胸板へ、獅子の能力者の拳が叩き込まれる。ひび割れた石の鎧に衝撃が走り、それを粉々に砕く。
絶対防御を破られた永山には、もうダメージを軽減する手段がない。竜人の体は宙を舞い、やがて壁に激突して止まった。
ふらふらと立ち上がった永山を取り囲み、蓮たちは油断なく相手の動向を窺っていた。
「まさか、君たちごときにここまで苦戦するとは」
ぜいぜいと荒い息をつき、ラードーンの能力者は意外感を隠さなかった。その目には賞賛の色さえ見て取れた。
「もう諦めろ。大人しく投降すれば、それだけあんたの罪も軽くなる」
なだめるように呼びかけた蓮に、しかし彼は応じなかった。冗談じゃないとばかりに首を振り、薄ら笑いを浮かべる。
「…君たちは何も分かっていない。自分たちが優勢に立っていると勘違いしている。僕が何のために、能力者以外をここに近づけるなと指示したと思う?」
はっとして蓮が永山を見たとき、彼の髪の毛は逆立っていた。一本一本が意志を持ったように蠢き、どんどんその長さを増していく。
頭髪を蛇に変えて操るメドゥーサの能力と、触手を伸ばし先端から毒を流し込むクラゲの能力。それら二つを合わせ、より強力なかたちに練り上げたものだった。
「いつでも、起死回生の一手を打てるようにするためさ」
「…皆、伏せろ!」
永山の思惑を理解し、蓮は仲間たちを振り返って叫んだ。だが、既に遅かった。
ナイフのように鋭く尖った永山の髪が自在に伸び、五人を襲う。その先端が手足に突き刺され、あっという間に血液を吸い上げていった。同時に、その異能をも奪い去る。
自分の中の何かが抜き取られたかのような感覚に襲われ、針が引き抜かれてからも蓮はしばし呆然としていた。それは、他の面々も同様であったようだった。
対して、五人分の血液サンプルを採取した永山は、くっくっと笑みを漏らしていた。新たに五種の異能を手に入れた彼は、もはや無敵に近い強さとなっている。
「これで完全に形勢逆転だ。僕は君たちの持っていた力をさらに強化した状態で使える。一方、力を抜き取られた君たちは普通の人間に戻った。異能を失った能力者など、敵ではない」
けれども、彼の言葉はそこで途切れた。永山の視線は、自分の意志に反してぴくぴくと痙攣する左手に向けられていた。
「何故だ。体の動きがコントロールできない」
不意に激痛が走り、竜人は悲鳴を上げて右手で頭を押さえた。突然苦しみ出した彼を前に、蓮たちは何が起こっているのか呑み込めていなかった。
「…やめろ。僕の心の中に入ってくるな!」
全身を震わせ、永山が絶叫する。次の瞬間、彼は糸が切れた人形のようにがくりと俯いた。気を失ったのか、と蓮が思ったのも束の間、ラードーンの能力者はゆっくりと顔を上げた。ただしその瞳は白く濁り、光を宿してはいなかった。
たちまち、永山の肉体が内側から大きく膨れ上がる。輪郭が変形し、獣のそれになる。慌てて退避した蓮たちが見たのは、変わり果てた能力者の姿だった。
人の姿を保っていた頃の面影はどこにもない。巨大化した強靭な四肢がタイルを踏みしめ、フロアを揺らす。竜の顎が大きく開かれ、グオオオ、と猛々しい唸り声を上げる。
永山啓一という人格はどこかに消えた。眼前で咆哮しているのは、かつてこの場所で戦ったラードーンと同じ姿の能力者だった。
皮肉にも永山は、彼が不良品と嘲笑った実験体と同じ運命を辿ったのである。
事態の急変に、蓮たちは唖然としていた。自分たちの能力を奪われた今、彼らにはラードーンへの対抗手段が残されていなかった。
紅の飛竜が三度吠え、長く太い尾を横薙ぎに振るう。以前なら跳躍して躱すこともできた攻撃だったが、異能を失った彼らの身体能力は一般人と大差ない。完全に回避することは難しく、尾に体を強打されて床を引きずられるように転がった。
全身を駆け巡る鈍い痛みに、蓮が呻き声を上げる。どうにか上体を起こして辺りを見回すと、仲間たちの中に無傷で済んだ者はいなかった。皆、先刻の一撃でダメージを受けている。
絶望的なことに、さっきの打撃はラードーンの力の一端に過ぎない。ありとあらゆる能力者の異能を吸収した永山は、その気になればもっと手早く獲物を始末することだってできるのだ。攻撃を躱せるだけの反応速度を持たない今の蓮たちなら、メドゥーサから受け継いだ毒霧を放つだけで仕留められるだろう。
不幸中の幸いか、ラードーンへと変貌した永山は、かつて宮川の息子がそうだったように自我を失っている。科学者だった頃に見せた、冷静で容赦のない攻撃方法は取れないらしい。ただ本能のままに暴虐の限りを尽くすだけだ。
「皆、大丈夫か」
「どうにか生きている。だが…」
蓮の呼びかけに、佐伯は顔をしかめつつ答えた。言葉を濁しているけれども、彼の言わんとしていることはこの場の全員が理解していた。すなわち、あと一撃でも喰らえば危ないということだ。
「やむを得ん。ここはひとまず退くぞ」
自分たちの方へ頭部を向けつつある竜を横目で見やり、澤田は渋面を作った。不本意な撤退だ、と顔に書いてあるのも当然だ。何といっても、ここで永山を食い止めることができなかったのだから。
「力を失った俺たちが叶う相手じゃない。一度政府軍の本部へ戻って、増援を依頼するんだ。陸空軍を総動員すれば、あるいは倒せるかもしれない」
考えられ得る限り最悪の状況下でも、澤田は現実的な判断を下せていた。特殊部隊の隊長を務めていた彼にとって、これ以上仲間を失うのは耐えられない。最善策をとり、損害を最小限に抑えようと考え抜いた結果の撤退だった。
澤田の言葉がもっともであることは、蓮にも十分分かっていた。しかし、それで永山を無力化できるとも思えないのも事実だった。
零二が前に話していたのだが、先代のラードーンは大型のスパイダーを単独で撃破するほどの実力を持っていたらしい。最新鋭の戦闘機「ラース」でさえ、通常は中型個体を倒すために二、三機を要する。それほど強大な力を誇る相手を、はたして軍が止められるのか。仮に成功したとしても、相当な犠牲が出るであろうことは想像に難くない。
退却にすぐさま同意することはできず、蓮は刹那、思考を巡らせた。ふと引っかかりを覚え、僅かに眉をひそめる。
(そもそも、永山はどうして自我を失うことになったんだ。能力者から力を奪うだけで、そんな現象が本当に起こり得るのか?)
先代ラードーンの器になった宮川菜穂子の息子を、永山は「心が弱かった」と笑った。だから自我を失い、怪物になってしまったのだと。けれども、科学的な見地からすればおおよそ納得のいく説明ではない。力を取り込むことと精神的なありように、どんな関係性があるというのだろうか。
永山自身がラードーンへと変わる直前、彼は「僕の心の中に入ってくるな」と必死の形相で叫んでいた。一体、何が彼の精神へ侵入しようとしていたのか。
やがて一つの仮説に行きつき、蓮ははっと顔を上げた。もしかしたら、この方法ならラードーンを止められるかもしれない。
「待ってくれ。撤退する前に、俺の作戦を試してみてくれないか」
共に戦った戦士たちの顔には、戸惑いが浮かんでいる。敵は今この瞬間にも攻撃を仕掛けてくるかもしれない。ぐずぐずしている暇はないと、蓮は手短に考えを述べた。
「推測だが、永山は俺たちの能力だけを奪ったわけじゃない。同時に、俺たちの意識の一部―いわば魂のようなものをも吸い取ったんだと思う。だとすれば、自我を失って暴走した理由も説明がつく」
能力者たちから力を抜き取りつつ、永山はその魂の欠片を体内へと取り入れていたのだ。最初は自身の内で騒ぎ立てる魂たちを抑え込んでいたが、蓮たちからも力を奪ったことで精神が限界を迎えてしまった。許容量以上の無数の意識を抱え込み、永山は自分を見失ってしまった。他者と自分の境界線がどこか分からなくなり、全ての心が融合した化け物のような状態に至ってしまったのだ。
おそらく彼自身も、能力を吸収しすぎることのデメリットは理解していたのだと思う。蓮たちと相対しても、当初は力を奪わずに倒そうとしていたこともそれが理由だ。あえて切り札を使わずに最後まで隠していたのは、「精神的なキャパシティーを超えてしまうかもしれない」というリスクを懸念していたからではないか。
「だからどうだって言うんだよ。からくりが分かったところで、あいつを倒せなかったら意味ないぜ」
訝しげに尋ねる村上に、蓮は辛抱強く続けた。
「いや、倒せる。永山の中にある、俺たちの意識を呼び覚ますことができれば」
蓮の仮説が正しければ、ラードーンの精神内には自分たちの心の一部分が宿っている。そして、それは今も消えることなく永山の中で自身の存在を主張し続けている。元々自分の中にあった意識の断片ならば、再びアクセスすることだって不可能ではないはずだ。
そのとき、ラードーンがこちらを向いて顎をがぱりと開いた。喉の奥には真っ赤に燃える業火が見える。先代と同じく、火炎放射の異能をも手に入れていたようだ。
もはや猶予はない。皆を振り向き、蓮は鋭く叫んだ。
「意識を集中させるんだ。永山に吸収された、俺たち自身の心へ!」
状況を打開するのはこれしかない。迷った末、仲間たちは彼に従うことを選んだ。ラードーンが炎を吐きかけるよりも一瞬早く、彼らは瞼を閉じてただ強く祈った。
どこか切り離された場所に、自分自身がいる。そう感じて、蓮はそっと目を開けた。
覚醒した場所は、薄暗く静寂に満ちた空間だった。外界と完全に隔離されたこの場所は、何だかとても寂しかった。
しばらくすると、閉ざされた暗闇にいるのは自分一人ではないことに気がつく。周りを見回すと、かけがえのない四人の仲間の姿があった。いや、彼らだけではない。西岡に拉致されていたらしい、第三世代の能力者たちもいる。深い眠りについていた戦士たちは、少しずつ目覚め始めた。
ほどなくして、漆黒に覆われた天井がひび割れる。明るい光が差し込んできて、蓮は心が求めるままにそこへ向かって跳んだ。仲間たちもそれに続く。
止めを刺そうとしたラードーンの動きがぴたりと止まり、徐々に巨躯を悶えさせる。飛竜の胸部から最初に飛び出してきたのは、黄金のオーラを纏った百獣の王だった。
揺らめく光で形作られたライオンが唸り、竜へと体当たりを食らわす。実体を持たないはずの獣の攻撃は、敵を僅かに怯ませた。信じられないことではあったが、確かにダメージを負わせたのだ。
次に、黄色と黒の輝きを帯びた虎が現れる。彼もまたラードーンへと飛びかかり、両足の爪を素早く振るった。石化能力を発動するも虚しく、紅の鱗にはっきりと傷跡が刻まれる。
続けて飛び出してきたのは、焦げ茶色の光を纏うツキノワグマ。剛腕を振るい、竜の体を爪で何度も切り裂く。彼の後を追うようにして、巨大なアメンボとカマキリの幻も顕現した。体当たりや鎌による斬撃を浴びせ、ラードーンに攻撃を仕掛ける。
その二体に続き、カブトムシやカナブンの形をとった幻影が現れる。生きとし生けるものたちの猛攻を受けて、紅の飛竜は今や劣勢に立たされていた。しかも、幻の獣が一体飛び出してくるたびに、永山の取り込んだ力が一つ失われていくのである。
永山の精神世界から現れた獣たちは、単なる能力者たちの意識の断片ではない。彼らの心の一部が永山に奪われた異能と結びつき、動物の姿をとったのだ。
一暴れしたのちに、動物たちは彼らの居るべき場所へと駆け戻って行く。ある者は、建物内に拉致されたサード・ジェネレーションたちの体内へ。そしてまたある者は、離れた場所にある自身の心へと意識を集中させていた、五人の戦士たちの中へ。
黄金の獅子がフロアを駆け抜け、正当な所有者の体を通り抜けるようにして霧散する。光の粒となって百獣の王が姿を消した一方で、蓮は再び目を開けていた。体の奥深くに、熱を帯びて力が宿っているのが分かる。永山に奪われた力が戻ってきたのだ。
同様にして虎の幻影と同化し、佐伯も異能を取り戻す。澤田、村上、そして怜奈も自分自身の力を奪還し、おもむろに立ち上がった。体に力がみなぎってくるのを感じる。まだ戦えるぞ、内なる獣たちは叫んでいた。
視線を向けると、ラードーンは苦しげに身をよじり、のたうち回っていた。蓮たちから抜き取った力を失ってもなお、暴竜の姿は変わらないままだ。永山の意識は、以前として精神の奥に沈み込んでしまっているのだろう。
だが、弱体化したと言ってもやはり飛竜の力は強大である。ラードーンは苦しむがままにめちゃくちゃに尾を振り回し、翼を羽ばたかせた。旧NEXT本部ビルの壁が、柱が次々に抉り取られ、瓦礫の雨を降り注がせる。
咄嗟に後方に跳び退り、蓮たちは落下物を避けた。敵との距離はいくらか離れており、その間には瓦礫がいくつも転がっている。さらにラードーンの攻撃範囲が広いことも相まって、容易には近づけない。
(どうする。力は取り戻せたが、このままじゃ突破口が開けない)
多くの能力を失っているものの、永山は依然として第二世代の強力な異能を手放していない。メドゥーサの石化能力がある限り打撃は通用しないし、セイレーンに由来する精神攻撃もかなり厄介だ。こうしている間にも竜はビルを破壊しており、建物のどこかに捕らえられているであろう第三世代の能力者が案じられた。
皆が焦りを感じていたそのとき、奇跡は起こった。蓮たちの魂の覚醒が、永山の意識のずっと奥で眠っていた能力者たちをも揺り動かし、目覚めさせたのだ。
彼らには知る由もなかったが、永山が使った薬品には、先代の能力者の血液成分が微量に含まれていた。藤宮猛や岩崎、西岡から血を抜き取った際、永山は今は亡き戦士たちの意識をも吸収していたのだ。
ラードーンの心臓部から、銀色の毛皮をもつ狼の幻影が駆け出してくる。竜の首元へ牙を突き立てて噛みつき、狼は果敢に戦った。
『―やっぱり澤田さんは、俺がいないと駄目みたいっすね』
牙を引き抜き、狼がちらりと蓮たちの方を見る。直後、彼らの心に銀狼が親しげに語りかけてきた。村上と怜奈は会ったことのない相手であるが、他の面々なら忘れるはずもない人物だった。何度も聞いたことのある、懐かしい声だった。
「まさか、藤宮なのか」
呆然として、澤田は声を震わせた。つい先日彼の弟に騙されかけただけに、にわかには信じられないことだった。
けれども、四年前にユグドラシルを守って散った戦士の魂は確かにそこにあった。雄叫びを上げ、狼が再び突進攻撃を仕掛ける。
『澤田さんたちが頑張ってくれたおかげで、一時的に俺たちも意識を取り戻せたみたいだ。お前ら、ここは手を貸すぜ!』
俺たちも、ということは他にも目覚めた者がいるということか。蓮がそう思った直後、新たな光が姿を見せた。
『…全く、情けなさすぎて見ていられませんよ。私たちを倒したほどの実力者なのだから、あなた方にはもっと健闘していただかなければ』
空から天馬が舞い降りる。颯爽と現れたペガサスの魂は、空中を駆けてラードーンへ蹴りを見舞った。並び立つ銀狼をちらりと見て、不本意そうに付け加える。
『それにしても、一度倒した相手と共に戦うことになるとは』
『お互い一度は死んだ身だ。この際、過去の因縁にこだわるのはやめようぜ』
短く淡白なやり取りの後、二体の獣は再びラードーンへと向かって行った。しかし、まだ終わりではない。
『トラウマが甦ってくるわね』
上半身は人間の女性、下半身は鳥類の姿をした魔物が、幻となって姿を見せる。女の横顔は、かつて討伐隊と戦ったセイレーンにそっくりだった。今目にしている紅の竜は、四年前に彼女の体を牙で刺し貫いた怪物と同じ。当然ながら、敵を前にして嫌悪感を隠さなかった。
『うん。あのとき、すごく痛くて怖かった』
いつの間にか、彼女の隣にもう一人の魔物が並び立っている。髪の毛は全て蛇へと変わり、双眸は怪しげに光っている。先代のメドゥーサもまた、自身を捕食したラードーンを思い出して嫌そうな顔をした。
『…それじゃ、気を取り直して戦いましょうか』
翼を大きく広げ、セイレーンが蠱惑的な微笑を浮かべる。
『この世界を守るために、もう一度!』
大きく息を吸い込み、彼女の唇が歌を紡ぎ始める。意味をなさない単語の羅列が、軽快な旋律に乗ってメロディーが生まれる。特定の相手の精神にのみ強く干渉する、セイレーン第二の能力であった。
藤宮と第二世代の能力者の魂が抜け出たことで、永山は部分的にではあるが自我を取り戻していた。しかし、それが仇となる。通常の状態へ戻りかけた彼の心を、セイレーンの精神攻撃が襲った。ラードーンが身悶えし、苦痛に呻く。
幻影を見せられてパニックに陥った飛竜の目を、メドゥーサはじっと見つめた。
『駄目。動かないで』
彼女の瞳の輝きを見るや、ラードーンの体が硬直する。石像のように動かなくなった竜へと、狼とペガサスの幻が畳み掛けた。もはや永山の中に残った異能はほとんどなく、防御する手段は無に等しい。獣たちの猛攻を受け、ラードーンは少しずつ弱っていった。
死んだはずの能力者たちが復活し、力を合わせて戦っている。だが、繰り広げられる光景に圧倒されるばかりでは恩を仇で返すようなものだ。彼らの協力で生じた隙を逃さず、五人の戦士が再起する。
「『能力解放』!」
同時にコマンドを叫び、彼らは変身を遂げた。各々が気合と共に唸り声を上げ、ラードーンへ向かい突進する。瓦礫の山を飛び越え、力強く駆ける。
「俺たちの仲間の力、返してもらったぞ!」
先陣を切って飛び出したのは、アメンボの能力者である村上だった。特殊装備のブーツの性能を最大限に引き出し、一跳びで飛竜の眼前に降り立つ。狙いすました回し蹴りの一撃が、ラードーンの顎を捉えた。
「もうこれ以上、この世界を好きにはさせません!」
彼に続きカマキリの能力者、怜奈が飛びかかる。両の手首から伸びる鋭利な刃を振るい、竜の鱗を切り裂いた。鮮血が噴き出し、ラードーンが痛みに吠える。
ついにダメージの蓄積が限界を超え、竜の巨大な身体がみるみるうちに縮んでいく。自我を失う前の竜人の姿へ戻り、永山はふらふらと後ずさった。彼の表情には、今まで一度たりとも見せなかった怯えや恐れさえ浮かんでいた。
「馬鹿な。こんな現象はあり得ない。何故僕が、過去の能力者ごときに押されている⁉」
「それはお前が、仲間を信じようとしなかったからだ。他人を利用して強くなったお前に、絆の強さなど分かるまい」
タイルを蹴って跳躍し、澤田が永山の懐へ飛び込む。力強く振るわれた剛腕に殴り飛ばされ、竜人の肉体は宙を舞った。
最後の仕事を終え、澤田は視界の隅に立つ銀狼の幻をちらりと見た。藤宮が自分たちに力を貸してくれたのは、彼と絆で固く結ばれていたからに他ならなかった。
「があっ…」
力なく手足を投げ出した彼へ、追いすがる影があった。
「貴様のような悪を倒すためなら、俺たちは何度だって立ち上がる。絶対に負けはしない!」
空中をさまよう永山目がけて、佐伯が跳び上がる。勢いよく放たれたアッパーカットが腹部に突き刺さり、竜人の肉体は地へと叩き落とされた。
床へ激突する寸前、獅子の能力者が下界を疾駆した。右腕を後ろへ引き、残された全ての力をこの一撃に込める。永山を見下ろすかたちで、蓮が拳を握り締める。
「これで最後だ。あんたの野望は俺たちが止める!」
渾身のストレートパンチが胸部に命中し、竜人を強打する。相手を床に縫い留めるにとどまらず、タイルに微かな亀裂さえ走らせた。
永山はしばし手足を痙攣させていたが、やがてぐったりとして気を失った。鱗に覆われていた皮膚が人間のものへと戻っていき、乱れたスーツを纏った彼本来の姿になる。
呼吸を整え、白煙に包まれて変身を解く。永山を無力化したことを確認して、蓮は大きく息をついた。
四年前、自分たちは命を奪うことでしかラードーンを撃破できなかった。しかし今回は、抜き取られた力を奪還することで相手に自我を取り戻させ、闘争本能を抑えさせてから無力化することができた。これで宮川にも少しは顔向けできそうだ、と心の中で呟く。器となった人間を殺すという悲劇は、はたして繰り返されなかった。
蓮たちの勝利を見届け、藤宮をはじめとする能力者の幻は空気に溶けるように消えた。音もなく、すっと自然消滅した。宿るべき器を失った彼らの魂は、天へ昇るのを待つのみであった。
消える直前に、藤宮がにやりと笑いかけてきた。ペガサスは鼻を鳴らし、皮肉っぽく健闘を称えた。セイレーンは美しい微笑を見せ、メドゥーサもぎこちなく笑った。
目で捉えられたのは一瞬のビジョンであったが、そんな気がした。