ミルフィオリ 〜ひとつ屋根の下の王子〜
饕餮様主催の『言葉選び企画』に参加しております。
花リスト⇒向日葵
その他リスト⇒青空、珈琲、鍵盤、チョコレート
えー、急いで仕上げたので、けっこう粗いです。でも長い。
寛大な暇人の方、よければお付き合い下さい。
それは、いつもの。
たった独りで過ごす、なんの替わり映えもしない1日。
………で、あるはずの日、だった。
夢を見ているんだろうかと思った。
いや、そうであって欲しいと切実に思った。
残念ながら寝起きも寝入りもすこぶる良いほうで、物心ついた頃から寝ぼけたことなど一度もないのだけれど。
引っ越してきたばかりの、2LDK防音設備付き賃貸マンションである。
ついでに言うと、リビングにはグランドピアノも付いている。実に豪勢だが、単に前の住人が置いていって音信不通になり、処分に困って残されたままなのだ。
それを聞きつけた兄が、「妹が弾くから」とピアノごと部屋を借り受けた。持ち前の交渉術と人懐こさを駆使しさらに値切って格安の家賃で、である。
そのことに感謝こそすれ文句はない。
たとえ一緒に住むはずだった兄が引っ越しの手伝いをまったくしてくれなくても。それどころか仕事で海外に行ったきり音信不通で帰って来なくても。
だがしかし、である。
そのグランドピアノが鎮座ましますリビングに、砂漠までオプションで出現する物件だなんて聞いてない。
リビングに熱風が吹き荒れ砂まみれになるなんて、聞いてないのだ。
まして。
「みなと! うあああ、本当に湊だ‼!」
室内なのに明らかに外である砂の海から、実の兄・満が妹の名前を、懐かしい声で嬉しそうに呼ばわるなんて。
「……お兄ちゃん、そこに居たの」
つい顔をしかめてしまったのは、ギラギラの太陽が寝起きの目に染みたからと、吹き込んでくる砂と埃が目に入りそうになったから。そして目の前に突然現れたソレが本当に兄なのか疑っていたからなのだが、相手には怒っていると思われたらしい。
「み、みなと。その、ごめん」
「何が」
「帰れなくて。それで、まだ帰れないんだ」
目と鼻の先にいるように見えるのに、そんなことを言う。
「それで、さらにごめん」
言うが早いか、砂漠側から何か黒い大きな物体がぽいっと放り込まれた。
フローリングの床に響くのは、どさりという鈍い音と低い呻き声。
直後、砂と埃に汚れた黒い塊――いや、人が、がばりと起き上がった。
「ふざけるな! おれは納得していない‼」
砂漠の側に立つ兄と、同じような外套に身を包む数人をにらみつけながら。
しかし戻せ、返せと近所迷惑なほど通りの良い怒鳴り声は、向こう側の人々によってあっさりと無視される。
「湊に頼みごとがあるんだ。そこの彼を匿ってやって」
「は?」
両手のひらをぱんと合わせて、「ごめんお願い」と満は繰り返す。
「詳しく話してる暇がないんだけど……。ちょっと事情があって、彼は命を狙われているんだ。彼らはおれの恩人だし、大切な仲間だし、助けたい。ちょっとの間だけだから、彼を預かって。大丈夫、ちゃんと引き取りにくるから」
「あの、ちょっと」
「ああ、その場所は追っ手も来ないし安心だよ。じゃなきゃ湊のところに送らないよ。彼は王子様だけど、ぜんぜん気を遣わなくていいから」
「へ?」
さらりと聞き捨てならないことを言われた気がする。
「だから、なぜおれ一人だけ……っ」
「命まで狙われてるのがお前だけだからだろ、ジオ」
分かりきった事を聞くな、と呆れたように向こう側の誰かが言った。
「お前さえいなけりゃこっちはなんとか収められるんだよ」
「何事も勉強ですよ、王子。ミチルの世界を見てみたいと言っていたではないですか」
「だいたいすぐに戻せとか、無理だし。さすがのオレでも、ちょっと休まないとキツイって」
「だから、それが余計だと……っ!」
向こう側の誰かに、掴みかかろうとしたのか。あるいは戻りたかっただけか。
砂漠の世界に勢いよく身を乗り出した“王子”は、しかし勢いよく何かにがん、とぶつかり額を押さえてうずくまった。
砂漠がなければ、そこは確かリビングのグランドピアノが居座る場所である。あのやたら大きく重たい木の塊に当たったのだとしたら、かなり痛いに違いない。
風も砂埃も人でさえ向こう側からやってくるというのに、こちらから向こう側へ行くことは出来ないようだった。
「余計なことじゃないよ。分かっているだろう?」
「………」
随分と気安い口調で、聞き分けのない子供を諭すように満が言う。
ぐ、と相手が黙り込めば、彼はそれから視線を妹へと移す。申し訳なさそうに。
「そういうわけだから。お願い、湊」
「返品不可なんだから、断れるわけないじゃない」
「うぐ。そ、それもそうか……」
わざとらしくのけ反った兄を冷ややかに見つめて、湊はため息混じりに頷いた。
「……お兄ちゃんも、気を付けてね」
「み、みなと……っ」
たったひと言で感動したらしい兄はいっしゅん両眼をうるっとにじませたが、すぐに顔を引き締めた。
「なるべく早く、引き取るから。―――いいね? 王子」
「………」
いまだ不服そうな“王子”からは返答がない。だが噛みつきもしない。
いちおう、理解はしているのだろう。こちら側に居ては自分でどうにもできないと。
「それから、王子。うちの妹泣かしたらただじゃおかないから」
「……お兄ちゃん?」
時間切れらしい。映像の様な砂漠の世界が、兄ごと薄れて消えていく。
そして完全に消えるまで、兄は「異世界間恋愛なんて、おにいちゃんは認めません!」と叫んでいた。
無駄に心配性の兄のほうが心配である。
王子様にだって選ぶ権利くらいあるだろうに。むしろそうして言い捨てられ取り残された湊が気まずい思いをしなければならないのだと、どうして気付かない。
こうして湊は異世界の王子様をひとり、一時預かることになったのだ。
☆ ☆ ☆
桐方湊の目の前には“王子”がいた。
正確には“王子”と呼ばれていた人が。たぶん、人だろう。
砂埃で薄汚れた黒っぽい外套を頭からすっぽりと被った、いまだに顔かたちもよくわからない怪しさ満点の風体。うずくまっているので、身体の大きさもいまいちよく分からない。
世間一般の王子様とは、もうちょっとこう、小ぎれいなものではないだろうか。
少なくとも、王子だろうと何だろうと、他人の家に突然押しかけていい格好ではないような気がする。
本人も突然押しかける気はなかったようだが。
「あの、王子サマ?」
呼びかけに、返事はない。
あれほど威勢よく喚いていたのに、今はグランドピアノの側に力なく座り込んだまま。ぴくりとも動かず、物言わぬ黒い塊と化している。
まあ、こんな場所に放り込まれ置いて行かれたのだ。いろいろと落ち込んでいるのだろうとは思う。
しかしフローリングの床は冷えるのだ。今までエアコン以上の熱風が吹き込んでいたのでそれほど寒くはないが、せめてカーペットの上にでも移動してもらいたい。
いきなり暑く乾いた場所から春真っ盛りの日本へと来て、環境の変化に身体を壊しでもしたら大変である。
一方的とはいえ兄の満から任された以上、湊はそれなりに王子の面倒を見るつもりでいた。
それに、兄の“お客様”を迎えるのはこれが初めてではない。
ぴくりとも動かない様子に、そう言えば頭ぶつけてたなと少し心配になる。
「これ、使って下さい」
冷蔵庫の中にかろうじてあった小さな保冷材をハンカチにくるんで差し出す。
ゆるゆると顔を上げた彼は、ようやく湊の存在に気付いたとでも言いたげに黒っぽく見える双眸を見開いた。
「頭、ぶつけたところを冷やしたほうがいいかと思って」
「………ありがとう。済まない」
王子は、大人しく保冷剤を受け取る。
ひやりとした感触に、少しばかり驚いたようだ。
「他に怪我とかしてないですか? 命を狙われているって言ってましたけど」
「いや大丈夫だ。護衛のあいつらがいて、滅多なことにはならない」
それなら、なぜ王子はここに放り込まれたのだろうか。
湊が首をかしげていると、やがて王子はまた顔を伏せてしまった。どことなく、気まずげに。
「その、驚いただろう」
「………はあ」
「煩くしてすまなかった。申し訳ないがしばらくここに置いて欲しい。ミチルが言った通り、もちろん気遣いは無用だ」
その殊勝な言葉といい落ち着いた声音といい、少し意外だった。
先ほどのやり取りでは聞き分けのない横暴ワガママ王子様にも思えたので、少しばかりほっとする。これなら何とか乗り切れるかもしれない。
いくら防音設備付きの物件とはいえ、またさっきのように騒がれては困るのだ。
「引っ越ししたばかりで片付いてないんですけど、気楽にしてて下さい」
「……感謝する」
「うちの兄のお友達が訪ねてくるのは、慣れてますから」
ようやくちらりと笑ったらしい王子様に、湊も内心でほっとため息をついた。
兄・桐方満は、国内外を問わずあちこち飛び回るカメラマンである。
社交性に長けていて妙に人懐こく、初対面であっても、相手が誰であっても物怖じすることなくすぐに打ち解けてしまう。また根っからのお兄ちゃん気質で面倒見が良く、お人よしで困っている人は放っておけない。
これだけならすぐにでも詐欺に引っかかるか犯罪に巻き込まれそうだが、悪意のある人間や物事には勘が働くのか単にやたら運がいいのか、湊の知る限りでは世界のどこへ出かけても平穏無事に過ごせる特技の持ち主であった。
そんな兄は、行く先々でいろんな友達を作ってはときに家へ招く。
さすがに異世界まで足を延ばしていて、そこからお友達を寄越してくるのは初めてだったが。連絡なんか取れないはずである。
「ええと、これから朝食なんですけど。あなたも食べますか?」
「いや、気にするな。大丈夫だ」
ぐう。
王子が「大丈夫」と言ったあたりで、くぐもった音が聞こえた。
「………っ」
「……………」
ぐうう。
気まずい沈黙の中、今度はもう少し大きな音が響く。
存在を無視するな、と言わんばかりに。
聞き間違いでなければ、あれはおそらくお腹の音だろう。異世界の王子様の体内に腹の虫が生息していればの話だが。
黒い肩がさらに丸まったように見えるのは、手でお腹を押さえたからに違いない。
「お腹、空いてますよね?」
「………」
あちらの世界の時間までは分からないが、あの砂の海の中、切羽詰まった状況でまともな食事など出来なかっただろうと予想はつく。
「……とりあえず、準備しますので」
「っ、余計な気遣いは―――」
「私だって食べるんです」
「………」
遠慮しているのか、警戒しているのか。
どのみち三食きっちり食べる派の湊は、王子様に付き合って空腹を我慢する気はない。
「食べたくなかったら、無理にとは言いません。せめて身体は休めて下さいね」
促せば、王子は大人しくピアノと反対方向にある絨毯の上に移動した。
テレビの前。大きなローソファとテーブルが置かれた場所である。
ソファの背もたれに寄りかかり、王子がふっと息をつく。
それを見て湊もほっと小さく息を吐きだした。
☆ ☆ ☆
朝ご飯、といっても出せるのは晩ご飯の残りがほとんどだ。
今日買い出しに行こうと思っていたので、食材は空っぽに近い。
………行けるんだろうか、買い物。
湊は、キッチンのカウンター越しにソファーの上の黒い塊をちらりと確認する。
相変わらず、異世界から来た王子様はそこにいた。
「食べられそうなら、どうぞ」
黒い塊の前にもことことと置いた朝食は、純和風の献立だった。
冷凍保存しようと多めに炊いた五目炊き込みご飯に、豆腐とほうれん草の味噌汁。卵が残っていたので焼いただしまき卵。そしてりんごである。
わざわざだしまき卵を作ったのは、男の人ならもう少し量があった方がいいかなと配慮したのと、焼く香ばしい匂いにつられて食べてくれないかなという思惑があったからだ。最後の果物は、それでも彼が食べられなかったときのためのダメ押しである。
作戦通りなのか単に物珍しいのか、王子様はだしまき卵を作り始めたあたりでちらちらとこちらを窺いだした。控えめにだが、黒い塊がそわそわもそもそ動いているのがちょっと面白い。
気になるくせにただ料理をじっと見つめるだけの王子を眺めながら、湊も「失礼しますね」と斜め向かいに腰を下ろした。L字に並べられたローソファに座ろうと思うと、どうしてもその位置になる。
「これは何なのだ」
王子様がのたまった。素っ気ないが、怒っているような雰囲気ではない。
湊は自分の前にある皿を指さしながら、答えた。
「炊き込みご飯と、味噌汁と、だしまき卵と、果物のりんごです。夕食の残りしかないので、申し訳ないですが。あ、そういえばお箸使えますか?」
「たきこみごはん……これが」
王子様はじーっと炊き込みご飯を観察している様子だ。
残念ながらどれだけ見ても変化はしないし飛び出しても来ない。食べないと冷めちゃいますよ、ととりあえず声をかけておく。
そしてぱく、と先に口に入れる。
「お口に合うかどうかは分かりませんけど、毒は入ってませんよ?」
「そ、そういうつもりでは……っ」
さすが命を狙われている王子様。もしかして本当に毒を盛られたこともあるのだろうか。
冗談で言ったつもりだったのに、本気で慌てられた。
そして慌てた勢いのまま、自分の前に置かれた茶碗を持つと炊き込みご飯をぱくんと口に入れた。
すぐに飲み込むのかと思いきや。意外にももぐ、もぐ、と確かめるように口を動かしてしばらく。
「………おいしい」
「はい?」
口の中に米粒を詰めたまま、くぐもった呟きを漏らしたかと思えば、彼はそれまでの遠慮が嘘のようにぱくぱくと目の前の朝食を食べだした。
邪魔になったのだろう、黒く分厚い外套のフードを、ぱっと後ろに払いやる。
「ミチルが、いつも言っていたのだ」
声域は、テノールとバリトンの間。少しかすれているのに不思議とよく通る。
現れた肌は、うっすらと褐色を帯びた象牙色。
硬そうな黒髪は後ろだけ胸元まで伸び、肩のあたりですっきりとまとめられ。
好奇心できらきらと輝く双眸は、黒ではなく深い深い森、あるいは澄んだ水底の暗緑色だった。
―――あ、なんか普通の人間だなあ。
ずずっと味噌汁をすすりながら、湊は内心でほっとした。
ようやくはっきりと拝めた王子様の姿は、それなりに整った顔立ちや神秘的な瞳の色、素人目でも分かる精緻な金細工の髪留めや耳飾りは目を引くが、基本が人間離れしているわけではない。目も鼻も口も耳の数も、配置だって一緒だ。
意外にも箸使いがしっかりしているせいだろうか。山吹色のだしまき卵を幸せそうにほおばっても、それほどの違和感もなかった。
「妹の作った料理が食べたいと。“たきこみごはん”と“おみそしる”と“だしまきたまご”。ミチルの話していた通りだ。ミチルのいないところで自分だけというのが申し訳ない」
「………」
なぜ昨晩、そして今朝の献立とほぼぴったりなのか。
いっしゅんぎくりとしたが、そう言えば兄の大好物ばかりだった。湊も好きだが。
彼女はどちらかといえば和食を作ることが多く、また得意でもあった。
理由は簡単。仕事で人里離れた奥地や海外にいることが多い兄が、帰ってくればやたらと和食を食べたがるからだ。それも、外食や出来合いの総菜などではなく妹の手料理が食べたいと駄々をこねる。
音信不通の期間を考えれば、いつも持ち歩くチョコレートと梅干と塩昆布ももう底を尽いている頃だろう。異世界でそれらが補充できるかどうかは謎だ。
「そもそも、うちの兄はどうしてそちらにお邪魔してるんでしょうか」
あまりに視線が痛いので、自分の分のだしまき卵を王子様に献上する。
それをもくもくと租借しながら、彼は答えた。
「なぜ我々のいる世界に来たか、はわからない。ミチルもよく分からないと言っていた。おそらく、たまたま出来た“道”を通ってしまったのだろう。おれは、砂の海に埋もれかけていたミチルを助けただけだ」
「埋もれ……」
「あるいは、砂が彼を運んできたのかもしれない」
あちらの世界は、異なる世界からの客人は珍しくないのだという。
客人は大切にせよ、という絶対の掟があるらしく、王族でもある彼は自ら満を保護した。
満が彼らのことを“恩人”と言っていたのは、おそらくそういうことだろう。
王子の箸がためらいがちに、止まる。
「すまない。ミチルをこちらに帰さねばならないのに」
「帰って来ないのは慣れてるので」
湊は、努めて何でもない事のように言った。
「元気でいるならそれでいいですよ」
実際、王子様がそれほど気にすることでもないと思うのだ。
昔から満はそうだ。
本能のまま気の向くまま、気が付けばふらりとどこかへ行っていて、妹の湊が生まれる前はしょっちゅう迷子になって両親を困らせていたらしい。兄になってからは妹に鬱陶しいほどべったりで、それはそれで困ったものだったが。
それでも彼が、よく広く青い空を見つめていたのを覚えている。そのまま、いつか翼が生えて飛んで行きそうだった。
写真家としてあちこち撮影に出かけるようになってからは、まさしく世界中を飛び回っていた。満足のいくものが撮れるまで帰って来ないので、予定などあってないようなものである。
何がなんでも帰りたい、という意志は、さきほどの満からは感じられなかった。
兄のほうも王子らが気に入っているのだろう。
「王子さまは、どうやってここへ来れたんですか?」
「“道”を作った」
「みち、って……兄も通ったとかいう?」
「それは偶発的に出来た自然災害のようなもの。どこに出るかわからない。おれが通ったのは……通らされたのは、人為的なものだ」
「……はあ」
「目的地、いや目的物をあちらとこちらに設定して、瞬間的に空間をゆがめ、繋げる」
「…………はあ」
わかったような、わからないような。
そもそも「作った」と簡単に言ってくれるが、“道”とやらはそんな簡単に作れるものなのか。
首をかしげる湊を見て、王子は黒い外套の内側から何かを取り出した。
「これは、おまえが作った物なのだろう?」
ミチルから借りたものだ、と彼は言った。
それは、小さなガラス細工。
長方形の台座に水色と、黄色と緑。丸いビーズの様なガラスを組み合わせて模様を作り、熱しくっつけたものだ。上から透明な薄ガラスをかぶせてあり、水底に花が沈んでいるようにも見える。
ミルフィオリ、と呼ばれるものである。
それは確かに、いつか友達と一緒に参加したガラス細工の体験制作で湊が作ったものだった。金具を付けてペンダントヘッドにし、兄にプレゼントしたのだ。彼は鞄につけていたはずだ。
「これをもとにおまえを探し、おまえのいるこの世界を探し当てて繋げた」
「はあ」
「帰りはおれを標にして“道”を作るはずだ。この世界の位置さえわかれば、あいつなら今度はいつでも“道”が作れる」
「……はあ」
あいつというのは、砂漠の中に立っていた人々のうちの一人なんだろうか。
そんなことをぼんやりと思っていれば、王子様が眉をひそめる。
「おまえ、生返事ばかりだな」
「はあ。ごめんなさい」
正直、いまだに実感がない。
いきなりリビングに砂漠が出現し、そこから音信不通だった兄が手を振ったかと思えば明らかに異国風の黒い塊が転がり込んできて、黒い塊は異世界の王子様で、いまはその王子様が目の前でしゃくしゃくとリンゴを口いっぱいに頬張っているとか。しかもそれらの出来事が、ちっぽけなガラス細工の素人作品によって引き起こされたのだとしたら。これのどこに現実感があるというのだ。
王子様のご尊顔は、さらに険しいものになった。
「怒っているのか? それならはっきり言ってくれないか」
「困ってはいますけど……。あなたに文句言ったって仕方ないじゃないですか。王子さまも不本意そうだったし」
「それは、そうだが」
「あなたの事はよくわかりませんが……」
責められたいのだろうか、この王子様は。変な人だ。
いまだに少し不満げな王子を見て、湊は少し考えてから口を開いた。
「卑屈になる必要はないですよ」
「ひくつ……」
「兄がここへ連れてきたのなら、あなたは兄の大切なお客様です。あなたが何を思っていようと、それは変わらない」
ふと、王子が顔を上げて湊を見る。
「異世界へようこそ王子さま。まあ、こんな急に来られても何のおもてなしもできませんけど」
彼女の小さな付け足しは聞こえたのかどうか。
「……よろしく、頼む」
呟かれた言葉は、小さくかすれて。
ただし、今までのどれよりも、柔らかい声音をしていた。
☆ ☆ ☆
「信じられないわ……」
がーがーと最大出力で掃除機をかける。
床を撫でても撫でてもばちばちと硬く細かな粒を吸い上げる音。
そしてバスルームからかすかに聞こえるシャワーの音に、湊はため息をついた。
異世界から王子様がやってきた、そのとき。
同時に異世界の砂も熱風とともに吹き込んだことに気付いてはいた。
しかし、その時はあまり気にはならなかったのだ。気にする余裕がなかった、と言うべきか。
最初に遠慮していたのが嘘のように朝食をおかわりまでしてきれいに平らげた王子様は、食事のせいか暖房のせいか、あるいは少し気を許してきたのか、黒い外套をばさりと脱いだ。
食器を下げつつ、食後の珈琲でも入れてみようかと思っていた湊はふと振り返る。
おそらくは砂と強い日差しから身を守るためのそれ。
砂埃で白っぽく薄汚れていた王子様のお召し物は、床に新たな砂埃をまき散らした。
王子様ご本人でさえ、眉をしかめるほどに。
そこで、やっと湊は我に返った。
元凶を問答無用で風呂場へと押しやり、リビングに溜まった砂を掃除し始めたのが現在である。
スリッパがあるとはいえ、なぜフローリングがこんなにじゃりじゃりしているのに、その上を平気で歩けていたのか。
どうやら湊は、自分が思っていた以上に頭がいっぱいいっぱいだったらしい。
王子様の身に着けていた服は、ほとんど洗濯機に放り込ませていただいた。もちろん洗濯表示などない代物だが、なんとかなるだろう。たぶん。
その中身はというと、髪の間にまで砂が入り込んでいた。風呂場でシャワーなどのひと通りの説明をすれば、自力で洗ってくれているようだ。背中を流せとか言われずに済んでよかった。
兄の服を漁って出てきた適当な服を着てもらうと、王子様はその辺を歩いて違和感のない普通のお兄さんになった。ズボンの丈が少々短いのはご愛嬌である。濡れた髪が気になるのか、タオルでぎこちなく何度も拭っている。
前のテーブルに、温かい珈琲とチョコレートを置く。これも、王子様はお気に召したらしかった。
どうやら、珈琲に似た香ばしくて苦みのある飲み物が向こうの世界にもあるらしい。
「ミチルがいつも懐かしいとこぼしていたが。これが本物のこーひーなのだな。なんだかほっとする香りだ」
「変なこだわりがあるので、兄がいれば豆を挽くところからするんですけどね。いまは豆もないし、インスタントのドリップコーヒーで申し訳ないんですけど」
向こうのはとにかくやたら苦くて苦手なんだが。
そう王子が言うので砂糖とクリームを勧めてみたが、いらないと断られた。
「ちょこれーとが、甘い。これとこーひーの苦味の相性がとてもいい」
王子の感動したような様子を見ると、チョコレートもどうやら初めてらしい。
ということは、やはり兄の備蓄は尽きているのだろう。
どうやらまだ帰ってくる気はないようだし、王子から兄へ渡してもらうことはできるだろうか。そのためには、やはり一度外に買いに行く必要もあるのだが。
……というかあの食欲魔人、もしかして異世界人相手に食べ物の話しかしていないんじゃなかろうか。
そんなことを考えながら自分も食後の珈琲を味わっていると、ふと、お隣が静かなことに気が付いた。
もともと口数が多いわけではないが、なんというか、先ほどまでの居心地が悪いような落ち着きがないような空気が薄らいでいるのだ。
見れば、王子様はいまにも寝そうになっていた。
頑張ってはいるのだろうが、こく、こくと黒い頭が揺れているし、暗緑色の双眸はほとんど瞼に隠れてしまっている。
「あの、王子さま」
「……ん」
命を狙われているという話だったし、あの過酷な環境から静かで穏やかな場所へ来て、食事をしてシャワーを浴びて気が緩めば、眠くもなるだろう。
「ちょっと寝てもいいですよ」
「……や、しかし」
「迎えが来たら、起こしますから」
「………。あいつらに、悪い」
あいつら、というのは向こう側の世界にいる兄たちのことだろう。
なるほど。いろいろと遠慮していたのは兄の発言で湊を警戒していたわけでも、初めての世界に戸惑っていたわけでもなく―――いや、それも多少あるのかもしれないが―――ひとり安全な場所にいることへの罪悪感ゆえだったらしい。
「あなたがここで何をしようと、向こうの世界は何も変わらないんでしょう? あなたが休んで元気になって、怒る人があの中にいるんですか?」
む、と王子は不満げに口元をゆがめる。
湊は、手のかかる弟を持ったような気分になった。外見から言えば、同じくらいか年上に見えるのに。
ローソファの背もたれにかかっていたひざ掛けを引っ張り、彼の肩にかけてやる。
「部下の人たちを安心させて、またこちらに放り込まれないようにしないと」
「あいつらは、部下じゃない」
「……なんでもいいですけど」
「そうだな。肩書など、何でもいい」
くしゃりと、王子が顔をゆがめる。
それは眠気を一生懸命こらえる表情にも、なんだか今にも泣きそうなそれにも見えた。
王子が完全に目を閉じてしまってから、三十分も経っただろうか。
起こさないようにとキッチンカウンターに移動していた湊は、かたりと何かが動く音にソファーへと視線を向けた。
「王子さま、起きたんです―――」
か、と続けようとした声は、途中でかき消される。
かたかたかた、というコーヒーカップと小皿がテーブルにぶつかる音によって。
やがてがちゃん、とカップが倒れて小皿をひっくり返す。中に残っていた珈琲といくつかのチョコレートが周囲に散らばる。
誰も、手を触れていないのに。
「………う」
呻き声が上がり、呆然と視線を戻す。
横たわったままの王子の表情が、ひどく険しいものになっていた。
「お、王子さまっ?」
まず間違いなく、この得体の知れない現象は得体の知れない現れ方をしたこの王子と関係があるのだろう。
そう思い近寄って呼びかけてみるのだが、「王子」と呼べば呼ぶだけ彼の眉間のしわは深く、呼吸は浅くなっていく。
そして、怪現象はさらにひどくなる。
リビングの隅やキッチンカウンターに置いてある観葉植物がざわざわと葉を揺らし、重たいローテーブルまでががたりと揺れ出した。
みしり、とグランドピアノの蓋が悲鳴をあげ、そちらに気を取られたとき。
湊は、王子によってがっちりと手首をつかまれていた。
「………っ」
驚いて腕を引こうとすれば、さらにもう片方の手が伸びてきて服の袖を捕らえてしまう。
溺れて、苦しくて、必死に何かに縋りつくように。
―――この人は、いったい何に溺れているんだろう。
ふとそんなことを思ったとき、さらに腕を胸に抱き込むように引っ張り込まれる。湊もバランスを崩してその場にうずくまった。
これでは、何もできない。
「あの、ちょっと。すみませんが王子さま……」
がしゃん。
キッチンのあたりで、何かが落ちた音がした。
これ以上しゃべるな、とでもいうように。
―――困った。
途方に暮れている間にも、大きな手はさらに彼女の手首を締め上げ、玩具を取られまいとする子供のようにぎゅうぎゅうと引っ張ってくる。これは、痣になるかもしれない。
すると。
先ほどのガラス細工が、ころんとふたりの間に転がり出た。
水色と黄色と、緑色のガラス片で作ったミルフィオリ。
青い空の下に咲く、ひたむきに空を見上げるたくさんの黄色い向日葵。そんなイメージで作った物だ。
それは、湊にとって当時の兄そのものだった。
握っていたのだろうか。ガラス細工に付けられた皮ひもをたどれば、王子の手首にぐるぐる巻きに巻き付いている。
それを見たとたん、湊はすうっと息を吐きだした。
王子に呼びかけるためではなく、彼に対して歌うために。
それは、コマーシャルで使われていたピアノ曲に後から歌詞をつけたものだった。
顔を上げて。上を見上げて。そこには青空があるから。
この空のどこかに、わたしはいるから。
そんな意味の歌詞を語り聞かせるように、優しく緩やかに音に乗せる。
動くほうの手をそろりと動かし、合わせてぽん、ぽんと肩を叩いてみる。
子守歌のように、安らかに寝かしつけたいわけではない。むしろこの怪現象が王子のせいなのだとしたら、いろんなものが壊れる前にぜひ目を覚ましていただきたい。
単純に呼び起こすのが逆効果なら、穏やかに呼び起こすしかない。
王子が何かにひどく囚われているのなら、少しでも心が軽くなればいい。そんな風に思って。
コマーシャルでは、青い空に向かって大きな鳥が翼を広げ飛び立つ。
当時はそれが、海外へ飛び出す兄と妙にかぶって見えたのを思い出す。
――――まあ、異世界にいたのなら、同じ空の下にさえいなかったのだが。
そんなことを皮肉交じりに思ったとき、ぐ、とさらに手首の拘束が強まった。
ひねり潰されるかと思うほどの痛みに、歌が途絶える。
「み、なと………?」
文字通りの目と鼻の先で、呆然と王子が呟く。
初めて名前を呼ばれた。そんなことを頭のどこかで思いながら、湊はほっと息を吐きだしす。
「はい」
「ミナト?」
「はい、そうですよ」
頷けば、彼はぱち、ぱちとゆっくり暗緑色の双眸を瞬く。
「起きましたか? うなされてましたよ」
「ああ……」
どこかぼんやりしていた王子は、はっと息を飲むと気まずそうに目をそらした。
テーブルの上の惨状に気が付いたらしい。とはいっても派手な音を立てていたわりに食器は無事で、中身が少々こぼれてしまったくらいなのだが、何があったのかは察したようだった。
「済まない。その」
「はい」
「寝ぼけた、ようだ」
「……そうですか」
湊はがっくりと肩を落としそうになった。
異世界の王子様は、寝ぼけただけでポルターガイストを起こせるらしい。
そう言えば、彼の目が覚めてからは、変な物音は聞こえなかった。いや、あるいは歌の途中から、だろうか。聞いてもどうせ分からないので、原理がどうとかは考えない事にする。
安易に「寝ていい」などとは言わないほうが良かったのかもしれない。
「濃い目の珈琲でも入れますね」
それにちょっと片付けないと、とキッチンに戻ろうとした湊は、ふと王子を振り返った。
振り返るしか、なかった。
「王子さま」
「何だ」
「……放してもらえますか?」
言われて、自分の手ががっちりと湊を捕らえていたことにようやく気付いたらしい。
王子は手を広げて湊を解放した。
妙にゆっくりと。名残惜しいとでもいうように。
「仕方がない、な」
こんなことまでひそかに呟きながら。
☆ ☆ ☆
「先ほどの歌を、もう一度聞かせてくれないか」
王子のその言葉を聞いて、湊は珈琲を吹きそうになった。
なんと王子様、寝ぼけていたのにちゃんと覚えているらしい。
期待を込めた暗緑色の双眸でじっと見つめられると、どうにも落ち着かない。寝る前まで、伏せられていることが多かったのに。
駄目だろうか、という沈んだ声に、湊はつい「駄目じゃないんですが」と答えてしまう。
「ピアノ、でもいいですか? わたし大学でピアノ専攻なんです」
「ぴあの……」
声楽も勉強してはいるし、嫌いではない。
しかし声楽専攻の学生とは当然ながら雲泥の差がある。仮にも王子様と呼ばれる人種に披露できる代物ではない。そこは、音楽を勉強する者として譲れなかった。
聞いているかどうかもわからない人間相手に子守歌代わりで歌うのと、あらためて人前でちゃんと歌うのとはわけが違うのだ。
「もともと、あれはとあるピアニストさんが作曲したピアノ曲なんですよ」
リビングの片隅、というにはかなりのスペースを占領しているグランドピアノを指させば、頭をぶつけた事を思い出したのだろうか、王子は少しだけ顔をしかめた。
それでも満からこの大きな楽器の話は聞いていたらしい。蓋を開けてぽんと一音鳴らせば、まるで吸い寄せられるように鍵盤の見える位置まで近寄ってくる。
「これが、ぴあの」
感嘆の声を了承とみなして、湊は王子のために鍵盤へと指を滑らせた。
彼女が好きなこのピアノ曲は、とにかく音が多い。後から後からほろほろとこぼれ落ちる音は繊細で、宝石箱をひっくり返したかのように華やかだ。それでいて全体の曲調はのびやかで、青い大空に羽ばたく鳥を連想させる。
そのまま、飛んで行けばいい。
持って生まれた翼で、自由に、思いのままに。
ここで、見ているから。
ふと、視界の端で何かがきらりと光ったような気がして、湊は顔を上げた。
そして目を見開く。
金粉をぱあっと空中にふりまいたような、色とりどりの光がグランドピアノの周囲にあった。
湊が奏でるピアノの音とともに光は生まれ、舞う。決して落ちもせず散りもしないそれは砂から帯になり、彼女の後ろに流れて行く。
王子の、手のひらに吸い込まれる。
「………あの、それ」
「…………」
ピアノが途切れたことで、王子は少しがっかりしたようだった。
しかし湊と目が合えばどこか気まずいような、イタズラがばれた子供のような顔つきになる。
差し出した手のひらには、直径3センチ程度の球体が乗っていた。ゆらゆらと流れる水色と緑色、そして金色の光が閉じ込められたビー玉のようなそれは、どこか湊が作ったミルフィオリにも雰囲気が似ている。
「あなた、魔法でも使えるの?」
「ミチルもそんなことを言っていたが」
ガラス玉のような球体を軽く握りしめて、王子は言う。
まほー、というものはない、と。
「だがこういう能力は持っている。大したものではないが」
単なる言い方の違いではないかと湊は思うのだが。
彼の持つ能力は“結晶化”。
水や火や空気や音など、本来であれば形の定まらない物を凝縮し固める力、なのだそうだ。
湊のピアノの音を固めたという先ほどのガラス玉もどきをもう一度見せてもらおうとしたら、なぜか断られる。
代わりにと新たに作った水を固めた立方体は、石のように硬かった。氷のように溶けることも、冷たすぎることもない。そのくせもう一度王子が触れば、あっという間にもとの水に戻ってしまう。
じゅうぶん大した能力だと思うのだが、王子のいた世界では「取るに足らない力」なのだという。
「それなのに、この年齢になってもまだ制御が甘い。さっき、見ただろう。気を抜くと暴走することもある。この能力が存在しない異世界でも、こうなるのだな」
諦めたように王子は呟いた。
「おれが頼りないばかりに、次期国王に弟を推す声が止まない。刺客を放ってくるのは、弟王子の一派だ」
「それで、命を狙われていると……」
「死んでも構わないと思われてはいるだろうが、要は旅が失敗に終わればそれでいい。今回の旅は見聞を豊かにすると同時に、おれが次期国王と認めてもらうための儀式を兼ねているからな」
さらりと言ってくれるが、内容はけっこう容赦がない。
そして、王子自身もどこか投げやりだ。
「わたしは、あなたが国王に相応しいかどうかはわかりません。あなたの国がどんなところか知りませんし」
「……そうだな」
「でも、あなたの人となりは兄が保証していますよ」
満は、あちこちに知り合いや友達がいる。それが地球の中だけでは飽き足らず、最近は異世界にまで交流の輪を広げているというのだから驚きである。
無駄に広い交友関係を誇る兄だが、実はあまり家には連れて来ない。
そこはなぜか徹底していた。とくに事故で両親が亡くなってからは、いくら兄の友達で湊の顔見知りでも、兄の許可なく家に上げるなと言われていた。
そんな大げさな、と呆れたものだが。
「ここに来れるのは、兄がよほど大切で信頼できると認めた人だけなんです」
そして湊は、兄の人を見る目を信頼している。
自分が大変なときでも、ちゃんと周りが見えている。他人を気遣うことができる。それは、悪い事ではないはずだ。
「ミチルのようだな」
きょう初めて会った気がしない、と王子は笑った。
「彼と話をしていると、自分がいかに小さな枠に囚われていたのか思い知らされる。ミチルの話す異世界の話は、とても興味深かった。お前の話とかな」
「え」
いったいうちのシスコン兄は何を王子様に吹き込んだのか。
戦々恐々としていれば、彼はミルフィオリを取り出した。
「物を標にして“道”を作るには、ただその人の持ち物であるというだけでは弱い。そこに思いがないと、“道”はつながらない。“結晶化”の特性で、おれはそういった目に見えないものでも感じることができるんだが」
王子はあらためて小さなガラス細工に視線を落とした。
それは、ひどく柔らかい表情だった。
「これに込められた思いが、とても心地よかったのだ。自分に向けられたものではないと分かっているのに、それでもひどく温かく感じて、おれの心まで穏やかにしていく。ミチルに何度も譲ってくれと頼んだのだが、妹が作ったものだからと断られた。いまも、貸すだけだと何度も念を押されている」
「……ミルフィオリだったら、もっときれいなのがたくさんありますよ」
「いや、もういらない」
王子は、懐をぽんと叩いた。
「ぴあのの音があるからな。他人ではなく、おれの為に奏でた湊の音。空を飛べる羽をもらった気分だ」
青い空に、それをひたむきに見上げる向日葵。大きな鳥の羽ばたき。
説明などしていなかったが、あれはそんなイメージの曲だ。王子の解釈はそう間違っていない。
だが、心臓に、悪い。
ミルフィオリといいピアノといい、彼が気に入っているのは湊の作った作品だ。それはじゅうぶん分かっているのだが、紛らわしい言い方をしないでほしい。
「ここに、来れて良かった。湊に会えてよかったよ」
せっかく平静を保とうと努力しているのに、王子様はあっさりと心拍数を上げることを言って下さる。
なまじ顔が整っているだけに、効果は絶大である。
「……王子さま、天然って言われませんか?」
「え?」
一方的な居心地の悪さをごまかすように、湊は言った。窓のほうへと顔をそらしながら。
「あ、そうだ。外に出てみませんか?」
「そと、か」
「時間があれば、なんですけど」
申し訳ないが、これ以上二人きりでここにいるのは居心地が悪い。非常に居心地が悪い。
幸いにも今日は久々の晴れ。多少の雲が浮かんではいるが、ガラス製ではない本物の青空がすぐそこに広がっている。
考え込む様子ながら、暗緑色の目にはちらちらと好奇心が見えていた。だしまき卵を目にしたときと同じだ。
「これも勉強、になると思いますよ。それにうちにはもうあまり食料がないので、お昼は買うかどこかで食べないといけないんです」
チョコレートは王子も気に入ったらしいし、それらを多めに買って王子から兄に渡してもらうこともできるだろう。
飛んでいくのを見守るしかできない妹としては、これくらいしか出来ない。
その後。湊と異世界の王子様は、社会見学と称して外を歩いた。
大丈夫だ。この王子様、ちゃんと人の姿かたちをしているし。そもそも、こんなところを異世界の王子様がほっつき歩いているなど誰も思うまい。
そんな大雑把な判断で出かけた街。
王子の少々整いすぎな外見ときょろきょろと珍しそうにあたりを見回す微笑ましい様子が微妙に注目を浴びたり、元同級生と遭遇してひと悶着あったりと、まあいろいろあったが。
振り返れば「まあ何とかなったかな」という程度だ。
聞かされた王子様の本名がやたら長くて、驚いたとか。
いつもは使わないというフルネームをなぜか聞かされたと同時に妙に難解で回りくどい文句とともに装飾品を渡され、それは実は世話になったお礼などではなく求婚の品だったとか。
うっかりもらってしまった湊が今度は異世界に転がり込む羽目になるだとか。
そんな事に比べれば、この1日は。
ひどく穏やかで、優しいものだった。
ありがとうございました^^