ちょっと逃げ道を作った姑息さに気付かず子供はにこにこご機嫌でくっついて来た。
艶やかな黒髪を滑る冷たい雫が心を震わせた。
カラ、と氷が床で僅かに潤んだ音を立てる。雪より白い素肌が粟立つのが見えた。
「これで非礼を許して欲しい」
眉一つ動かさず、やや青ざめた唇が実にサッパリと告げる。
慌てた店員がタオルを引っ掴んで飛んで来たが、騒がせてすまないと彼女は千円をテーブルに置き、店を出て行く。北風が長い黒髪を靡かせた。おろおろする店員のタオルを同様に断った僕も、迷惑代と思い千円をテーブルに置き、店を飛び出す。
フラフラした細い身体は人波に呑み込まれず避けられていた。
頭からずぶ濡れの女を、皆眉を顰め奇異なものの様に遠巻きに見る。
真冬の奇行だ、当たり前かも知れない。
危なっかしい彼女の腕を掴んで止めれば、視線は此方にも刺さる。
構うものか。此方もふらついた彼女に誤ってぶつかられてコーヒーを被ってるんだ。
冷めたコーヒーと氷水。どちらも被るのは嫌だが、果たして釣り合いなど取れるのか?
コーヒー染みは、まあ、確かに取れないだろう、結構被ったから。着心地の良いジーンズがダメになったのは痛いけど。
この寒空に青いかおして出てかれるのは寝覚めが悪過ぎた。透き通る様な肌は降る雪より白く、否、通り越して寧ろあおい。その上凄い鳥肌。
「ちょっと服屋行こう」
確か直ぐそこに在った筈。
「あ……弁償、した方が良かったか?」
呑気な口調で、男みたいな喋り方をする少女だった。潔い水の被りっぷりと凜と伸びた背に同い年くらいかと思ったが、腕を引き、半ば強引に引き摺る様に歩き出すと、キョトンと見上げて来る。その様はあどけない程幼く見えた。
高校生くらいだろうか。
そのくらいの頃の己と比べて警戒心の無さに不安になる。初対面の人間に、しかも男に引き摺られて無抵抗で良いのか?
良いわけが無い。悪い大人に騙されそうだ。
「持ち合わせはあまりない……」
「お前だってずぶ濡れだろうが。風邪引くぞ」
「私は……」
自嘲の笑みが浮かぶ。どうだっていい、と目が言葉の続きを伝えた。
イラッとした。
潔い姿勢が爽やかな美人に見えて放って置けなかったが、相手は実は子供で、しかもちょっとズレてて違う意味で危なっかしく、しかもちょっと面倒くさい。
「俺も濡れてて冷えるし、染み付きじゃどこも行けねえよ」
子供は更にシュンとした。素直な反応だ。
「で、おじさんは大人だから、ずぶ濡れな子供が寒空の下うろついて風邪引いたら寝覚め悪いわけ。解るか?」
子供は頷いたが、その目には全く理解の色が見えずどこか不思議そうですらある。
「奢られなさい。良い子だから」
コーヒーを掛けたのは此方なのにとひたすら恐縮して首を振り続ける子供を無視して服屋に引き摺って行った。
「おじさん薄給だから、可愛いのが良いとか文句は受け付けません。安くてあったかいヤツ一択。文句は一切受け付けません」
無い袖は振れん。大事な事だから二回言ったが、ワゴンセール品はピンキリだ。冒険心溢れる娘よ、お前どこに旅立とうと言うのだ。
何で洒落た清楚なワンピとブーツでカンペキなデートコーデしてるヤツが、昭和っつーかいつの時代か判らないキャラTなの。色違いも有るとか喜んで漁るな! 美少女にそんなものを着せるわけに行くか! モンペみたいなボトムも一歩間違うとダサ過ぎるからヤメロ。モッサ……ちょっと待て、隣のまともな品をスルーして何故そっちのその色を選ぶ。
このセンス……くっ、任せておけるか!
「キャラメルブーツは無事だからショートパンツにしときなさい。タイツも」
赤チェックシャツに猫耳付きフードのある白ポンチョを合わせて……高くついたが、まあ、此方のジーンズは安くて良いものがあったので良しとする。
大人には張らなきゃならん見栄を張る時もあるんだ。
諭吉よ、さらば。また会う日まで。
「着て帰るんで、タグ切って下さい。着てた服は、」
「処分して貰えるだろうか」
もう着ないから、と店員に言った彼女は晴れ晴れしたかおをしていた。自棄も自嘲も無い。可愛い服で釣れるとは本当に子供だな。
「あ、僕のジーンズは持って帰ります」
穿き心地が良いんだよ。クリーニングの染み抜きを往生際悪く試すつもりだ。
せめてクリーニング代を出すと頑なに言う少女に根負けし、冷えて寒いからと移動販売のクレープ屋台でホットチョコレートを奢らせ、二人で飲んだ。
勿論回し飲みなんて手が後ろに回りそうな事はしない。一人一つカップを持ってる。
子供は浮かんだ動物型マシュマロが溶けるのを穴が開く程眺めている。楽しそうだな。でも冷めるぞ。
「……とけてしまった」
淋しそうに子供は呟く。一口飲んで、しかし苦い呟きを落とす。
「……夢は覚めるものなんだな」
「ん?」
マシュマロが溶けたくらいで何を大仰な。
「フラれたんだ」
……あー、うん、何となく知ってた。
デートコーデだったし。その割にあおいかおして、ふらっふら。もうなんだって良い、自分なんてどうなったって良い、と自棄になる様な事があったんだろう、って。しかも服捨てたしな。
「けど、終わって気付いたんだ。相手のどこが好きだったんだろうって」
えっ?
「酷い話だろう?」
や、何と言うか……。取り敢えず真顔でこっち見んな。おじさんだって人生経験そんなに豊富じゃないんだよ。未だにボッチです。良いんだよ、仕事が恋人なんだよ!
「私は結局恋に恋をしていたんだ。相手もだから私をフッたのだろう。何だか自分と言う人間に嫌気が差してしまった」
風に靡く髪を払い、グイッとホットチョコレートを呷る。お前は晩酌するおっさんか。ビールに見えたよ。此処は飲み屋じゃない。クレープ屋台なのに。
「私は、もう一度自分と言う人間と向き合って、今度はちゃんと恋をしようと思う」
あ、この子ただの真面目なバカだ。
ってゆうか。
そういう宣言を行きずりのおじさんの目を見てすんな。頼むから。無駄に美少女だし! 無駄に漢らしい残念美少女だけども! おじさん凄い複雑です。
結局、あやふやにしてさっさと逃げる作戦は失敗、クリーニング代を後日払うと言う口実でメアドと携帯の番号をもぎ取られた。
「この押しの強さなら、きっと次の恋は成功するよ」
慰め半分嫌味半分で言えば、本当か、と子供はかおを輝かせた。
そういえば、この子残念美少女だった。嫌味部分通じてない。
まあ、良いけど。紫色してた唇がちゃんと赤味差してるし。ポリフェノールは風邪予防になると言うし、もう大丈夫だろう。
クリーニング代くれるって言うなら貰おうじゃないか。来月の小遣いが入った時も彼女が覚えていたらの話だが。
「……なあ。おかしくないか?」
「あ、次はあれが良い! あの馬!」
「あの馬、って、さっきも馬乗ったでしょう、君」
「君じゃなくミヤだ。そしてさっき乗ったのは白馬だ。今度は鹿毛にする」
うわ、真顔。
「勘弁してくれ」
「酔ったのか?」
心配そうなかお。あのね、週末のおじさんは疲れてるんですよ。お仕事大変なの。クリーニング代返すと言うから来たのに。
「何で遊園地……しかも延々子供とカップルに混じってメリーゴーランド」
苦行だ。
「ただ返すだけではつまらないだろう」
うわあ。真顔。
「あのね? おじさん寧ろジェットコースターのが好きなんですが」
御礼ならそっちのが良い。
……お嬢ちゃん、目ぇ大きいね。零れそうでおじさん心配。
「う……」
……お嬢ちゃん、本当に何歳? 小さくなって俯きがちに目に涙溜められるとハンパなく心が痛むんですが。
幼稚園児泣かせちまった様な罪悪感が胸を抉る。周囲の視線が心なしか冷たい。ザクザク刺さってる。
窮したところに列が進んで順番が回って来た。よし、乗せてしまおう。
「ホラ、順番回って来たぞ~、今度何乗るのカナ~?」
「……鹿毛の」
「ハイハイ、鹿毛ね? 行ってらっしゃーい」
過疎ってるから好きな馬に乗り放題。
手を振りせめて自分は乗るまいと思ったのに、この子僕のジャケット掴んでる! いつの間に?
係員のにーちゃん、睨むな。モデルみたいなちょいクール系美少女だが中身はかなり残念だぞ。
否、早く乗って下さいじゃないよ。後がつかえてるって、ちょ、押すな、僕はもう乗らな、ヤメ、こんなメルヘンなのに乗りたくな……。
「次は黒だ!」
再び列に並んだ子供はキラキラした目で見回し、次の馬を決める。ウン、もう好きにして。おじさん拒否権無いんだね。解った、気が済むまで付き合うよ。
……とは思ったが、閉園アナウンス鳴るまで延々メリーゴーランドとは思わなかった。
係員のにーちゃんの目が怖かった。どんどん荒んでくんだ。待て、僕もボッチだ、とは言えなかった。嘘吐くな! ボッチってゆうな! とか返って来るんだろう。非常に疲れそうだ。
僕のライフは空です。
「……あ。返すつもりのお金を使ってしまった」
……急に棒読みだな。
「あの。来月のお小遣いまで待って貰っても良いだろうか」
最初から用意してたっぽい台詞だが。
本当に何歳? そういう策が使えるのは幼稚園児か、せいぜい小学生くらいまでだぞ。
変なのに懐かれたなあ。何故懐かれたんだ。
「だから、来月、また、」
必死に、真顔で、言い募る。
「来月はジェットコースター祭になるけど良いですか?」
おじさんは大人気ない大人ですが、それでも良いですか。
デッカいお目々だな。そんなおっきく開けると落っこちるぞ。
うわあ。泣きそう。
コク、と形の良い頭がちっちゃく頷いた。
そして、グイッと拳で目許を拭い、キッとかおを上げる。
「女は度胸だ!」
あらら漢らしい。
けど、キュッと上がった唇が不敵に笑うのは悪くない。
あ~あ。
僕はおじさんで、相手は子供だぞ?
美少女だけど、中身は子供で残念で。
けど、コーヒーを掛けられても思わず見惚れるくらいの潔さで、目の前で氷水を頭から引っ被った女。
あの時にもう捕まってたのかも。
彼女の艶やかな黒髪から零れ落ちる雫が、確かに心を震わせていたのだから。
長い黒髪を靡かせぴょんっと飛び付いて来た子供は首が痛くなるくらい仰向いて、キラキラしたかおで笑う。
「今度は絶対に大切にする!」
そりゃまたえらく漢前な宣言だな。
「じゃあ僕も出来るだけ大切にする事にしよう」
この気持ちの行方が恋になるか友情になるかは、まだわからないけれど。