メガミサマ
教会の周りにいる人たちの間を、僕とアイリスは縫うように進んでいく。
「よお、リト。いつもご苦労だな」
前方から長身の青年が話しかけてきた。がっしりとした身体に、褐色の肌をしたその青年は、人懐こい笑顔を浮かべていた。
「ガイル、そっちの方はどう? 漁にはもう慣れた?」
「やっと仕事を覚え始めてきたとこだ。ヘマして親父に殴られるなんてことも減りつつあるよ……」
と、彼の顔が笑顔から驚きの表情に変わった。その顔がみるみるうちに赤くなり、今度は慌てた表情に変わる。
その視線は、僕の背後に注がれていた。
「こんばんは、ガイル。久しぶりね」
アイリスは笑みを浮かべ、しどろもどろになっているガイルの目を覗き込むようにして、そう言った。
「シ、シスターアリス……今日はミサは休みだと……」
「ええ、ミサは、ね。けれど今日はあの子を見てあげなきゃならない日だから。私が来たら、何か不都合でも?」
「いえ、そんなことは……ただ……」
「ただ、何?」
「……っ」
弄ばれてるなあ、ガイル。
惚れた弱み、ってやつなのか、屈強な海の男も、彼女の前では形無しだ。
それを知ってか知らずか、アイリスはこうしてガイルをいじめるのが楽しいらしい。
確かに、見ているこちらは楽しいのだけれど。
まあいいわ、とアイリスはガイルを解放した。
「それとね、ガイル。私は今日はシスターではないのだから、その名前で呼ぶのはやめてちょうだい。それと敬語も使わないで」
「ですが……」
「何よ。ちょっと前までは仲良く遊んでたじゃない、私たち。それなのに、リトの扱い方と私の扱い方が随分違うわ」
酷い人、とアイリスが頬を膨らませると、ガイルは
「わ、分かっ、た……アイリス」
その言葉に、アイリスが嬉しそうな表情で応じる。
そう、ミサとか儀礼だとか、そんなしがらみに囚われることのなかった幼い頃、僕たちはよく一緒に遊んだ。
アイリス、ガイル、僕、そしてベロニカ。
町中を自由に駆け回って菓子類を買い、マリハの丘に登って星を眺めたあの頃。楽しい時は思い切り笑い、悲しいときは素直に泣いた。まるで流れ星のように僕らは自由だった。世界のスピードに置いていかれないように、体一杯使ってあの瞬間を過ごしていた。
変わってしまったのはいつからだろう。ベロニカが『星の子』になることを誓って、アイリスが巫女の力に目覚めて、崇められるようになってからだろうか。ガイルが二人に敬語を使い始めてからだろうか。
いや、多分変化は徐々に始まっていたんだ。僕らが流れ星となって生きている間、本人も気づかないほどのさりげなさで、身体に杭は打ち込まれていた。やっと世界のスピードに追いついた頃、体はもうがんじがらめで駆けることは叶わない。
それは、ベロニカが『星の子』になっていなくても、アイリスが巫女になっていなくても、ガイルが敬語を使わなくても、同じことになっていたと思う。
アニタは、そういう町だった。
と、そんな様子を遠巻きに見ている集団がいるのに、僕は気づいた。
それはこの町の年寄りたちだった。ヒソヒソと何かを話し合い、冷たい視線をこちらに向けている。
その話や視線の対象が僕であることを、僕は知っている。
別に気にしているわけではない。こんなのはもう六年間ずっと経験してきたことだ。
でも、そんなにあからさまにしなくてもなあ。
僕が苦笑していると、それに気づいたアイリスが、
「それじゃ、私たちそろそろ行くわ。彼女が信者の数に潰されてしまう前にね」
ガイルとの話を切り上げ、僕に先を行くよう促した。
ガイルは一瞬名残惜しそうな顔をしたが、アイリスの目配せと、僕の視線の先にいる集団の存在に気づき、いつもの笑顔で見送ってくれた。
ぽん、とアイリスが僕の背中を軽く叩く。心配しないで、とでも言うように。
自分だって不自由な思いをしているのはずなのに、アイリスはいつもこうだ。僕は何度もそれに助けられてきた。こうして年寄りたちに非難の目を向けられてもやってこられたのは、彼女や、ガイルのおかげだった。
なかなか四人で会うことはできないけれど、一番近い場所に僕らはいるんだ。
教会の入口へは、お祈りを済ませた人たちと入れ替わるように大勢の人が入っていく。そのほとんどは怪我人や病人だった。
その人たちに続いて僕らも教会へ入る。
たくさんの怪我人病人が祈りを捧げている。まるで何かに取り憑かれたかのように、救いの言葉や称える言葉をつぶやいている。
それは神にではなく、目の前の少女に向けられたもの。
一人の信者が足を引きずりながら少女の前に進み出た。足を庇うようにしてその場に跪くと、少女はその頭を優しく抱き寄せる。
少女の目から、星のような光の粒が零れ落ちた。
それらは月光を浴びてより輝きながら、信者の背中に当たっては消えていった。
少女が手を離すと、信者は泣きながら礼を言い、元いた位置に戻って再び祈りを捧げ始める。
彼女はたった今別世界からやってきたかのように佇んでいる。世俗の穢れなど知らぬかのように。
ああ、彼女はなんて美しい微笑みを湛えているのだろう。目の前の苦しむ人々を癒す、女神のような微笑みだ。
でも、
それでも、僕にとっては、六年前のあの日以前の、星を見ては銀色の髪と瞳を嬉しそうに輝かせていた彼女が一番美しいのだった。
星とともに時を過ごすベロニカの微笑みは、美しいに加え、とても幸福だったのだから。
星の涙を流し、信者を癒す僕の幼なじみ。星たちが空に輝き始める瞬間を、彼女が見ることはもうない。それでも彼女は微笑んでいる。誰かの幸せを祈る為に。けれど、その微笑みに、幸福なんてどこにも見当たらなかった。