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京都にての歴史物語

忠実なる人

作者: 不動 啓人

 太陽はあからさまに輝いていた。

 乾燥した大地は陽を照り返し、土煙舞う都路はやけに白い。

 道を行き交う者立ちは皆俯き加減で足取りに覇気もなく、白の魔力が人々に重き枷を科しているようだった。

 その男もまた、白の魔力に犯されたように肩を落とし、纏う白き狩衣の鮮やかさは奪われ土煙にくすみ、被る烏帽子も力なく垂れていた。ふくよかな面には深く皺が刻まれ、烏帽子から覗く髪も口髭も白きその男。足取りは確かも、普遍の影響を一人避ける術などは有していなかった。

 男は堀川沿いに出ると北へのぼる。やがて左手に見えてきたのは一条大路に掛かる橋。男はその橋を渡るのではなく、手前で土手を下り河原へと下りた。

「これは晴明様!」

 橋の下にたむろする、麻衣の簡素な姿をした人々。その中の一人の若者が名を呼んだ。この声に人々の視線が男を捉え、慌てて橋下の日陰に男を招き入れ、その足下に畏まった。

 男の名を安倍晴明あべのせいめいという。齢六十五と推測される。陰陽道おんみょうどうに精通した陰陽師おんみょうじとして名を馳せているが、れっきとした殿上人てんじょうびとである。本来であればこのような場所に一人で姿を現すような身分の者ではない。

「お呼び頂きましたら、こちらからお伺いするものを」

 人々の首領らしき初老の男が畏まる。

「ふぅ、暑い、暑い。なに、少し歩きたかったのだよ」

 晴明の声音。かつては歴代の天皇、権力者が飽きぬまでに耳を傾けた、磨き抜かれたガラス管から発せられるような透明であった声音も、今や老いを隠せぬ微細な皹が露となっていた。

「いかがなさいました?」

「今宵、帝が退位なさる」

「それでは、ついに?」

花山寺かざんじにて出家なさる手筈となった」

 今上帝は後に花山はなやま天皇と呼ばれる。齢僅か19ながらも、藤原兼家ふじわらかねいえが孫の懐仁やすひと親王、後の一条いちじょう天皇を今すぐとも天皇の座に就け外戚の権力を得んと三男の藤原道兼ふじわらみちかねを以て退位させようと策動していた。道兼は花山天皇が寵愛した女御の死を深く悲しんでいるのを利用し、弔いの為と、譲位しての出家を促していたのだ。

 これに晴明も少なからず関わっていた。

「しかし、よろしいのでしょうか?私らにとっては雲の上の話だ。どうなろうが知ったことではないが、どうも遣り様が気に食わない」

 初老の男は敬意を保ちながらも恐れぬ視線で晴明を見上げる。

 晴明は微笑み返す。

「お主らしい。だが、私は帝のことを想うと、これも一つの道と思ってしまうのだよ。囚われぬ心の持ち主であるあの方に、帝位は足枷でしかない。詰まらぬ権力争いに巻き込まれるよりも、自由な日々こそ相応しい」

 花山天皇は奇矯の振る舞いが多いことで知られていた。しかし、晴明はそれらを肯定的に捉えていた。花山天皇は稀に見る純粋な精神の持ち主なのだと。穢れを知らぬからこそ、その行動は時として常軌を逸する。

 悪く言ってしまえば子供。けれど、闇の世界を領分とする晴明にとって穢れなき魂の輝きはとても美しく、好意をもってそれに接した。

 藤原一門と晴明の因縁は浅くない。晴明の今の地位は、一門にとっての大事の吉凶を占い続けてきた成果であり、一門の引き立てがあってこそのもの。今回も事前に藤原兼家から直々の相談があった。晴明は否とは言わない。己の言葉で政治の流れを変えようとは思わない。彼はただ占うだけ。占いの結果を告げただけ。そして兼家は動き出した。

「護衛は源満仲みなもとみつなか殿が手配するが、そなた達にも動いて貰いたい。動いて貰えるか?」

「あなた様には返しきれない恩がある。命令とあれば従います」

「すまない」

 晴明は皆に頭を下げた。


 寛和2年(986)6月26日夜。この夜も暗天には数多くの星々が瞬いている。晴明は己の屋敷の縁側に座り、満天の星空を眺めていた。

 歳星さいせい(木星)がテイ宿にあるテイ距星を犯していた。また、下弦の月がすばるを次々と食していった。これらの現象は共に天皇の変事を暗示していた。

 天は見事に今夜の出来事を物語っていた。

 安倍晴明は忠実なる人である。忠実に己が体得した知識、術が示す運命に従うのを信念としていた。

 手入れされた庭先に気配が動いた。

「そろそろ門前を通られます」

 月明かりに照らし出されたその顔は、一条大路の橋の下で最初に晴明の名を呼んだ若者だった。

 縁側を降りた晴明は、屋敷の門へと近付く。すると、程なく門外から戸を叩く乾いた音が響いた。この合図に合わせて若者が門の扉を開く。

 晴明は大路を遠ざかる松明の灯りを見た。

「どうかお嘆きなさいませぬよう。あなた様のこれからは、決して悪いものでは御座いません」

 晴明は静かに頭を下げた。

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