2 澤田剛の章
「プールに行きたいです!」
きっかけは、白石の唐突な提案だった。
「気が進まないですね」
今日の仕事を終え、自分たちに割り当てられた寮の部屋へと帰る途中での出来事である。松木はあからさまに顔をしかめてみせた。
「泳いだりするのはちょっと。軍の施設にいた頃、訓練の一環で遠泳をさせられたのがトラウマなんです」
「松木さん、典型的なカナヅチでしたもんね」
「べ、別に泳げないわけじゃない」
にこにこと笑って痛いところを突いてくる白石に、松木は僅かに顔を赤らめながら応じた。
「まあ、そう言うな。別に良いんじゃないか、たまには羽を休めても」
場を取りなすように言った澤田に、白石がうんうんと頷く。賛成と反対が二対一となり、多数決で負けた松木は一人絶望していた。
季節は夏真っ盛り、世間はお盆休みである。いついかなる事態が起きても対応できるよう、軍人には基本的に休みがない。だが、「さすがにお盆くらいは」と、澤田たちも数日間の休みを貰っている。
お盆休みに入れば帰省ラッシュが始まり、必然的に都心の人口が減る。そこを狙って遊びに行くというのは、理にかなったことでもある。
澤田はそこまで考えて白石に賛成したのだったが、彼女は単に遊びに行きたかっただけかもしれない。
何はともあれ、そういうわけで三人は都心のプールへ出かけて行ったのであった。
水着に着替え、シャワーを浴びる。屋内を見回してみたが、他の二人はまだ出てきていないようだった。時間を潰そうと、澤田は温水プールに身を浸した。ジャグジーのように泡が出てくる場所もあり、束の間のリフレッシュを楽しむ。
今日の彼は、ゆったりしたサイズの海パンを身につけていた。能力者の異能を発揮しなくとも、鍛え上げられた筋肉は力強く隆起している。何人かの女性客が彼を見て黄色い声を上げていたが、澤田は聞こえないふりをした。元々、色恋にはあまり興味がないのだ。
「お待たせしました!」
そこに白石も入ってくる。澤田の隣にちょこんと座り、一緒にジャグジーを楽しもうとする。何気なく彼女に視線を向けて、澤田は言葉を失った。
白石が纏っているのは、いわゆるビキニと呼ばれるタイプの水着である。それも布面積が小さいもので、かなり大胆な露出を図っていた。夏らしい真っ赤な色合いも、どこか扇情的な雰囲気を漂わせている。
「あ、あんまり見ないで下さいね」
恥ずかしそうに胸元を手で隠した彼女を見て、澤田は我に返った。失礼なことをしてしまったという自覚はある。
「すまない。何というか、いつものお前と違う感じだったんでな。つい見とれてしまった」
「見とれて…」
うっとりとした笑みを浮かべかけ、白石は慌てて真面目な表情に戻った。
「その、今日は私なりに頑張ってみたんです」
緊張した面持ちで水中を歩き、彼女は澤田のすぐ側まで近寄った。
「私、ずっと夢見てました。いつか澤田さんとこんな風に、二人でデートできたらいいなって」
太い二の腕を縋りつくように掴み、甘えた声を出す。水着越しに白石の胸が当たり、澤田は少なからず動揺していた。彼女は際立ってプロポーションが優れているわけではないものの、誤魔化せない弾力がそこにあった。思わず、どきりとしてしまう。
「白石…」
何やら危険なムードが漂い始めたとき、幸か不幸かもう一名が追いついてきた。
「いや、すみません。コンタクトをつけるのに手間取っちゃって」
言い訳じみた台詞を吐きながら、松木が小走りにやって来る。さすがに眼鏡をかけた状態では泳げないということか。黒縁眼鏡を外しコンタクトに切り替えた彼は、普段よりワイルドな雰囲気だった。目に水が入らないよう、ゴーグルも持参している。
松木に見とがめられるより前に、白石は澤田からぱっと体を離した。顔の火照りを悟られないよう、俯いたままでいる。
「案外、裸眼の方が似合うんじゃないのか。いつもよりも明るい感じに見える」
何事もなかったかのように、澤田は松木に話題を振った。
そのことが、白石には少し寂しく感じられた。思い切ってアプローチをかけてみたが、やはり手応えはなし。いつも通り、何となく受け流されてうやむやにされるだけだ。異性として見られていないのだろうか、と自信を失いそうになる。
「そうですか?似合ってます?」
彼女の心情を知るよしもなく、松木は褒められて素直に嬉しがっていた。
「―あれ?」
と、そこに、通りがかった青年が声を掛けてくる。髪を金色に染め、耳にはいくつものピアスをつけている。いかにも遊び人風の男は、しかしナンパをしたりすることが目的ではなかった。
「もしかしてお前、松木か?」
不思議そうにこちらを見つめている彼の顔を、三人は長い間見ていなかった。いや、見たくても見れるはずがなかったのだ。
そこに立っていたのは、決して忘れることがないであろう、かつての仲間だった。
「えっ?」
松木が素っ頓狂な声を上げ、信じられないというように何度も瞬きをする。
「もしかしてお前…藤宮か?」
「当たり前だろ。どうしたんだよ、幽霊でも見たような顔しちゃって」
死んだはずの男、藤宮悟は、三人の目の前であの日のようにへらへらと笑っていた。
「いや、あり得ない。お前はペガサスという能力者と戦い、命を落としたはずだ」
白石と共に一旦プールサイドに上がり、澤田はかぶりを振った。今目にしている光景は、すぐに受け入れられる類のものではなかった。
「じゃあ、俺が殺されるのを自分の目で見て確かめたことがあるのか?俺がその、ペガサスって奴にやられるところを」
しかし、藤宮と名乗った男は動じなかった。飄々とした口調には、懐かしいという感情さえ覚える。
「ペガサスは、お前を仕留めたと言っていたが」
「確かに、あいつと戦って負けたのは事実だ。けど、俺はそこでくたばるようなキャラじゃないんでね」
半信半疑の澤田に、藤宮はにっと笑いかけた。
「瀕死の重傷を負った俺を、通りがかった人が病院へ運び込んでくれた。治療には長い時間がかかったものの、無事に退院できたってわけさ」
久しぶりにその笑顔を見ることができて、白石は感激した様子だった。藤宮の話をすっかり信じ込んでいる。松木も嬉しそうだった。
どうも腑に落ちない部分はあったが、澤田も一応は調子を合わせることにした。
「なら良かった。それにしても、何故今まで連絡を寄こさなかったんだ」
「いやー、それが色々あって。ペガサスのキックを受けた衝撃で携帯は壊れちまうし、昏睡状態から覚めたらNEXTは解散されてるしで、わけが分からなくてよ」
ばつが悪そうに頭を掻く仕草を見て、松木は完全に警戒心を解いたらしかった。彼の近くへ歩み寄り、肩を軽く叩く。
「よくも心配させてくれましたね。藤宮の仇を討つために、僕と澤田さんがどれだけ必死で戦ったか見せてやりたかったですよ」
皮肉るような調子ではあったが、松木の声音は僅かに濡れていた。何といっても、四年ぶりの再会を果たしたのだ。感動もひとしおだろう。
「わ、私を忘れないで下さい!」
慌てた白石も、二人の会話に割って入る。思わず、澤田はふっと微笑んだ。
まるで、特殊部隊で過ごしたあの日々をもう一度繰り返しているかのようだった。
四人はしばらくプールサイドをぶらぶらと歩き、やがて屋外に出た。奥にはウォータースライダーも設置されており、プール内は家族連れやカップルで大いににぎわっていた。
歩いているうちに、澤田の視線は一点に吸い込まれた。
「藤宮。どうしたんだ、その傷は」
「んっ?ああ、これか」
一瞬怪訝な顔になったのち、藤宮は足を止め、自身の左脇腹を見下ろした。
「ペガサスに蹴り飛ばされたときのものっすよ。まだ跡が消えてなくて」
うっすらと赤くなっている腹部からは、戦闘の痕跡がうかがわれた。
「今日ここに来たのもリハビリというか、入院生活でなまった体をほぐすためだったんだよな。いやはや、偶然とはいえ澤田たちに会えて、最高にラッキーだったぜ」
早速泳ぎに行こうと、屋外の大規模なプールへ向かって駆け出す藤宮。その後ろ姿を見つめながら、澤田は先ほどから覚えていた違和感の正体を探ろうとしていた。
「待て、藤宮」
やっと答えが見えた。親密さを微塵も感じさせない低い声で、澤田は静かに呼びかけた。対する藤宮はくるりと振り向き、愛想笑いを浮かべた。
「プールサイドを走るなってか。お堅いねえ」
いつものおちゃらけた雰囲気はどこへやら、余裕が失われた態度であった。
「…いや、藤宮ではないな。お前は一体何者だ」
場を取り繕うとする相手を無視し、澤田は続けた。藤宮の姿をした男は、ぎこちなく笑った。
「暑さでおかしくなっちゃったんすか。俺は藤宮悟、政府軍特殊部隊の元メンバーですよ」
「そうですよ、澤田さん」
彼に加勢するように、松木も口を揃えた。
「何を根拠に、そんなことを言ってるんです。彼は間違いなく本物です」
澤田はこのやり取りの最中も、一度たりとも藤宮から目を離していなかった。その瞳は疑念と確信で満ちていた。
「あいつは、俺のことを呼び捨てにしたりはしない」
あっと息を呑んで、松木と白石は顔を見合わせた。そして、藤宮らしき男へ疑いの眼差しを向けた。
特殊部隊の隊長を務めていた澤田は、メンバーから一目置かれる存在だった。皆は尊敬の意味を込めて、彼を「澤田さん」と呼んでいた。例外は一人としていなかった。
たとえ澤田のサポート役を担う、松木や藤宮であってもだ。
「―ククッ」
藤宮とそっくりの容姿をもつ男は、体を折り曲げて愉快そうに笑った。目の縁には涙さえ浮かべている。
「外見は完全にコピーできたはずなんだけどなあ。やっぱり、口調までは真似できないか」
藤宮悟本人とは異なる、インテリ風の喋り方だった。
「ここじゃ利用客の人たちに迷惑がかかる。場所を変えよう」
言うが早いか、彼は踵を返した。さっさと水着から普段着に着替えろ、ということらしかった。
「いいだろう」
男の主張ももっともだと感じ、澤田たちは大人しく従った。
市民プールを後にし、そこから少し離れた裏路地に入る。藤宮に化けた男と澤田たち三人は、数メートルほどの距離を挟んで向かい合っていた。
「俺が何者か、って話だったよな」
口火を切ったのは、男の方だった。
「俺は藤宮猛。藤宮悟の、双子の弟だ」
なるほど、外見が似通っている理由はそれで説明がつく。澤田は小さく頷いた。
「何故兄の名前を借りて、俺たちに接近しようとした。何が狙いだ」
「簡単なことさ。復讐するためだよ」
藤宮猛は乾いた声で笑った。
「俺は幼い頃、兄と生き別れになった。俺たち一家が住んでいた村はスパイダーに襲われて、事実上壊滅した。そのとき、兄はスパイダーの攻撃から俺を庇おうとしてくれた。気がついたときには兄の姿はなく、瓦礫の山がそこら中にあるだけだった。脇腹の傷はそのときのものさ」
「そんなことが…」
藤宮は生前、あまり自分の過去を語ろうとしなかった。だがそれは、単に物心がつく前にNEXTに身柄を引き取られたからではなかったらしい。澤田は驚きをもって、猛の言葉に耳を傾けていた。
「てっきり俺は、兄は死んだものだと思った。遺体は見つからなかったけど、スパイダーに捕食されたのなら無理もないと思っていた。でもこの間、ある人が教えてくれたんだ。兄は死んでいなかったって。重傷を負っていたところをNEXTに拾われ、命を助けてもらう代わりに自分の体を実験台にすることになったって」
束の間、猛の表情が憎悪に歪んだ。
「でも、兄は殺された。NEXTの生み出した能力者と交戦し、無残な死に方をしたと聞いている」
この世の全てに絶望したような声音で、彼は感情を剥き出しにして叫んだ。
「どうしてだ。何でお前たちは、兄を守ってやれなかったんだ。同じ部隊の仲間だったんじゃないのか」
「…藤宮悟を亡くしたことは、俺の一生の傷だ」
不気味なほど落ち着いた態度で、ゆっくりと澤田が応じる。
「あのときは、特殊部隊が急遽解散された直後だった。俺たちは思い思いに新生活を始めようとしていて、皆慌ただしい日々を送っていた。自分のことで手一杯だったんだ。余裕ができてから奴と連絡を取ろうともしたが、遅すぎた。今も後悔しているよ」
「随分と陳腐な言い訳じゃないか」
澤田の言葉を鼻で笑い、藤宮猛はシャツの袖から小型注射器を取り出した。一思いに針を動脈に突き刺し、グレーに濁ったガスを体内に注入する。
「その罪は、地獄で償ってもらおう」
能力解放、と口の中で呟く。猛の肉体を白煙が包み、それを切り裂くようにして狼の能力者が姿を現した。灰色の皮膚、高く突き出した鼻、口から覗く鋭利な牙。かつて藤宮が変身していたものと、全く同じ姿だった。
「何っ⁉」
意表を突かれ、さすがの澤田も動揺を見せた。自分たちが能力者であると知った上で近づいて来たのだから、何らかの対抗手段を有しているのだろうとは思っていた。対能力者用の装備を持っている可能性も考えていた。しかし、変身能力を使ってくるのは想定外だ。
それに、今しがた藤宮が使った器具は何なのだ。自分の知る限りでは、能力者の力を得るためにあんな手段が用いられるなど聞いたことがない。
「さあ、お前たちも変身してかかってくるんだ」
狼の能力者は、挑発するように三人を見回した。
「舐められたものだな。三体一の状況で、素人が俺たちを相手に勝てると思ったら大間違いだ」
一歩前に出ようとした澤田を、松木が手で押し止める。その体は、激しい怒りで熱く燃えていた。プールを出てもコンタクトは外しておらず、鋭い眼光が強調される結果となっている。
「こんな奴、澤田さんの手を煩わせるまでもない。僕一人で十分です」
ずんずんと歩き出し、藤宮との距離を縮めていく。途中から小走りに、やがては猛ダッシュへと転じて速度を飛躍的に上げていく。全身全霊で走りながら、松木はコマンドを叫んでいた。
「『能力解放』!」
灰色の硬質な皮膚で全身が覆われ、額からは一本の角が伸びる。サイの能力者の最大の特性は、巨体を活かした高速突進である。攻撃の軌道がほぼ直線に限定されるという弱点はあるが、狭い一本道になっているこの裏通りならば関係ない。瞬時に藤宮の間合いに入り、松木は右腕を振り上げた。疾走の勢いを加えた殴打を浴びせ、一撃で無力化するつもりだった。
「僕たちの絆を利用して近づくなど、いかなる理由があろうと許さない」
対峙する藤宮は、驚愕に目を見開いて硬直していた。彼の能力も敏捷性が高い方ではあるが、瞬間的な移動速度では松木に劣る。狼の能力者は、完全に反応が遅れていた。今のままでは、ガードはともかく回避は絶対に間に合わない。
「笑っちゃいますよね。僕はあなたに会ったとき、あいつが帰ってきたんだと信じて疑わなかったんですから!」
悲しみと皮肉を滲ませた台詞を吐き、松木の拳が藤宮の顔面へと迫った。
その一撃を避けようともせず、彼は意外な行動に出た。両腕で上半身を庇うようにし、うずくまる。体を小刻みに震わせ、言葉の端々から恐怖を匂わせる。
「た、助けてくれ」
松木の動きがぴたりと止まる。彼我の距離は紙一重で、あと数センチ遠くへ腕を振るえば渾身のパンチは命中していたはずだった。けれども、松木にはそれができなかった。
「もう一度殺されるなんて、嫌だ」
情けない悲鳴を漏らす狼の能力者を前に、松木は攻撃を続行することができなかった。かぶりを振り、もう一度殴りかかろうとする。しかし体は言うことを聞かず、痙攣したように腕が震えるばかりだった。
「やっぱり、できるわけないよなあ」
ゆらり、と藤宮が立ち上がる。顔には、彼の兄とそっくりの残忍な微笑みを浮かべている。
「仲間と同じ顔をした奴を殴るなんて、できるわけないよなあ!」
あはは、と笑いながら、藤宮は松木の頬を容赦なく殴り飛ばした。よろめいた彼をさらに数回殴りつけ、胸部に回し蹴りを浴びせて怯ませる。防御姿勢もろくにとらず、松木は今や一方的に攻撃を受けていた。
ふと顔をしかめ、藤宮が自分の拳へ視線を落とす。指の関節の辺りが、微かに赤くなっていた。
「硬いんだよ、お前は」
そう吐き捨て、空中に身を踊らせる。勢いよく飛びかかった藤宮は、自慢の牙を松木の首筋へと突き立てた。頑丈な皮膚を牙が貫き、アスファルトに鮮血を滴らせる。松木は呻き声を上げ、手足をめちゃくちゃに振り回した。だが、抵抗する力は弱い。藤宮に殺されることを受け入れているかのようだった。
「じゃあな。天国で俺の兄が待ってるぜ」
止めとばかり、さらに深く牙を突き刺そうとした藤宮の顔面を、力強い拳が殴り飛ばした。彼を攻撃した大きな影が、立ち込める白い煙の中から姿を現す。
茶色の体毛。隆起した逞しい筋肉。熊の能力者は後ろを振り向き、仲間へと伝える。
「ここは俺が引き受ける。松木を病院へ運んでやってくれ」
「…は、はいっ」
あまりのことにパニックに陥りかけていた白石だったが、澤田の声に我に返った。白く長い耳が特徴的なウサギの能力者の姿に変わると、倒れた松木を背負って跳びはねていく。
彼女らが安全にこの場から離脱したのを確認すると、澤田は倒すべき敵へと向き直った。
「お前に、俺が倒せるのかよ」
路面に叩きつけられた衝撃から回復し、藤宮がむくりと身を起こす。
「倒せるさ」
彼を睨む澤田の目は、闘志に燃えていた。
「お前はあいつとは違う。あいつは、お前のような卑劣な戦い方はしない。藤宮悟は、自分が信じた正義のために戦うことができる男だった」
猛々しい咆哮を上げ、熊の能力者はアスファルトを蹴って突進した。
右、左と連続で繰り出される、強烈な殴打。澤田の猛攻を躱すことができず、狼の能力者は無様に吹き飛ばされた。民家の外壁に体を打ちつけ、荒い呼吸を整える。
「諦めろ。お前では俺には勝てん」
「言ってくれるなあ」
対峙する澤田に、藤宮は苛立ち混じりに言い返した。しかしそれは、虚勢の意味合いが強かった。
「これ以上の戦いは無意味だ。それに、お前の兄の死の直接的な原因をつくったのは俺たちではない。仇を討ちたいのなら、NEXTの関係者に会って―」
問いただしてみてはどうだ、と言いかけて、澤田は反射的に後ろに飛び退いた。例えようもない、凄まじい殺気を感じたからだった。
「外したか」
さほど残念でもなさそうに、現れた謎の能力者が呟く。彼は今までアパートの屋上から戦いの成り行きを見守っており、突如として澤田に襲いかかったのだった。先刻まで澤田の立っていた空間を、毒針を有する一本の触手が貫いている。
触手は徐々に縮んでいき、男の背中へと吸い込まれていった。改めて乱入者を見て、澤田は少なからず戸惑った。蝙蝠のような翼をそなえる一方で、全身を包むのは軟質で半透明の膜。一体どのような生物の異能を使っているのか、見当がつかない。
(いや、違う。一種類の力ではない)
その姿には既視感があった。
(第二世代と同様に、複数の動物の力を併用して使っているのか)
警戒して身構える澤田をよそに、男はアパートから飛び降りた。翼を広げることでパラシュート代わりにし、着地時の衝撃を緩和する。
「君の力を奪ってこの場を収めるのが、一番理想的ではあったんだが。やはり現時点での僕の力では、第一世代を圧倒するとまではいかないようだ。もっと力を吸収する必要がある」
そう独り言ち、男は今度は藤宮へと触手を伸ばした。抵抗する間もなく、腕に刺さった針から彼の血液が抜き取られる。同時に藤宮は変身能力を失い、空気が揺らいだかと思うと人間の姿へと戻っていた。狼の能力者の面影はどこにもない。
「話が違うんじゃないかな。俺はまだ、復讐を果たしていない」
不満そうな声を上げた藤宮は、どうやらこの奇妙な能力者と知り合いのようだった。
「別に、約束を反故にするわけじゃない。君にもっと強い能力を授けに来たんだ。彼に対抗するのなら、これが良さそうだと思うな」
男は懐から新しい注射器を取り出してみせ、素っ気なく放った。嬉しそうな表情を浮かべ、藤宮がそれを受け取る。
「恩に着るよ」
再び、灰色のガスを肉体へ注入する。その途端、彼の背から猛禽類に似た大きな翼が生えた。両足の筋肉が尋常ではなく発達し、脚力が引き上げられる。
「…今度は、ペガサスと同じ力と来たか」
忌々しげに漏らし、澤田は再度戦闘にそなえ、構えを取った。狼の次はペガサス。澤田にとって、最も因縁の深い能力者である。偶然にしては皮肉すぎた。
いや、偶然ではないのかもしれない。蝙蝠の翼をもった男は、澤田のことをある程度知っているように見えた。
どうしてあの男と同一の力を再現できたのか、原理的なことは分からない。ともかく、今は目の前の敵を倒す。それから謎の能力者をも拘束し、洗いざらい吐かせるだけだ。
宿敵と同じ姿をした相手へ、澤田は唸り声を上げて向かって行った。
ペガサスの力を得た藤宮が翼を広げ、高く舞い上がる。空中で身を捻り、蹴りの姿勢をとったかと思うと一気に急降下してくる。
勢いよく繰り出されたキックを、澤田は横に転がって躱した。すぐさま顔を上げ、敵の現在位置を補足する。ペガサスは絶妙な姿勢制御を行い、地面に足先を着けぬまま宙で静止していた。息つく間を与えず、方向転換してこちらへ突っ込んでくる。今度の攻撃パターンは、真っ直ぐ前に突き出すような膝蹴り。
「相手が悪かったな。お前の能力と戦い方を、俺は四年前から知っている」
静かに言い、澤田は拳を握り締めた。ペガサスのニーキックが命中する寸前で、熊の能力者が動く。敵の側方へ回り込んで攻撃を回避し、すかさず振り上げた左拳を腹部へ叩き込む。凄まじい衝撃を受け、藤宮はくぐもった呻き声を上げて吹き飛ばされた。
よろめきながらも立ち上がろうとするペガサスの能力者を睨み、澤田はアスファルトを強く蹴り飛ばした。
「ま、待ってくれ」
今や、藤宮猛は劣勢を認めていた。自分の力ではこの男には敵わないと、畏怖と賞賛をもって感じていた。迫りくる熊の能力者の動揺を誘うべく、最後のあがきを試みる。首筋を嫌な汗が流れた。
「俺なら、死んだ兄の代わりになることができる。お前たちの四年間の空白を埋めることができるんだぞ。利用価値のある相手を屠るほど、お前は愚かじゃないはずだ」
「笑わせるな」
はたして、彼は取引には応じなかった。前方へ跳んだ澤田は両足を揃え、渾身の力を込めたドロップキックを放った。
「お前はペガサスでも、ましてや藤宮悟でもない。お前にあいつの代わりは務まらない!」
強烈な蹴りを胸に喰らい、猛の体が宙を舞う。民家の外壁に背中から叩きつけられ、彼は力なく倒れ込んだ。
藤宮猛が完全に意識を失ったのを確認して、謎の男は舌打ちした。
「使えないな」
そしてクラゲに似た触手を背から伸ばし、再度彼の皮膚へと突き刺す。ペガサスの異能が抜き取られ、猛は瞬く間に人間の姿へ戻った。一方で、男の肉体はさらなる進化を遂げる。脚部の筋肉が発達し、蝙蝠の翼はより強靭なものとなった。一度羽ばたくごとに風が巻き起こり、翼は以前よりも厚く硬く変化している。
「まあ、良しとしよう。サイの能力者の無力化には成功したし、狼とペガサスの力も吸収できた。最低限のタスクは果たされたわけだ」
翼を広げて飛び立とうとした男を逃がすまいと、澤田は疾駆した。進行方向へ回り込み、両腕を体の前で構える。
「貴様、一体何者だ」
「…答える義理はない」
言うが早いか、男はほとんど垂直に飛翔した。それと同時に、澤田も跳び上がる。建物の壁を這う水道管を手で掴み、そこを足掛かりにしてもう一度跳ぶ。素早く二段階のジャンプを経ることによって、瞬間的に謎の能力者と同じくらいの高度まで上がることができた。
懸命に腕を伸ばし、相手の体を掴もうとする。少しでも接触することができれば、澤田自身の体重で地上へ引きずりおろすつもりだった。藤宮猛に力を与え、手駒として利用したこの男の素性を聞き出すまでは、決して諦める気はなかった。
「いい加減にしつこいんだよ、君は」
熊の能力者が接近してきたことについて、男は特に意外感を見せなかった。ただうんざりした表情だけを浮かべ、口を小さく開いた。刹那、澤田は脳の奥に響いてくるような激しい頭痛に襲われた。伸ばしかけた手を引っ込め、防衛本能に従って腕で頭を押さえる。それでも激痛は薄れず、澤田の顔が苦悶に歪んだ。
そうしているうちに、タイムリミットは訪れる。重力に逆らえず、能力者の体はゆっくりと地上へ落ちていった。痛みに襲われていたせいで満足に受け身を取ることもできず、澤田は痺れるような衝撃に呻吟した。
蝙蝠に特有の能力、超音波である。口から不可視の音波を発することで相手の平衡感覚を狂わせ、隙をつくる。先刻のように至近距離から放った場合、通常よりも大きなダメージを与えることも可能になる。数種類の能力者の力を取り込んだことにより、男の使う超音波の威力は本来のもの以上に強化されていた。
今ならば、あの能力者の力をも奪えるチャンスかもしれない。ふらふらとした足取りで撤退を図る澤田の姿が、眼下にとらえられた。
(いや、やめておこう。彼の力を奪うのは、このタイミングでなくとも構わない。時期が来てから行った方がリスクは小さいし、僕には他にやることがある)
だが考え直し、男は熊の能力者から視線を外した。ぐんと高度を上げ、速やかにこの場を離れる。計画にとって最重要となる、次のステップへ移行する必要があった。
「僕が一体何者か…ね」
澤田に投げかけられた問いをふと思い出し、大空を飛行しながら彼は独り言ちた。
「強いて言うなら、もうすぐこの世界を統べることになる者かな」