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暴竜再臨  作者: 瀬川弘毅
3/6

3 井上渚の章

「すみませんね、急にお邪魔してしまって」

 テーブルを挟んで、一組の男女が向かい合う。場所は軍の施設の一室。討伐隊第十八班の班長、岸田達郎が住んでいる部屋だった。機密保持のため通常は立ち入りが禁じられた場所だが、彼は特別に面会の許可を得ていた。

「いえ、そんなことないです。私も久しぶりにお会いできて嬉しいです」

 しかし、今日は彼は不在であった。代わりに岸田の妻が―岩崎友美が、笑顔で来客を出迎えている。

「今まで、どこで何をされていたんですか?」

 彼女に問われ、男性は困ったように頭を掻いた。四十代前半くらいだと思われるが、黒々とした髪を短く刈り、健康的に日焼けした風貌はいたって若々しい。顔立ちもなかなかの二枚目で、すらりと背が高い。独身時代、岩崎が密かに憧れを抱いたこともある相手だった。もっとも彼は自分より一回りも年上だったし、配属されていた部署が違うため、ごくたまにしか顔を合わせなかったのだが。

「いや、お恥ずかしい話なのですが」

 一拍開けて、男は切り出した。

「この四年間、服役していました」

「えっ」

 思わず声を上げてしまってから、岩崎は自分の無神経さを呪いたくなった。口元を手で押さえ、顔を赤らめる。

「永山さん、本当ですか」

「残念ながら」

 永山啓一は、いかにも無念そうに首を振った。

「ラードーン・プロジェクトの責任者だったということで、処罰は免れませんでした。上層部が行おうとしていた恐ろしい計画は知らなかった、と主張したのは認められましたが、それでも懲役四年ですよ。NEXTの重役になんか、なるんじゃなかった」

 NEXTが解体される前、永山はラードーンに関する研究の第一人者であった。だがそれゆえに、重い刑罰を科されてしまったというのである。

 ユグドラシルを連れて逃げた点が評価され、元NEXTの研究員であっても岩崎は特に処分を受けていない。彼女のような末端の構成員にほとんど影響はなかった一方、やはり永山クラスの幹部になると話は違うようだった。岩崎は大いに同情していた。

「月並みな言葉ですけど、本当にお気の毒です。永山さんはジェームズ氏らと接点があったわけでもないのに、そんなとばっちりを受けるなんて」

「全くですよ。彼らのようなお偉方とは、会議の席で顔を合わせる程度の関係でしかなかった。飲みに行ったことさえないんです」

 ややふざけた調子の永山の言葉に、重くなりかけた空気が元に戻った。

「…と、まあそういうわけで出所して、急に昔の仲間に会いたくなったんです。NEXTが解体されて職を失った今、身の振り方を考えなきゃいけないことは分かっています。でも、皆が今どうしているのかを自分の目で見れば、何かそのヒントが得られるのではと思った次第です」

「そうだったんですね」

 うんうんと頷きながら、岩崎は自分の今の生活を説明することが求められていると察した。

「私について言えば…ええと、今は主婦って感じですね」

「なるほど」

 永山は顔をほころばせた。

「風の噂に聞きましたよ。旦那さんと幸せな家庭を築いていると」

「そんなこと…」

 ストレートに褒められて、悪い気はしなかった。頬に朱が差して、岩崎は気恥ずかしそうに軽く俯いた。典型的な「慎ましい日本女性」といった風の所作は、永山にも眩しく映った。

 だからといって、これから自分が行おうとしていることに罪悪感を抱くわけではなかった。目的を遂行するためには、手段を選んではいられないのだ。

「彼とは、討伐隊に身を寄せているときに出会いました。ちょっと不器用だけど、とても優しい人で」

 微笑んで言う岩崎に、永山は作り笑いを向けた。それは、彼以外には作り笑いだと見抜けない類の笑みだった。

「ユグちゃんのことは、知ってますよね。あの子がNEXTの上層部に捕らえられたときも、彼が体を張って助けてくれたんです」

「良い話じゃないですか」

 適当に相槌を打ってから、永山は口調をがらりと変えた。凄みの効いた冷たい声音で、そっと尋ねる。

「…それで、件のユグドラシルは今どこにいるんです」

 一緒の職場で仕事をしていたときには全く見せたことのない、冷徹な表情だった。岩崎の中で、何かが本能的に危険を告げていた。笑顔が強張り、消える。

「今は、夫と買い物に行っています」

 あえて行き先までは教えなかった。伝えようものなら、今すぐにそこへ向かいそうな気配が永山からは感じられた。

 岩崎の考えを見透かしたように、永山は行き先を詮索しようとはしなかった。その代わり、別の問いを投げかけた。

「いつ頃戻りますか」

「…分かりません」

 気づけば、岩崎の声は震えていた。勇気を振り絞り、一つだけ質問を返した。

「あの子に何の用があるんですか」

 NEXTとの戦いが終結してから、早くも四年が経った。当時中学生くらいの年齢だったユグドラシルも、今では高校生くらいに成長している。背も伸びたし、体つきも随分女性らしくなった。過酷な人体実験をされていたあの頃とは異なり、今では彼女は、岩崎と岸田に支えられて幸せな日々を送っている。通信制の学校にも通い始め、友達もできた。

 ユグドラシルがようやく掴んだ幸せを、岩崎は二度と手放させるつもりはなかった。

「君が知る必要はない」

 椅子から腰を上げ、永山が飛びかかってくる。あっと叫ぶ間もなく、岩崎は組み伏せられていた。懸命にもがき抵抗しようとするも、両手首を強い力で押さえつけられていて身動きが取れない。膝のすぐ下の部分を革靴で踏みつけられ、足を動かすこともできなかった。

 永山の力は異常に強く、そのことが岩崎を戦慄させた。仮に彼女が男性並みの筋力を持っていても、永山の拘束を振りほどくのは不可能だっただろう。

「永山さん、もしかしてあなたは」

 獣人形態へ変わらずとも、能力者は力の一端を使うことができる。変わり果てた永山の正体に思い当たり、岩崎は息を呑んだ。

「相変わらず、君は妙に勘がいいな。何でも見透かされてしまう」

 残忍な笑みを浮かべ、永山は真の姿を露わにした。漆黒の翼を広げ、半透明の膜に筋肉質な身体を包む。いくつもの生物の特徴を取り込んだ異形の能力者が、立ち込める白煙の中から現れる。

 恐怖に目を見開いた岩崎へ、能力者へ変身した永山が体を屈める。いつの間にか、右手には小型の注射器が握られていた。

「君が彼女の居場所を話してくれないのは、非常に残念だ。他の方法で僕の役に立ってもらうことにしよう」

 針の先端が、彼女の二の腕へと刺し込まれる。鈍い痛みに、岩崎は小さく悲鳴を上げた。注射器の中には灰色のガスに加え、薄い黄色を帯びた液体が混入されていた。

「抵抗されるのも予想済みだ。強制的に闘争本能を活性化させる薬品を混ぜてあるから、ちょっと暴れてきてもらおうかな」

 岩崎の肉体が白い煙に包まれ、とある能力者の姿へと変わる。永山の注入した薬品は早くも効力を発揮し、彼女は自我を失いかけていた。

「や、めて…やめて、下さいっ」

 覆いかぶさる永山を突き飛ばして、岩崎は立ち上がった。能力者としての筋力を手に入れた今だからこそ、可能な芸当だった。永山から逃げようと、おぼつかない足取りで部屋を飛び出して行く。

頭が割れそうなほど痛くて、絶え間ない破壊衝動が自らを飲み込もうとしていた。いつ自分自身を抑えられなくなるか、彼女にも分からなかった。けれども、それはそう遠い未来の出来事ではないように思われた。

 岩崎を暴走させるのは、彼のシナリオ通りである。永山は彼女を引き止めるような真似はせず、施設の上階から事態を傍観することに決めた。

「生憎、僕にはターゲットが帰ってくるのをのんびり待つほどの時間はないんだ。そんな暇があれば、サンプルの一つでも採取しておかないと。ついでに、政府軍にも少々ダメージを与えておきたいし」

 彼女に与えた能力を自分が吸収できれば、強力な武器となるはずだった。永山は人間態へと戻り、間もなく得られであろう新たな力を夢想してほくそ笑んだ。

 部屋を出て階段を上がる足取りは、とても軽かった。


「暇やねえ」

 二段ベッドの上に寝転んで携帯端末をいじりながら、森川はしみじみと言った。

「さすがに、お盆休みは討伐隊の訓練もないよ」

 その下側に腰掛けていた井上は、ルームメイトの方をちょっと見上げて言った。膝の上には教科書とノート、周りにはプリント類が積み重ねられている。

 彼女は今、夏休みの課題と格闘しているところである。通信制高校とはいえ、決して勉強が楽なわけではない。むしろ、教師に直接教えてもらえる機会が限られてくる分、自学自習が大切になってくる。

シーツから体を起き上がらせるときの、微かな衣擦れの音がする。相方は梯子を伝って下に降り、うーんと大きく背伸びをした。

「蓮君は雑誌のインタビューを受けに出かけてしまったし、佐伯君も両親のお墓参り。岸田さんたちは夫婦水入らずって感じやし、うちらだけ残ってしまったなあ」

「綾音は、実家には帰らないの?」

 ノートに数式を書きかけていた手を止め、渚が顔を上げる。森川は軽く首を振った。

「家の借金を全額返済するまでは、帰らんつもり」

「そうなんだ」

 森川の家庭は相当な額の借金を抱えているらしく、そのために彼女は討伐隊への加入を決めた。政府が賞金をかけているスパイダーを仕留めれば、莫大な報酬の一部を受け取ることができるからだ。

 正確に言うと、現状は以前のシステムとは異なる。討伐隊が国家公認の組織となり、政府軍と行動を共にするようになってからは、賞金制度は撤廃された。代わりに、その月に倒したスパイダーの個体数が隊員の給与に反映されることになった。

「まあ、もう大体は返し終わってるんやけど」

 一瞬の物憂げな表情を忘れさせるような笑顔で、森川が言う。

 NEXTの崩壊から四年。今やスパイダーの大半は駆逐され、残る個体数は僅かとなっている。得られる収入が今後増えるとは思われないだけに、返済のめどが立っているというのは嬉しい知らせだった。唯一無二の友人の朗報に、渚は思わず微笑んだ。

「渚は?帰省せんの?」

 森川が首を傾げる。対して渚は、困ったように笑った。

「うーん、まだ迷ってる。家出の件については二年前に和解してるけど、家の人とはぎくしゃくしたままだから」

 ちょうど、第三世代と政府軍が衝突する事件が起きている最中のことだった。彼女は討伐隊に入ってから初めて家に帰り、何か月かぶりに家族と対面した。時に怒鳴り合いの様相を呈した長い話し合いを経て、最後の最後で父母は自分の気持ちに理解を示してくれた。通信制の学校に通う条件付きで、討伐隊で活動を続けてもいいと認めてくれたのだった。

「お互い、色々と大変やね」

 二人が顔を見合わせて苦笑したとき、軍の施設内にベルの音が響き渡った。夕方五時、基本業務の終了時刻を告げる鐘である。お盆に入り、ほとんどの関係者は仕事に出ていないはずだったが、それでも律義に時間を伝えている。

 一方は課題に取り組み、もう一方はだらだらと時間を潰しているうちにこんな時刻になってしまった。さすがに、ずっと部屋にこもりきりなのは不健康だと判断したのだろう。森川はちょっとした提案をした。

「散歩にでも行かへん?」

「うん、行く!」 

 渚としても、何時間か続けて勉強して疲労が溜まりかけていた頃だった。森川の誘いは渡りに船である。

「ついでに、夕ご飯の材料も買っておこうね」

 若い娘らしく、軽く化粧をして身だしなみを整えることを忘れない。しばらくして彼女らは部屋を出た。

 向かう先は、施設の通用門である。軍か討伐隊の関係者であれば、基本的には自由に出入りすることが可能だった。


 階段を下りようとしたところで、渚はふと足を止めた。視界の隅に、知っている人物の姿が映った気がしたからだ。

「…岩崎さん?」

 振り向いて呼びかけたが、紡がれた言葉はいつしか疑問形になっていた。彼女の様子がいつもと異なっていた。苦しげに体を折り曲げ、熱い吐息を漏らして必死に呼吸を繰り返す。廊下の壁に半ばもたれかかるようにして、岩崎はよろよろと前進していた。

「大丈夫ですか⁉」

 慌てて側へ駆け寄ろうとした渚を、彼女は身振りで制した。震える手を弱々しく前に突き出し、「来るな」と伝えている。

「どうしたん?」

 引き返してきた森川がざっと状況を把握し、怪訝な表情を浮かべる。何故岩崎が助けを拒むのか、理解できなかった。

「分からない」

 一度友人の方を振り返ってから、渚は改めて岩崎へ語りかけた。

「とにかく、医務室に行って診察を受けた方が良いと思います。一緒に行きましょう」

「…違います。これは、そういう類じゃないんです」

 今や岩崎の額には、玉のような汗が浮かんでいた。自身の内側で暴れ出そうとしている強大な力を、意志の力のみで抑え込んでいる状態であった。しかし、じきに限界は訪れる。

「二人とも、私から離れて下さい」

 渚には、彼女が何を言っているのか分からなかった。それは森川も同様で、二人は戸惑い立ち尽くしていた。

「早く行って下さい。私が…また私でなくなる前に」

 刹那、岩崎の顔が苦悶に歪んだ。湧き上がる衝動が理性を捻じ曲げ、束の間かなぐり捨てさせる。痛みに唸りながら、彼女は天を仰いで吠えた。ぞっとするほど澄んだ声は、普段の岩崎友美を知っている人物なら想像しえないものだった。

 永山の投じた薬品の効果は絶大で、コマンドなど唱えなくても肉体の変化を完了させる。巻き起こった白煙が晴れた先には、かつて討伐隊と戦った能力者の姿があった。

 巨大な漆黒の羽を広げ、彼女は床から十センチほど浮かんで静止していた。一切の表情が顔から抜け落ち、ただ闘争本能に従って目の前の敵を排除しようとする。

「…セイレーン⁉そんな、何で岩崎さんが」

 信じがたい光景に唖然として、渚は知らず知らずに声を震わせていた。


「うちにも全然分からんけど」

 彼女の隣で、森川が囁く。その声音は緊張していた。

「ある程度のダメージを与えれば、岩崎さんの変身を解くことはできるはず」

 身内と戦わなければならないことに、抵抗がなかったわけではない。だが、岩崎の変貌したセイレーンは、聴く者に精神的な攻撃を加える歌声を発する。対処が遅れれば、この施設全体にまで被害が拡大しかねない。やるしかない、と渚は覚悟を決めた。

「まずは、武器だね」

 阿吽の呼吸で小さく頷き、二人は今しがた下りた階段を駆け上がった。急いで自室に戻り、部屋の奥から対スパイダー用ライフルを取り出して一丁ずつ構える。スパイダーの出現に迅速に対応できるよう、各隊員の居室には最低限必要な武器が置いてあった。

 意を決してドアを開くと、彼女らを追ってきたセイレーンがすぐ前に立っていた。

(ごめんなさい、岩崎さん。必ず助けるから)

 心の中で、銃口を向けることを詫びる。渚は森川と横並びに立ち、ほぼ同時にライフルの引き金に指を掛けた。勢いよく射出された弾丸が、能力者を狙って飛来する。スパイダーを倒すために作られたこの銃弾は、能力者に対しても十分有効なはずだった。

 しかし、相手の反応も速い。二枚の翼が岩崎の全身を包み、頑丈な盾として機能する。易々と弾丸を防いでみせ、彼女はさらに一メートルほど飛び上がった。その後も空中を少しずつ移動し続け、絶えず位置を変える。渚らが照準を合わせるのに手間取っている間に、歌で精神攻撃を仕掛けるつもりだろう。彼女らが交戦したセイレーンも、よく似た戦術をとっていた。

 夢中で引き金を引くも、セイレーンは巧みに回避し、また翼で防御する。そしてついに、彼女の赤い唇が大きく開かれた。美しく魅惑的な声が流れ出す。

(…来る!) 

 反射的に、渚は片手で耳を塞いだ。もう片方の手でライフルを握り締め、相手との距離を詰めるべく走り出す。

 けれども、その歩みはすぐに阻まれることになった。音を遮断するのは確かに効果的な作戦であったが、同時に敵に接近したことによって歌の効力が増大してしまった。結果的にはプラマイゼロに近い。

セイレーンの発する、意味をなさない単語の羅列が悪夢へと変わる。視界がぼやけ、渚は四年前と同じ幻の中に囚われた。がくりと膝を突き、心の痛みに震える。


 落書きされた机。

 気がつくと、ペンケースの中にはゴミが入れられていた。それくらいで済めばまだましな方だった。

ある日、体育の時間にミスをした渚を皆が責めた。バレーボールの授業で、上手くトスをしてボールを味方に回すことができなかったのだ。彼女のせいで自分たちのクラスは負けたんだと、さんざん非難された。心を抉るような言葉も投げかけられた。自分より多くミスをした子だって何人かいたのに、何故か彼女たちのことは誰も責めなかった。教室に居場所などなかった。

 でも、翌日はもっとひどかった。

『ねえ、ここのトイレ、ゴミを流し忘れてるみたいよ』

『ほんとだ、お掃除しなくちゃ』

 女子トイレに呼び出され、クラスメイトから執拗ないじめを受けた。水をいっぱいに入れたバケツで何回も何回も水を浴びせられ、渚は抵抗できなかった。涙を流しながら、心が壊れそうになるのを懸命に耐えた。制服はびしょ濡れになってしまって、その後の授業に出ることなんてできなかった。

 体調不良だと嘘をついて、逃げるように学校を後にした。家に帰って乾いた衣服に着替えると、張り詰めていた気持ちが一気に瓦解したようだった。自室のベッドに倒れ込み、渚は泣き崩れた。

こんな風に辛い思いをして生きていくくらいなら、いっそ死んでしまいたい。初めてそう思った。


「あえてトラウマを抉るなんて、いい趣味してるやん」

 聞き慣れた声が、渚を悪夢から呼び覚ました。はっとして目を開けると、タイルに手を突き、森川が懸命に立ち上がろうとしていた。滝のような汗を流し、顔色も悪い。それでも彼女は、戦士としてもう一度立ち上がった。

「うちにだって、忘れてしまいたい過去くらいある。それも一つやない、数えきれないくらいや。でも…」

 歯を食いしばり、銃口をセイレーンへと向ける。

「その過去を乗り越えてきたからこそ、今の自分がある。昔の自分がとった選択は間違っていたなんて、一度も思ったことないわ。過去を見せつけることしかできないあんたの力には、絶対に負けたりせえへん!」

 歌声をかき消すほどの気合を上げ、幾度となくトリガーを引く。銃弾が連射され、セイレーンの翼に次々と命中した。

 森川の言葉に奮い立たされ、渚も再び敵へと立ち向かった。まだ震えの残る体を意志の力で起こし、ライフルを構える。

 そうだ。あの出来事があったから、今の彼女自身があるのだ。

 ひどいいじめを受け、「死にたい」という願望が芽生えた。しかし、自殺を遂げるほどの勇気もなかった渚は、死に場所を求めるようにして討伐隊に入った。人々を守って散ることができたら幸せじゃないか、と思ったのだった。実際、流れ弾が当たって負傷したときには「もしかすると、自分はここで死ねるのか」と少し嬉しく感じもした。

 けれども、渚は討伐隊でかけがえのない仲間に出会えた。

『渚ちゃんは、生きていてええんよ。だって、うちらと一緒にいるこの場所が渚ちゃんの居場所やもん。辛かったやろうけど、これからは大丈夫よ』

 自分は生きていてもいいんだ、と言ってくれた森川。

『過去を変えることはできない。俺だって、父さんとのこともそうだし、塗り替えたい過去なんていくつもある。けど、俺たちには今がある。未来がある。それで十分だと、俺は思うな』

 過去ではなく未来を生きよう、と励ましてくれた蓮。過去から逃げず、徹底的に戦い抜こうとしていた佐伯。皆、大切な仲間だった。

確かに、あの高校に通っていた頃の思い出は嫌なものばかりだ。できれば、あまり回想したくはない。だが、苦痛と絶望に満ちたその過去を経なければ、今の幸せな生活はあり得ないのだ。

「私は、もう二度と過去に負けたりなんかしない」

 凛とした声音で、渚が決意を告げる。

「全てを受け入れて、乗り越えて―今を生きる!」

 放たれた銃弾は、セイレーンの黒い翼に着弾して小さな窪みを生じさせた。攻撃が効いている。これならいける、と渚は確信した。


 弾丸の嵐に晒され、さすがのセイレーンも状況が不利だと悟ったらしかった。歌による精神攻撃で相手を無力化できなかったことも、彼女にとっては誤算だったようだ。

 作戦を変更すべく、さらに高度を上げる。一旦翼を広げて渚たちの頭上を旋回し、次の瞬間に急降下してきた。同時に可能な限り羽で体をくるみ、銃弾から身を守る。

 鋼鉄に匹敵する強度を誇る、二枚の翼。それで身を覆ったセイレーンは、自分自身を弾丸のようにして突進攻撃を仕掛けた。床すれすれを飛ぶ、超低空飛行。高速で繰り出された一撃に、森川は上手く対処できなかった。

 回避が間に合わず、セイレーンの体当たりを受けて彼女の体が宙を舞う。コンクリート製の柱に頭を打ちつけ、森川はほどなくして意識を失った。ずるずると滑り落ちるようにして、タイルの上に身を横たえる。

「綾音!」

 思わず、悲痛な叫びが漏れた。セイレーンは空中で素早く方向転換し、次は渚を狙って降下してくる。

(私しかいない)

 今まで渚は、自分一人で能力者に挑んだ経験がない。いつも討伐隊の仲間が側にいて、どちらかというと彼女はサポートに回ることの方が多かった。強い力をもつ第二世代の能力者と戦う際は特に、援護に徹していた。しかし、今回は違う。

 和泉蓮も佐伯雅也も、今この場にはいない。澤田たち政府軍所属の能力者も、休暇を取っていると聞いた。

自分たちを助けてくれる能力者は、誰もいない。大親友の森川綾音も、セイレーンの攻撃を受けて気を失ってしまった。

(今戦えるのは、私しかいないんだ)

 たとえ相打ちになってでも倒す。その覚悟を胸に、渚は迫り来る敵を迎え撃った。

 セイレーンが低空飛行に入り、頑丈な翼で身を包んで体当たりを仕掛けてくる。インパクトの直前に、渚は低く床に伏せた。すぐ上を通り過ぎるセイレーン目がけて、ゼロ距離から銃弾を連射する。

 凄まじい衝撃を受け、セイレーンの細い体が大きく吹き飛ばされる。自慢の羽をもってしても、至近距離での銃撃には耐え切れなかったらしい。どうにか着地したと思われたが、ぐらりと崩れ落ちた。体が白煙に包まれ、岩崎の姿に戻る。

 やった、と安堵した次の瞬間、猛烈な痛みが体中を駆け巡った。ライフルを連射した反動がかかり、全身が麻痺してしまったかのようだった。

それでも束の間の達成感に包まれ、渚は倒れたまま力なく笑った。ひとまず、脅威は去った。


 いつの間にか、人影がすぐ近くまで迫っていた。

足音に気づき、渚は身を固くした。現れた男は軍服を着ておらず、政府軍や討伐隊の関係者ではないように見えた。彼は自分や森川には目もくれず、岩崎の方へ真っ直ぐに歩いて行った。

「思ったよりも、早く倒されてしまったな」

 意識を失って横たわる彼女を一瞥し、永山啓一は呟いた。直後、煙に包まれた彼の肉体が異形のものへと変わる。黒い翼、体を包む半透明の膜、口から覗く鋭い牙。突如現れた未知の能力者は、岩崎の方へ右腕を差し出した。

 その動きに呼応するように、永山の背から一本の触手が伸びる。先端の針が岩崎の手首を浅く刺し、彼女の血液を少量抜き取った。

「できることならば、政府軍にもう少し打撃を与えてやりたかったが…戦い慣れていない一般人であれば、このくらいが限界か」

 ふう、と一息ついて永山が独り言ちる。これからどう動いていくか、彼は今思案していた。計画では軍の施設内でセイレーンを大暴れさせ、騒ぎが落ち着いたところでその力を吸収することになっていた。しかし、予想よりも短時間で岩崎が無力化されてしまった。ひとまず彼女の血は採取したものの、このまま立ち去るというのは味気なく感じられた。

 セイレーンの異能を一般人に注入して抜き取るだけであれば、わざわざ岩崎友美をターゲットに選ぶ必要はない。永山の第一目標は、ユグドラシルの奪取。彼女を養い育てている岩崎を狙えば、何かと都合が良いと考えたのだった。

 だが、ユグドラシルは施設に不在である。いつ帰るかも分からない。

(能力者としては使い物にならなかったが、人質としてならどうだ。彼女を拉致してユグドラシルとの交換条件にすれば、多少は役に立つかもしれない)

 眠ったように倒れている岩崎へ、再び視線を向ける。ややあって、永山は考えを変えた。

(岩崎友美は、討伐隊の正式なメンバーではない。政府軍に属しているわけでもない。僕にユグドラシルの身柄を引き渡すのが危険だと判断すれば、お偉方は彼女を切り捨てかねない)

 そこまで考えて初めて、彼は「岩崎を倒したのは誰か」ということに思い当たったようだった。くるりと振り向き、渚と森川を交互に見やる。一方が気を失っていることに気がつくと、もう一方にのみ視線を向けた。

「討伐隊の若手か。ただの人間のくせに、無茶をしたものだね」

 大して興味がなさそうに吐き捨て、廊下に転がっているライフルを拾い上げる。まるで、先刻の戦いの模様全てをそれだけで察したかのようだった。思わず、渚は鳥肌が立つのを感じた。

「人質にするなら、岩崎君より君の方が都合が良い」

 無造作に狙撃銃を放り、永山は出し抜けに前へ踏み込んだ。ダン、と音が響いたかと思うと、彼は渚の眼前に迫っていた。

 本能的な恐怖を感じ、渚は逃げようとした。状況はよく分からないが、この男は自分をさらって取引の材料にするつもりなのだ。どんな酷いことをされるか、分かったものではない。痛む体に鞭打って、どうにか立ち上がる。ライフル連射の反動は相当なものだったが、走れないほどではなかった。

 しかし、踵を返して駆けだそうとしたそのとき、罪悪感に似た感情が湧き上がってきた。自分が今逃げれば、男は代わりに森川を人質にするかもしれない。大切な友人を見捨てて自分だけ助かるような真似が、できるはずがなかった。ぴたりと足が止まる。

(でも、無理だよ。勝てるわけないじゃない)

 ライフルは永山に奪われ、放り捨てられてしまった。四年間討伐隊で訓練を受けた彼女には、格闘の心得もある。だがそれを考慮しても、能力者と一対一で生身でやり合って勝算があるとは思えなかった。

 敵はすぐ後ろまで迫ってきている。そして彼から数メートルも離れていない場所には、森川が横たわっているのだ。これ以上、迷っている暇はなかった。

 はたして、勇気を振り絞って渚は振り返った。細い右手を素早く引き、懸命にパンチを繰り出す。相手の攻撃を避けることは最初から考えておらず、相打ちさえ覚悟の上だった。どうにかして敵を怯ませ、隙をついて森川を連れて離脱するつもりだった。

 もう二度と、過去を悔やんで苦しみたくない。今親友を見捨てれば、きっと一生後悔する。決意を胸に放った攻撃を、しかし永山は易々と躱した。

 上体を後ろに反らし、渚の繰り出したパンチを避ける。永山は空中に浮かんだまま回避動作を取り、同時に右膝を前へ突き出していた。翼が生んだ推進力を元に、高速でニーキックが放たれる。

 あっ、と声を上げる間もなく、渚の体は宙を舞っていた。胸部に強い衝撃を受け、一瞬意識が飛びかけた。

「やはり、ペガサスの姿勢制御は便利なものだ」

 満足そうに永山が漏らし、なすすべもなく落下する渚へと接近する。大きく広げた漆黒の翼が、彼女には悪魔の象徴のように見えた。

 永山の放つ殴打が、渚のみぞおちを正確に捉える。飛行速度を加えて威力を上げつつも、相手を吹き飛ばさない程度に威力を調節した一撃。早くもペガサスの異能を完璧に使いこなし、彼は敵の腹部の一点に衝撃を集約させた。

 声にならない悲鳴を上げて、渚は全身を震わせた。ライフル連射の反動と今のダメージで、肉体はとうに限界を迎えていた。ぐったりとしてしまった彼女を、永山が床に落ちる寸前で抱き止める。

「おっと。大事な人質に傷がついてはいけない」

 渚を抱え、蝙蝠の能力者が飛び去って行くところを目撃した者は誰もいなかった。



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