プロローグ
初めての長編。頑張ります。
「ねえ、ベロニカはどうしていつもお空を眺めているの」
町の家々から夕飯の匂いがしてくる頃、リトはベロニカに尋ねました。
夕日は沈み始め、向こうから夜の帳がやってこようとしていました。ベロニカはその夕と夜が入り交じる部分を見つめながら言いました。
「ねえ、リト。どうして星はあんなにたくさんあるのに、ただの一つも落ちてこないのかしら」
ベロニカの母、ゼルダはステイラ人です。ステイラ人は遠い北国、シーパンの民で、銀髪、銀眼という独特の容姿から、魔女狩りの対象だったという歴史を持ちます。既にそのような風習は廃れたとはいえ、ベロニカの父がゼルダを娶ったことをこの町の年寄りたちは快く思っていません。もちろん、ステイラの血を色濃く受け継いだベロニカのことも。
でもリトは、ベロニカの銀髪銀眼をいつも美しいと思っていました(祖母にそう言うと、決まって変な顔をされるけれど)。ベロニカの銀髪が夕日に包まれて、一層輝きを増すとき、彼女は本当はこの星の人ではなくて、何か別の、もしかしたら本物の『星の子』なのかもしれないとさえ思うのでした。
「私思うの。あんなにたくさんの星が輝くには、この空は狭すぎるんじゃないかしらって。だから、いつ星たちが零れ落ちてきてもいいように私がここで見守っているの」
ほら、私たち『星の子』でしょう? とベロニカが言ったので、リトはまた心を読まれたのではないかと少しドキッとしました。
ベロニカはときどき、リトの思っていることを言い当てることがありました。例えばそれは、リトが何か隠し事をしているとき。ベロニカはリトの瞳を覗き込みながら「嘘はだめよ、リト」と言うのです。まるで何もかも知っているというような笑みを浮かべながら。
リトにはそれが魔法のように思えました。
「アニタの星物語に、続きがあるのを知ってる?」
ベロニカは空を見上げたまま、リトに聞きました。
アニタの星物語とは、この町に伝わる御伽噺で、星の女神デトラと人間のレナとの恋物語です。
知らない、と答えると、彼女は空の一点を指さしました。
その先には、大きな輝きを放つ一番星がありました。デトラの星です。その星を先頭に、夜の闇は迫ってきていました。
「このお話には続きがあってね。ほら、デトラとレナが恋人同士になったとき、神様は怒ってレナの星を破壊してしまうでしょう? でもそのとき、デトラはこっそり別の星とすり替えたの。そして、レナは神様に見つからないよう、二度と光を放たない星になった。そのせいで、デトラにレナの姿は見えないけれど、レナはいつでも愛する人を傍で見守っているんですって」
ベロニカがデトラの星より少し横の方を指さしました。目を凝らして見ても、光は見えません。
「本当にそこにいるの?」
「そうよ。デトラは寂しがり屋だから、レナがいないと死んでしまうもの」
まるでリトみたいね、とベロニカは笑いました。
「僕はもう寂しがりじゃないよ」
なんだか馬鹿にされた気持ちになって、リトはちょっと頬を膨らませました。
「あら、そんなつもりで言ったんじゃないのよ。だって、寂しがり屋は優しい人だと思うから」
「そうかな」
「そうよ。寂しい気持ちを知っている人は、他人の寂しい気持ちも分かってあげられる人だもの」
夕日は沈み、完全な夜空になろうとしていました。星々が空に散りばめられ、その中心にいるデトラ星は一層輝きを増したようでした。
その時、リンゴーン、リンゴーンと教会の鐘が鳴り響きました。アニタでは毎日この時間にミサが行われます。リトは鐘の音を聞いた途端、飛び上がりました。
「いっけない! 今日はミサに参加しないといけないんだった!」
リトはミサが好きではありません。司祭様の言葉は難しくてよく分からないし、シスター達の歌うミサ曲は重々しくて、とても眠たくなってしまうからです。
けれど、本当に嫌なのは……。
「そうね、今日は流星群が降るんですものね」
いいなあ、私もミサに参加したーい。とベロニカはおどけたように笑いました。
流星群が降る夜、アニタではミサで身を清め、神とデトラに祈りを捧げるという儀式を行っています。しかし、これを取り仕切っているのは町の年寄りたちで、ステイラ人のゼルダはもちろん、その子であるベロニカもミサには参加させてもらえないのでした。
「魔女を聖なる行事に参加させてはならない」というのが理由でした。
誰よりも星を愛しているベロニカがミサに参加できないのが、リトはとても不服でした。
リトの心境を察したように、ベロニカが微笑みました。
「お母さんがね、十歳になったら外で流星群を見ても良いって、言ってくれたの。リトたちが広場で流星群を見るとき、私もこの場所で見ているわ」
大丈夫よ。行ってきなさい。
リトは小さく頷くと、小走りで丘を降りていきました。
帰ったら、もう一度二人で神様に祈ろう。このマリハの丘で。ベロニカの祈りが神様とデトラに届くように。
そんなことを考えていると、憂鬱に感じていたミサにも、少しだけ前向きになれるのでした。
――そのとき
リトの遥か頭上。
それまで穏やかに夜空を飾っていたデトラの星が鮮烈に輝きだしたのです。同時に、他の星たちがデトラ星を中心にして、ぐるぐると回りだしました。
それらはしだいに速度を増して。
激しくぶつかりあい
色とりどりの光を散らし。
狂ったように夜空を暴れまわります。
そのあまりに壮絶な光景に、リトは震えました。このまま世界が終わってしまうのではないかとういう恐怖と、夢のような美しい光景への感動が、リトを掴んで動けなくしているようでした。
と、
デトラの星が一段と輝いて。
リトがそれに気づいて頭上を見上げたときでした。
デトラの星は、流れ星のようにベロニカのもとに飛んでゆき、その瞳に吸い込まれていったのです。驚いたベロニカが両手で目を覆った時には、光は跡形もなく消えていました。
しん、とあたりが静まり返りました。風に揺れる草の音も、虫や動物の鳴き声さえも聞こえません。
まるで、そこにいる見えない何かに対して、生き物たちが畏怖しているようでした。
空の星たちはいつものように、静かに瞬きを繰り返しています。ただ、一番星の姿だけは消えていました。
ベロニカは目を覆ったまま、その場にしゃがみこみました。
「ベロニカ!」
リトが駆け寄ると、「大丈夫!」と彼女は叫びました。
その声は意外にもしっかりとしています。
「何が起こったの、怪我はない?」
ベロニカは答えません。ただ両目を覆い、じっと動かずにいます。
リトはそこであることに気づきました。ベロニカの両手の隙間から、僅かに光が漏れていることに。
「ベロニカ、その手を離して、僕に目を見せて」
リトがベロニカの腕を掴むと、
「やめて!」
制止の言葉が鋭く返ってきました。
「どうして! だっておかしいよ! 光が君に向かってきたのに、一瞬で消えてしまって……」
「怯えているの」
リトの言葉を遮ったその声は、泣いているようでした。
「一人ぼっちでこの世界に落ちてきたものだから、きっと不安なのね。私の瞳の中で、小さく震えている」
「何が……何が震えているの?」
リトの問いに、ベロニカはゆっくりと手を離し、目蓋を開きました。
彼女は、泣いていました。いえ、正確に言えば、その銀の瞳から、こんぺいとうのような光が次々と零れ落ちていました。光は地面に触れるのと同時に、すっと消えてゆきます。
そして瞳の奥に、小さいけれど確かに、美しい光が存在していました。
「聞こえるのよ、泣いている声が。これは、デトラの涙なのね」
大丈夫よ、とベロニカは呟いて、零れる光を掬い取るのでした。
「私が守ってあげる」
あたりに生き物の気配はなく、聞こえるのは二人の声と、星の涙が零れ落ちる音だけ。
一人の少女は誓います。
寂しがり屋な女神のために。
それがどんな運命を招いてしまうかも分からぬまま。