雪 part1
その日は珍しく、霰が降っていた。道行く人は皆、傘を差して体を丸めながら歩いている。雪が降れば物珍しそうに若者が外に出てきたり、早く積もらないかなと子どもがそわそわするような土地柄だ。仲の良さそうな老夫婦が寒いね、珍しいね、と口ぐちに言葉を交わしながら歩いて行く。その横を、学生服に上着を羽織った少年が追い抜いて行った。
「いってえ! 痛いって、痛い!」
真っ白な空と濡れて真っ黒になったアスファルトの間を、傘も差さずに百瀬秋良は走り抜ける。
「傘、忘れてくるからですよ。朝の天気予報を見忘れるなんて、秋良ってバカです?」
自転車で悠々と秋良と並走しているのは水野春霞。こちらは涼しげな顔で傘を差している。男の子にしては少し長い猫っ毛が、傘の内側に入り込んだ風に揺れる。
「あー、視界がやばい。見えない」
秋良は春霞のからかう声を無視して眼鏡を外し、制服の胸ポケットにしまい込んだ。
「だめだ、眼鏡外したら外したで見えねえわ」
視界奪って弾幕張るとか酷くねえか、と秋良がぼやく。クソゲーじゃん、と。
「ゲーマーが近視になっても、それは自業自得じゃ……」
春霞が苦笑する。続けて、「天気恨んでも仕方ないじゃないですか」と言う。
話している間にも霰はその勢いを増し、秋良の口からは「痛い」「寒い」「つらい」などという呟きが止まることなく溢れだす。
「すまん、限界、俺近道するわ! じゃな!」
そういうと秋良は明らかに私有地であろう民家の庭に入って行った。驚いた春霞が思わず自転車を止めて呼びかける。
「ちょっと、それまずいんじゃないですー?」
「ここ抜けたら早いんだよ、この天気だし許されるって!」
受け答える声は秋良の背中から聞こえる。秋良はそのまま振り向くことなく、躊躇うこともなく私有地を抜けて柵を飛び越えていった。
彼の姿が見えなくなったところで、春霞はひとつため息をついた。
「ほんと無茶するんだから、秋良は。まぁいいです、ネタにもなりましたし」
その手に握られたスマートフォンの画面には、民家の柵をよじ登る秋良の姿が映し出されていた。
よく撮れてる、と満足げに頷き、春霞は濡れたアスファルトを蹴った。
「酷い目にあった」
家についた秋良は服を着替え、タオルで頭を拭きながらリビングのドアを開けた。
「おかえりー、あんた傘持ってかなかったでしょー」
声をかけたのは秋良の姉の結月である。リビングのこたつに入り、テレビを見ている。
「だってさー、向こうじゃ朝から空が白くても普通だったじゃん」
秋良の言う「向こう」とは、百瀬一家が引っ越す前に住んでいた土地のことである。秋良が高校に入学するというタイミングで、父親の転勤が決まったのだった。
結月は秋良の言葉に「ああー……」と相槌を打った。
「まぁねー、雪国の冬って青空拝めることが珍しいもんね。その癖、暗く曇ってるからって雨だの雪だの降るとは限らないし、感覚麻痺しちゃうよねー」
結月は「あー、さむっ」といいながらこたつにもぐり込んだ。秋良も姉の向かいに座り、こたつに入る。思わず「あったけえー」という声が漏れる。
あ、そういえばさ。と結月が話を切り出した。
んー、と秋良が相槌を打つ。
「もうすぐ、ていうか明日バレンタインだけど、なんか浮いた話ってないの?」
むっくりと体を起こした結月がこたつの天板に肘をつき、秋良に意地悪そうな笑顔を向けた。
「もうすぐ、ていうか明日バレンタインだけど、なんで姉ちゃんはチョコも溶かさずこたつでとろけてんの?」
秋良はテレビに顔を向けたまま、負けん気の強い目を自らの姉に向ける。あうっ、という声を上げて結月は胸を押さえた。
「年頃の弟の恋愛事情を心配した姉にこの仕打ち……」
「弟としては年頃の姉の女としての在り方に不安を感じているのですが」
秋良は結月から視線を外さない。結月はしばらく鼻に皺を寄せて唸っていたが、言い返すことを諦めたように唇と尖らせてそっぽを向いた。
「皆に配ってたらキリないしー、媚び売ってるって思われるのも嫌だしー、私だって本命くらいいるしー」
「え、姉ちゃん本命いんの?」
単なる愚痴かと思えば、思いもよらない情報が飛び出し、秋良は思わず食いついた。まじかよ早く教えてくれればいいのに、どんな人どんな人、と秋良は結月をせっつく。
「あんたに教えたらそうやって根掘り葉掘り訊いて来るんだろうなーと思って黙ってたにー。悔しいから思わず言っちゃったけどさー」
ぼやく結月はこたつの天板に突っ伏して投げやりな口調だ。
「どんな人、か。うんとね、サークルの先輩でさ。なんか優しいんだよね。安っぽい紳士ぶった大学生って感じじゃなくてさ、なんていうかちゃんとした気遣いができんの」
結月は黙っていたら秋良にうるさく付き纏われることを知っていたので、尋ねる声を制する形でぽつぽつと話し始めた。
「あたしってさー、面倒なこと嫌いだし、きゃぴきゃぴした感じも苦手でさ、女の子の中でたまに浮いちゃうんだよね。別に仲のいい子もいるし、寂しいとは思わないんだけど、いつでもサークルの集まりに友達がいるわけでもなくて。そういう時にさ、なにか言うでもなく横にいてくれるんだよね、いつでも話しかけてこい、って感じで」
秋良は結月が自分に顔を向けていないことをいいことに存分に顔をにやけさせた。語ってる語ってる、これは本気だな。
「実際、こっちから話しかけても気がねなく話せるし。周りも巻き込んで輪を作ってくれるんだけど、その人選も気が効いてて。んでさ、向こうから話しかけてくる時のタイミングもいいんだよねー。あたしにだけ特別そう、って感じでもないから、正直自信ないんだけど……。ねー秋良ぁー、見込みあると思うー?」
言いながら結月は顔を上げた。最後の方はすがるような口調になっていた。秋良はいきなり自分に質問を振られてきょとんとしたが、
「とりあえず姉ちゃんが乙女モード全開なのはわかった。で、チョコ作らなくていいの?」と微妙に回答を避けた。知らない男の心情なんて、わかるかそんなもん。
「実はさー、その人もうすぐ誕生日でさー。バレンタインに一人にだけチョコ渡してたらサークルでも目立っちゃうじゃん、だから誕生日辺りにご飯でも誘って、お祝いと一緒に渡そうかなぁ、なんて」
それは二人きりの食事に応じる仲にはなっている、ということなのだろうか。推測しながら、秋良は苦笑した。
「いーんじゃないの、組織内で恋愛沙汰って面倒になりがちだし、こっそりってのも。ただ、もしその人が姉ちゃんのこと好きだったら、バレンタイン当日は期待しちゃうと思うんだよねー。俺だったらバレンタイン当日に好きな人と顔合わせたのにチョコもらえなかったら、寂しいな」
ああー、ええー、と結月が頬杖をついて唸る。
「わかった、じゃあ明日はサークル行かない。仮病使う」
これでいける、という顔で結月は自分の言葉に何度も頷いた。
「まぁいいんじゃないの、それで……」
秋良は苦笑いしながら立ちあがった。どしたー、と尋ねる姉の声に「牛乳」と答えながら台所に向かう。リビングのドアの取っ手に手をかけたところでふと立ち止まる。
「そういや姉ちゃん、なんのサークルやってたっけ」
「演劇ー」
ああそうだった、言いながら秋良はリビングを出た。
冷蔵庫から牛乳パックを取り出し、重さを確かめて飲みきれることを確認した秋良は紙パックの注ぎ口から直接牛乳を飲んだ。一息に飲み干したところで、ポケットの中の震えた。バイブレーションの間隔が短いことで「あ、メールか」と察知し、ポケットからスマートフォンを取り出す。メールは春霞からだった。
〝激撮、百瀬秋良逃亡中〟という件名のメッセージに本文はなく、秋良が必死に民家の柵を登っている様子を撮影した写真だけが添付されていた。
秋良は無言で十一桁の番号を呼び出し、電話をかけた。二回目のコールで相手は電話に出た。
「もしもし、こちら熱く燃えるジャーナリズム魂、世の現状をリアルに報道することをモットーとしております水野新聞社です」
「あー、水野さんですか。実は犯罪者を見つけたんですよー、自転車の傘差し運転と盗撮。水野春霞って奴の犯行なんだけど、これ報道していただけませんかね?」
「あ、うちそういう小さいのは専門じゃないんで。もっと特ダネじゃないと。だいたいそれ証拠不十分で立件できませんよ、うちみたいな弱小出版社だとやるだけ損な話しなんで、すいません」
切られた。秋良は通話終了を知らせる画面を見て数秒凍ったように止まっていたが、すぐに猛然とリダイヤルをかけた。今度は一回目のコールで出た。
「もしもし、こちら『届けこの想い、月まで飛んでけ皆のラブレター』プロジェクトのコールセンターです。ラブレター、もしくはポエムの投稿でしょうか?」
「形式は短歌でも大丈夫ですか」
「承っておりますです」
「冬景色 さくやこの花 ちはやふる 盗撮一枚 憎さ百倍」
「仕方ないですね及第点にしてあげます」
「お前の上から目線は何を根拠にしているのか説明してくれるか」
「いやですます」
「お前のその間違った敬語って時々他人を煽るためなのかと思うことがある」
「そんなことないでおま」
秋良は文句を言うのを諦めた。
「ああ、ところでさ、お前、朝の天気予報見てたんだよな」
突然話が切り替わったことで、春霞は「んー?」と言っていたがすぐに「見てましたよ」と肯定した。
「天気、これからどうなる感じ?」
「明日の午前中まで雪マークでしたね」
春霞は何の気なしに答えたが、秋良は少し驚いた。こっちの方で昼まで雪って珍しいな。交通機関大丈夫なのか。そんなことを頭の片隅で考える。
「じゃあ明日は学校行く時、ちょっと積もってるかもなー」
「ですねー、自転車使えなかったら困りますよ」
お前だって天気恨むんじゃん、と秋良は呟いた。
「恨んでないですー、困るっていう事実を述べただけですー」
どうやら耳敏く聞いていたようだ。
「でも実際、交通にも影響出るでしょうねー。雪慣れしてない地域ですし、融雪剤とか常備してないでしょうしね」
塩でも撒きますか、と春霞は嘯いた。
「え、塩? 幽霊じゃねえんだぞ?」
春霞は秋良の発言にしばらく閉口したようだった。やがて溜息とともに、ゆっくりとした口調で秋良に語りかけた。
「雪国出身の秋良がまさかご存じでないとは思いもしませんでしたが、雪国で一般的に使われている融雪剤は塩化カルシウムとか塩化ナトリウムが主成分になってます。知ってるかどうか不安だから言いますですが、塩化ナトリウムは、塩のことです」
さすがに塩化ナトリウムが塩であることくらいは知っている。とはいえ雪国出身のくせに、と言われて返す言葉がない秋良は苦い顔をした。
「ところで、未来がせっかくの雪だからなにかしようと言ってました」
秋良の心情を察してか春霞が話題を変える。へえ、未来さんが、と秋良もその話しに乗る。
「でも明日学校あるだろ、予報通りなら昼過ぎから雪も溶け出すだろうし何もできなくないか」
「あの人のことですからそこまで考えてないです。雪っていうのも遊ぶ口実ですよ。大学生って暇みたいですよね」
羨ましいことです、と春霞がぼやいた。
「……相変わらず色々とゆるふわだな、あの人」
「それで想像のななめ上を行く言動しますからね、従弟としては苦労してますです」
春霞の愚痴に秋良も思わず苦笑する。春霞の従兄にあたる藤本未来は、奔放な言動と、見た目の印象とは裏腹にキレる頭脳で周囲を振り回す傾向がある。春霞と仲のいい秋良は何度か会ったことがあるが、どうやらいたく気に入られたらしく時々こうやって遊びに誘われることがある。
「あの人のことだから今日の内に詳細教えてって言っても応えないよな?」
「当然」
念のために尋ねた疑問は敬語すらつけずに突っぱねられた。そうですよね、未来さんですもんね。
「わかった、とりあえず明日は空けておく。この天気じゃ部活もないだろ」
「まぁ明日の午後も天気悪そうですしね」
スポーツマンは大変ですね、そう言い残して春霞は電話を切った。
秋良は片手で頭を掻きながら、「あの人なにする気だろ」と呟き、スマートフォンをポケットに仕舞った。飲み切った牛乳パックを流し台に置くと、リビングに向かう。台所を出たところで母親とすれ違い、ただいまと声をかける。台所に入った母から紙パックを洗って捨ててないことを嗜める声が投げつけられたが、いい加減に相槌を打ってリビングの中に入った。