雪 part2
翌朝、秋良は強い冷え込みに襲われて目を覚ました。思わず身震いし、布団を被り直して暖を取ろうとする。が、ふと時間が気になり枕元の目覚まし時計を手に取る。液晶で時間を確認すると、もう起きなければならない時間だ。秋良は薄く開けた目を億劫そうに瞬いた。
さむ、布団出たくない。
しかし、遅刻するわけにもいかない。常識破りに躊躇しない性格だという自負はあるが、自分自身が引いた一線は守るというモットーがある。秋良にとって、遅刻は線の向こう側だ。というよりも、友達が集まっている学校に行かないということ自体が勿体ない。と考える。
もう少し温まってから起きようとも考えたが、このままでは二度寝してしまいそうな気がする。仕方ない、と渋々布団から這い出る。窓のカーテンを開くと、外は薄っすらと雪化粧をしていた。
「うわぁー、まじか」
予想していたとはいえ、実際に雪が降り積もっている景色に驚く。引っ越してきて二年経つが、この街の雪化粧を見たのは初めてだった。
家を出る直前、秋良は姉の様子を伺ったが、彼女はリビングでごろごろとこたつに甘えているだけで、どうやらバレンタインの用意をする気配はない。本当に仮病で休む気らしい。サークルを休むだけではなく、大学にすら行かない気だろうか。
「どうせ電車もダイヤ乱れてるだろうし、今日くらい自主休校しても許されるって!」
なんて考えてるんだろうな、と考えて頬が緩んだ。もう少ししっかりして欲しいが、気持ちはわかる。
からかってやろうかと悪戯心が首をもたげるが、この道路状況じゃ時間かかるかもしれないし急ごう、と思い直した。「いってきます」と行って玄関の扉を開く。
出歩く人は凍結した道と雪に慣れていないようだった。目の前で同い年くらいであろう男子高校生が尻もちをついた。秋良はといえば、雪国出身だけあって雪道には慣れている。
多少慎重になって歩いてはいたが、秋良は雪道を歩くコツを体で覚えていた。追い抜こうと意識しているわけではないが、制服の男女を何人も追い抜きながら歩いていく。
曲がり角を折れたところで目の前に見慣れた背中が現れた。ふわふわとした癖っ毛に、決して高くはない身長。クリーム色のマフラー。シンプルなデザインのリュックサックを背負った背中は猫背気味だ。
「おはよう。チャリは諦めた?」
声をかけられた春霞が振り返り、「ああ、秋良ですか。おはようです」と挨拶を返す。
「さすがにこの状況では自転車は使えないですよね」
秋良は、はて、と自分は中学生の頃を思い出した。雪でも自転車で登校していたことを思い出したが、これは地域文化の差だろうと一人で納得し、「そうだな」と無難な返事をしておく。
「それで、未来さんから何か言われたりした?」
秋良は話題を変えた。昨日から気にかかっていることだ。
「いえ、何も聞いておりませんですよ」
春霞の返答に「そっか」と肩を落とす。そうだろうなと予想はしていたが、心の準備のためにも情報が欲しかった。予想と期待は違う。
未来という人物像を思い浮かべると、何でもできそうという有能な印象とともに〝何をし出すかわからない〟という恐ろしい印象が思い起こされる。春霞から聞いた未来とのエピソードを思い返しても、未来という人物の得体の知れなさが不安を煽る。
未来が中学生、春霞が小学生の時のエピソードだったか、〝炭酸飲料は本当に骨に悪影響を与えるのか〟という疑問を抱いた未来は、生え換わりかけていた春霞の乳歯を抜き取って実験サンプルにしたという。ちなみに、コーラに付け込まれた乳歯はしばらくすると溶けてなくなってしまったという。その経過を春霞にスケッチ付きで記録させていたというからぞっとする。
「いたいけな小学生にとんでもないトラウマですよ。おかげで僕は歯が生え換わるまで不安でしたよ、屋根に向けて投げなかったから真っすぐ生えてくるかなって」
というのはそのエピソードを語り終えた後の春霞の台詞である。
「ちなみに、下の歯が抜けたら屋根に向かって投げないときちんとした歯が生えないと教えてくれたのも未来です」とも付け加えていた。
話してる間ずっと春霞は魚の死んだような瞳をしていた、というのは秋良が胸の内に留めた感想である。
まぁあの人もいい大人っていう年齢だし、無茶なことはしないと信じよう。
それから学校に着くまで、秋良と春霞は下らない話しをしながら並んで歩いた。
天気予報は外れた。正午を迎えても寒さは衰えることなく、雪は雨に変わることもなかった。生徒たちが昼休みに昼食をとっていると、流行りの音楽を遮って、午後の授業の中止及び昼食を終え次第下校するようにという旨の校内放送がかかった。
「まじか、ラッキー!」
秋良は会心の笑みを浮かべ、胸の前で拳を握った。一緒に昼食をとっていた友人たちも一様に嬉しそうにしている。
「帰りにカラオケでも行く?」
「モス行こうぜー」
「いいねいいね、行こう行こう」
皆、口ぐちに空いた午後を埋める提案を交わしている。秋良も次々と誘いの声をかけられ、「いいじゃーん、行こうぜ!」と答えかけて、春霞や未来との約束をはっと思い出した。あー、どうしようか。
……いや、待てよ。元々今日学校あることはわかってたんだし、本来授業があるはずだった時間までは大丈夫なんじゃねえの。
そこまで考えて、改めて「よっしゃ、行こうぜ!」と言おうとした瞬間、教室の扉が音を立てて開いた。目をやると、春霞である。彼は一直線に秋良に歩み寄ると、秋良に向かってスマートフォンの画面を開いて見せた。
「未来からメールです」
見れば、件名はなく、本文の欄に端的な文字列が四行が並んでいる。
御苦労様。
もう手は空いているだろ?
腹を満たしたらうちに向かって欲しい。
以上。
秋良が読み終えたのを見計らって春霞が口を開いた。
「僕たちの学校が午後から休校するのを予想していたみたいです」
秋良は複雑な表情を浮かべる。未来さんは何をするかわからないけど、一緒にいれば面白い体験はできるだろう。でも、クラスの友達とも遊びたかったなあ。
「どうします? 集まる時間引き延ばすとか、今回やめとくとか、交渉します?」
字面だけ見れば親切に提案してくれているように思えるが、春霞の声色や表情は言外にその交渉がいかに無駄か物語っている。秋良は腹を決めた。
「みんなすまんな、俺先約あるんだわ」
周囲の友人たちがええーっ、と口を揃える。
「女じゃねえだろうな?」
友人の一人が片眉を上げながら秋良に尋ねた。秋良は一瞬きょとんとしたが、すぐに意地悪そうな笑みを浮かべる。
「さあどうだろうな、今日は何の日だっけか」
色めき立った友人たちを放置し、秋良はさっと荷物をまとめると春霞を連れて教室から出て行った。
春霞が荷物をまとめるのを待ち、二人で下駄箱へ向かう。階段を降り、玄関に近付くにつれ空気が冷たくなる。
「うう、さむい……」
春霞が漏らした声に秋良は「そうか?」と相槌を打つ。
「外出る前から寒がってたらどうするんだよ、それ以上防寒できないだろ」
春霞は制服の上からダッフルコートを羽織り、首にはマフラーを巻き、手には厚手の手袋を嵌めていた。
「秋良こそなんで平気なんですか、僕から言わせてもらえばマフラーくらい巻いて欲しいですよ。見てるこっちが寒いです」
秋良は制服の上からピーコートを羽織っているだけだ。手は上着のポケットに突っ込んで、鞄は肩にかけている。
「風の子だからな。元気が取り柄」
「つまりまだ子どもなんですね、わかりますです」
春霞の指摘に秋良の得意げな顔が歪む。
下駄箱に着くと、秋良の下駄箱の蓋がわずかに浮いていた。
無意識ににやにやとしながら、秋良は蓋を開けた。綺麗に包装された小箱がいくつか入っていて、秋良は堪え切れずにふふっと息を漏らした。
「あらあら人気者は大変ですねー、精々ホワイトデーに苦労してくださいです」
靴を履いた春霞が玄関のたたきに立って秋良を見ている。秋良は得意満面で春霞を振り返った。
「僻むな僻むな、これが世の正当な評価なのだよ」
得意げに指を振る秋良に春霞が顔をしかめる。
秋良は春霞の様子を無視して小箱を取り出し鞄に詰め始めた。そこで、小箱のひとつに可愛らしい封筒がついているのに気づく。
「おいおい、おいおいおーい、これってもしかしてあれじゃないの」
ラブレター! 秋良が嬉しそうに封筒を開く。
「秋良、そういうのって帰ってから開けた方がいいんじゃ……」
「今から未来さんのところ行くならしばらく見れないだろ、ずっと気にしてるなんていやだしさ」
大丈夫大丈夫、と嘯きながら中の便箋を取り出す。
突然ごめんなさい!
百瀬くんはいつも楽しそうで、見ていて明るい気持ちになれて。
気がついたら、いつも目で追ってしまっていました。
よかったら今度、一緒に食事でも行ってくれませんか?
チョコは一生懸命作りました、よかったら食べてください。
お返事、待ってますね。
嘘です。
春霞
最後の署名を見て秋良は春霞を睨みつけると、春霞は既に校門に向かって全力で走りだしていた。
勿論、小箱の中身は空っぽだった。
「鉄槌です、これは怒れる者たちからの裁きの雷だったのです、僕はただ皆の声を聞いた代弁者、使者に過ぎないのでありますです」
襟首を捕まえられた春霞は必死に言い訳をした。高校受験はスポーツ推薦で合格し、今も校内屈指の俊足を持つ秋良から生粋の文化系男子が逃げ切れるはずもなかった。春霞は校門に辿り着く前に捕らえられた。
春霞の必死な様子を見た秋良は「手の込んだことしやがって」と春霞の頭を軽くはたき、手を離した。
「お約束過ぎてちょっと面白かったからこれで許してやる」
「はぁー、さすが秋良さんは器が大きいっすね、そこに痺れる憧れる!」
「調子いいな、お前……」
「嘘です憧れません」
「もう一発はたくぞ」
二人はハハ、と笑って校門に向かって歩く。
校門を出たところで秋良は未来の家の方角を尋ねた。春霞が「こっちです」と先陣を切った。
しばらく歩いたところで、「ここです」と春霞が足を止めた。
「おいおい、ここって……」
秋良たちがいるのは街の中でも高所得者たちが住んでいる地域である。普段なかなか訪れることのない区画であるだけに、秋良は思わずきょろきょろと辺りを伺う。
目の前の邸宅の表札には「藤本」と書いてある。間違いなくここが未来の家であるのだろう。
「こんなところで立っていても目立ちますし、入りましょう」
そう言って春霞がインターホンを押す。
「こんにちわー、春霞です」
「待っていた。入れ、鍵は開けた」
インターホン越しに未来の声が聞こえてきた。同時に目の前の鉄柵から、がちゃり、と金属音がした。
広い前庭を抜け、白い大きな扉の向かいに立つ。計ったようなタイミングで扉が開き、中から若い女性が顔を出した。肌は透き通るように白く、黒目がちな大きな瞳が印象的だ。鼻筋がすらりと通り、顎は小さく、端的に言ってしまえば美人である。
「あら、春霞くん久しぶりね。そっちの子は秋良くんかしら? 未来に聞いてるわ、入って」
見知らぬ美人に名前を呼ばれて秋良はどきんとした。
誰だ、この人は、聞いてないぞ。未来さんのお姉さんとか?
「お久しぶりです、京子さん。お邪魔します」
春霞に続いて、秋良も慌てて「お、お邪魔します」と言って中に入る。
京子に案内され、広い廊下を進む。通された部屋は客室のようで、座り心地の良さそうなソファとガラス製のテーブルが置かれている。当然のように暖房が十分に効いていて、上着を着たままの二人には暑いくらいである。
大きな窓からは雪の積もった庭が見える。統一感のある調度類は温かみのあるアンティーク調であり、そういったものに縁のない秋良にも高価なものだろうことは推測が出来た。
「上着はそこに掛けておいてね、ゆっくりしてて。今未来呼んでくるから。先に客間にいなさいって言ったのにな」
京子が指さした上着掛けを見て、二人は声を揃えて「はい」と答える。京子はにっこりと笑って頷くと、部屋から出て行った。
「うわー、落ち着かねえ」
胸に手を当てて大きく息を吐いた秋良をしり目に、春霞は上着を脱いだ。
「遠慮することはないですよ、客間はいくつかありますし、ここはなにかあっても問題ない程度の物で固めているみたいです」
とはいえ物はちゃんとしてますですよ、と付け加える。
秋良は「そんなもんか……」と言いながら春霞に倣って上着を掛ける。
二人で向かい合うようにソファに座っていると、客間のドアが静かに開いた。
「よく来た、久しぶりだな二人とも」
長髪で長身細身の男が澄んだ声を発し、笑いかける。一見女性かと思うほど整った顔立ちと色の白さで、何度か見ている秋良も思わず一瞬その笑顔に見惚れた。眠っていたのだろうか、毛先が跳ねている。目が少し眠そうに見えるのはいつものことだったかもしれない。
「僕は久しぶりでもないでしょう、未来」
春霞が不服そうに言うと、未来は「そうだったか?」と悪びれた。
「お久しぶりです」
秋良が挨拶すると、おお、と嬉しそうに声を上げて未来は秋良に歩み寄った。
が、その途中で上着掛けの脚につまづいて転んだ。いってて、と言いながらその場に胡坐をかく。
「あー、だから上着掛けは壁に掛けるタイプにしようって言ってたのになあ」
転んだ拍子にぶつけたのか、未来は鼻をさすっていた。そのままぶつぶつと文句を言う。
「えーっと、……大丈夫ですか?」
未来は秋良に向かってゆっくりと親指を立て、「大乗仏教」と答えた。……どうやら、大丈夫そうだ。
「それで、今日呼びだした用件はなんなんです?」
未来が秋良の隣に腰かけたタイミングで春霞が切り出した。
「んー、可愛い従弟とそのお友達に会いたいなーって?」
なんで疑問符つけているんだこの人は、と思ったが、自分がしゃべるタイミングではないと感じて秋良は黙っていた。
「特に秋良くんとは個人的に親睦を深めていきたいなぁと思っている」
言いながら肩に手を回され、秋良は固まった。
「悪ふざけも大概にして欲しいのです。また何かやりたいことがあるんでしょ」
春霞の半ば投げやりな指摘に、未来は「ちぇっ」と子どもっぽい仕草で肩をすくめた。
「雪ってさ、この街じゃ珍しいと思わないか」
未来は秋良の肩から腕を離し、ソファに尊大に座り直した。本題に入ったのだろうか、と秋良と春霞も身を乗り出す。
「……それが、なにか」
春霞が先を促す。質問に答えなかったのが不満なのか、未来は「つれないな」と呟いた。
「私の知的探究心がね、疼いたんだ」
未来は説明は終わった、という表情で春霞に微笑みかけた。春霞は露骨に舌打ちをした。その様子を見て秋良は苦笑いを浮かべる。なんだこれは、どうしたらいいんだ誰か説明してくれ。
それきり未来も春霞も黙ってしまった。
「……えっと、つまりどういうことなんスかね」
沈黙に耐えきれず、結局秋良は直接未来に訊いた。
「よくぞ訊いてくれた、やはり君は私が見込んだ通りだ、見どころがある!」
未来はパァっと顔を輝かせて秋良に顔を向けた。今にも抱きつかれそうな雰囲気を感じ取り、秋良は無意識にソファの端に寄った。
「これだから先を尋ねたくなかったんですよ……」
春霞は誰に言うともなくぼやいた。
「珍しく雪を見れた! 雪が降ったということは珍しくこの辺りが氷点下にあるということだろう。ニュースによると今は最強寒波とかいう代物に日本が覆われているそうだ、これはまたとないチャンスだ!」
一体なんのチャンスですか、と尋ねようとして正面の春霞の呆れたような顔が目についた。ああ、訊くなってか。と理解するも、目の前の未来はこちらから尋ねない限り先を話してくれそうにない。
仕方なく「なんのですか」と尋ねると、待ってましたとばかりに未来は立ち上がった。
「ダイヤモンド・ダストだ! 細氷だ! よく混同されている氷霧とは違うぞ。 私はダイヤモンド・ダストをこの目で見てみたいのだよ」
「ダイヤモンドダストって、あの細かい氷の結晶が空気中を舞ってきらきらする、あの?」
未来が大仰に頷く。
「見たい。美しいというではないか。ぜひ見たいのだ」
春霞が「なにかと思えば……」と口を挟む。
「ダイヤモンドダスト、つまり細氷は氷点下一〇度以下の朝方などによく観測されます。発生条件としては、気温はもちろんとして、一定以上の湿度と風のない状態があります。北海道や東北、日本海側の寒い地域では見受けられる現象ですが、この街で見るのは難しいんじゃありませんかね」
ちっちっち、と未来は指を振る。
「人間、死ぬ気になってやればなんでもできるのだよ」
「え、自力で起こすつもりだったの?」
秋良は思わず敬語を忘れてしまい、遅れて「……ですか?」と付け加える。
「やればできる、大概なんとかなる、それが私の座右の銘なのだよ秋良くん」
「この前は、やりたくないことはやらない、が座右の銘でしたよね」
未来は春霞のつっこみをにこりと微笑んでやり過ごした。
「とにかく見たいのだよ。だからやってみたい」
「んな思い付きでできるんすか、自然現象起こすなんて」
未来は弱腰になった秋良の鼻先にびしっと指を付きつけた。そして自信たっぷりに言い放つ。
「何を言っているんだ。思い付きだからこそやってみる価値があるのだよ、少年。体と心を突き動かす衝動、好奇心。やめることなど誰にでもできる、だがやろうとしなければ、やらなければ進展はない。私は、停滞などまっぴらごめんなのだよ」
そして、「そういうわけで、付き合ってくれたまえ」と締め括る。
「いやですっていうのは無しなんですよね」
春霞があからさまに面倒くさそうに尋ねると、未来は「そんなこと言わないってわかってるからな」と微笑んだ。春霞が「でしょうね」と肩をすくめる。
「方法は考えてありますですか」
「だいたいな。そのへんは歩くウィキペディアの春霞ちゃんに頼ろうかなと。秋良くんにも手伝ってもらえるしな。三人寄れば文殊の知恵って言うだろう?」
言いつつ二人に向かって飛びきりの笑顔を向ける。
この人の美貌と微笑みはずるい。秋良は春霞と目を合わせてため息をついた。